「時を重ねる」





 錦橋から見下ろせば、黒く、とうとうと続く流れ。土佐堀川に、街燈の灯りが白く滲んで落ちる。ひとつ、ふたつ。みっつ、よっつ。それらは光の波となり、やがてゆらゆら揺らめく、ひとつの静かな流れになる。
 私は川沿いの遊歩道を、冷たい空気で胸いっぱいにして歩く。夜風が頬にぴりぴりと痛い、十二月の夜。静かな光の川と並んで、ひと筋向こうの地下鉄の駅を目指す。クリスマスシーズン真っ盛りの街を遠くから眺めると、なぜあんなに美しいのだろう。明るい、明るい、あのネオンの束。こんな風景を、いつか見たような気がするのだけれど。
 満員のコンサートホールのロビーから溢れた人々は、あの熱気とともに、最寄駅への地下街をひととき賑わせる。その流れから逃れたくて、私は通路の反対側にある厚いガラスのドアを押した。ひとりになりたかった。
 小さな声で口ずさむのは、さっきアンコールで聴いたばかりの、せつないうた。このうたと、ガブリエル・フォーレの小曲を深く愛していた、私たち。いつものクラシック喫茶で、古いストーブが赤々と燃えるのを黙って見ていた私たち。僅かにそらした視線から、もうあれほど愛したあの人ではないのだと、痛いくらいに思い知った、最後の日。誰かがリクエストしたフォーレが流れ、ドラマのような偶然に、胸を切られる思いで別れた、あの日。あの頃このうたを好きだったことも、一緒に聴いた人がいたことも、もう忘れた。忘れたふりをしていた。過ぎてしまえば、あんな日々が存在したことは、誰にも証明できない。私にだって。忙しい、淡々とした毎日の中では、目に見えることだけが、確かな現実なのだから。そしてあれから、何年が経ったのだろう。
 ふと歌うのをやめた。同じ歌が、後ろの方から聞こえてきたから。同じコンサート帰りの人だろう。少し恥ずかしくなった。そして次の瞬間、その声の主を知っていることに気付き、愕然とした。
 振り返るのがこわい。振り返ってはいけない。けれど、別れ際に未練がましく振り返ってはいけないと、教えてくれた祖母ももういない。
 遊歩道の中ほどで、勇気をふりしぼって、振り返った。
 最後の日、背中を向けたその人は、そのままの場所でそのままの格好で、立ちすくんだ。
 数十メートルの距離に戸惑いながら、思わず私も立ちすくんだ。
 少し間を置いて、美帆、とその人は呼んだ。耳慣れた、懐かしい声。突然、堰を切ったようによみがえる、いとおしい、大切な日々。もう忘れたと思っていた。…忘れたふりをしていた。
 「まさか、こんなところで」
 簡単に崩れると思わなかった。私が長い時間をかけて、慎重に、慎重に、はりつめてきた、過去へのバリア。思わず涙がこぼれる。何のための今までだったろう。
 もうここで、と言いかけた私を制して、その人は言う。これを逃したら、もうだめなんだ。神様に、怒られる。ずっと、言わなければと思ってたんだ。
 「クリスマスにまた、『夢のあとに』を聴こう」
 フォーレのあのせつない旋律。二度と聴かないと決めていた。
 「ストーブの赤い火と、あのヴァイオリン。いつも頭から離れなかった」
 その人の長い影が揺らいだ。背中にある街燈が眩しすぎて、顔が見えない。涙で滲んで、並んだ街燈の明かりが川の流れのように連なって見える。
 冷えきった私の手に温かい手が触れた時、それまで暗くて見えなかった道が、真っ直ぐ目の前に広がった気がした。クリスマス・イルミネーションの賑やかな街に続く道。
 昔、こんなふうに遠くからクリスマスの明かりを眺めたことがあった。病院の窓から。静かに、静かに、またたく明かりが、まるで星のようで、とても胸に染みた。もう記憶の彼方に沈もうとしている、イメージだけのあの風景。なぜか温かく懐かしく、まぶたの裏によみがえる。
 地下鉄への階段を降りながら、その人の顔を、数年振りに見上げた。変わらない、懐かしい、横顔だった。
 地下街の通路は進むにつれ、少しずつあたたかく、賑やかになってゆく。




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