「時を重ねる」





 「二階堂先生」
 思わずそう呼びかけていた。
 背が高く、少し猫背で、丸い眼鏡をかけて。顔のしわは増えたけれど、髪もまだ黒々として、白衣を着ていなくても、名札をしていなくても、多分、気付いただろうと思う。
 二階堂先生は、振り向いて、じっと僕の顔を見た。
 「パパ、どうしたの」
 寛志がだるそうに僕のセーターの裾をひっぱった。
 「進藤くんか?」
 二階堂先生は、しばらく考えてから、僕の目を真っ直ぐに見て、そう言った。
 「そうです」
 答えながら、先生が僕の名前を覚えていたことに、驚いていた。
 「よく…覚えていらっしゃいましたね」
 先生はちょっと笑って、視線を寛志に移し、息子さんだね、どうかしたの、ときいた。
 「今、小児病棟に入る手続き中で…。風邪の熱がなかなかひかなくて、肺炎起こしかけてるって言われて、こっちに紹介状書いてもらってきたんです」
 「そうか。ぼく、いくつなの」
 寛志は黙って片手を広げ、僕の後ろに隠れるように回りこんだ。腰を屈めた姿勢で顔をのぞきこむ先生は、あの日のままだ。
 「なまえは?」
 答えない寛志に代わって、寛志です、内弁慶な子で、と答えると、
 「ひろしくんか。クリスマスまでには、退院できるように治してあげるよ。ちゃんとね」
 二階堂先生は意味ありげな表情をして、僕に目くばせをした。
 その顔は、すっかり二十年前の、青年医師だった。

 僕は小学校六年生の時、雨の日に学校の濡れた階段をすべり落ち、運悪く足を骨折した。数日後に少年サッカーの試合を控えて、とても悔しい思いをした入院だった。(ありがたいことに今のところ、後にも先にも、あれが一度きりの入院なのだが。)足が動かないだけで、他は元気なものだから、窮屈で退屈な毎日だった。学校を休めるのが嬉しかったのは最初の日だけで、次の日にはもう、つまらなくて寂しくなった。しかもまさにクリスマス前で、ケーキも食べられないのかと悲しくなった。本を読むのも嫌いだし、勉強なんてもってのほかだし。三人部屋なのに、後の二つのベッドは空きで、本当に退屈で死にそうだった。放課後の時間に、誰かお見舞いに来てくれることだけが楽しみだったけれど、そう毎日誰かがやってくるわけじゃない。一日二回の回診に、交代でやってくる先生が誰か、ひとりで当てっこしていたこともあったなあ。思わず一人で苦笑いする。
 その先生の一人が、二階堂先生だった。
 当時はまだ若い、新人医師の風貌だった。おじさんの先生の中でただひとり、お兄さんみたいで親しみがあり、回診が二階堂先生だと、嬉しかったのを覚えている。
 ふだんはぼっとした感じの先生が、突然マジシャンになったのは、クリスマスイブの夜だった。小児病棟だけのクリスマス会の最後に、みんなに魔法をかけたのだ。僕はその魔法で、満天の冬の星座を見た。なぜかクリスマス会で隣に座っていた子と二人で。他の子たちは、何を見たのだろう。あれは本当にあったことなのか、今では疑うほど不思議なできごとだった。夢のような。一緒に星を見たあの女の子は、今はどうしているのだろう。時折ふと思い出す。

 寛志の熱は、数日続いて徐々に下がっていき、少しずつ元気を取り戻していった。明日、退院になりましたよ、と看護婦さんがにこやかに告げにきたのは、二階堂先生の言葉どおり、クリスマスの前日だった。病院に退屈し始めていた寛志は喜んで、退院したら、どこに行く?としつこくきいてきた。僕、ドーナツやさんに行って、たくさんドーナツを食べたいな。
 「じゃあ、ママにきいてみようか。ママ?…美帆?」
 「ああ…ぼっとしてた。ごめん。あの窓際の女の子のベッドの脇で、編みものしてるおばあちゃん、何だか亡くなったおばあちゃんに似てて…見とれてしまった」
 妻は釈然としない顔をする。
 「二階堂先生がいらっしゃるのにもびっくりしたし、ここにいたら、なんだか小学生の頃のことを思い出すのよねえ」
 「美帆は二階堂先生を、知ってたの?」
 僕は驚いてききかえした。
 「昔、ちょっと入院したことがあってね」
 妻ははぐらかすように、あんまり覚えてないんだけど、と言った。
 「もしかして、君も」
 「何」
 「二階堂先生の…」
 しーっと口に手を当てて、妻は寛志の方をちらっと見た。まだ言っちゃだめ。妻の目は、そう言っていた。
 「どうしたの?パパ、何かあるの?」
 寛志がききたくて仕方のない顔をする。
 「そ。クリスマスは、楽しいことが、いっぱいあるからね」
 僕はすまして言った。
 「何?!何があるの?!」
 寛志が目を輝かせる。
 「寛志にも、ちゃあんとサンタさんが来るってことよ」
 「本当に?!」
 いい子にしてたらね、と妻は寛志の髪をかきあげる。
 「ドーナツやさん、明日行こうね。退院したら、行こうね、ママ」
 「うんうん、分かった。行こう行こう」

 窓際の女の子のベッド脇で、おばあちゃんの手の中の針が、魔法のように同じ動きをくりかえす。次々とできていく新しい目。白い毛糸玉がくるくる飛んではねて、するする糸が伸びていく。窓越しに差す、晴れた冬の日の光に、おばあちゃんもその毛糸玉も、溶けこんでいくように見えた。ふと目を上げたおばあちゃんは、寛志に軽く微笑んで、また針に目を落とした。







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