「時を重ねる」





 おばあちゃんの手は、いつだって魔法みたいだった。
 次々とできていく新しい目。毛糸玉がくるくる飛んではねて、するする糸が出てくる。
 「どうやるの?私にも教えて」
 クラスで、自分で編んだマフラーをしている友達がいて、いいなあと憧れていたのだ。 「こっちの指にこうかけて…難しい?じゃあ、こうやって指でつまんで、糸をくぐらせていったらいいよ」
 針にぐるっと糸を巻きつけて、針にかかった目を指でつまんで、くぐらせて…ぐにゃぐにゃだけど、ちょっとずつ、私の編んだものができていく。何度もそれを手で広げては、眺める。何とも言えない気分だ。
 「クリスマスに、おばあちゃんにマフラー編んであげるね」
 おばあちゃんはくすっと笑った。子どもみたいに。
 「じゃあおばあちゃんは、美帆にセーター編んであげようかな」
 私は嬉しくなって、なに色にしようかなあ、おばあちゃんもリクエストしてね、と言った。一緒に毛糸を買いに行こうか、という話になって、学校が学期末の懇談会で短縮授業に入る、あさってに決めた。いつもフェルトやビーズを買いにいく、商店街の手芸屋さんだ。
 「じゃあ、また来るね」
 おばあちゃんは、私の家のすぐ近所にひとりで住んでいる。そして私はほとんど毎日、学校帰りに遊びに行く。友達と一緒の時もあるし、妹と一緒の時もある。五年生になってからは、家庭科の居残りやクラブがあって、遅くなる日もあるけれど、私はおばあちゃんとおばあちゃんのうちが好きで、自然と足がそっちに向いた。お父さんもお母さんもお仕事をしているから、それが安心みたいだ。妹と二人で鍵っ子になるのが寂しいというのもある。冬の夕方なんて特に、寂しすぎて。洗濯物を取り入れて、たたんで、掃除機をかけて、お風呂を洗って、洗い物をして…時々、担当分けでケンカになる。寒い日は、外の係はいやだもの。薄暗くなっていく窓を見ながら、二人で夕方の再放送アニメを見るのも、とてつもなく寂しいことだった。それなら、さっさと「仕事」を済ませて、おばあちゃんちのこたつでお話しする方が、数百倍幸せだった。そしておばあちゃんもまた、私たちの話を、楽しそうに聞いていてくれた。

 しまった、と思った。その日、午後からの懇談会に、お母さんに持っていってもらうプリントがあることを思い出したのは、学校についてからだった。午後一時半からの、十五分の懇談。間に合うかな、と思いながら、帰宅してあわてて自転車で、お母さんの仕事場に向かう。
 お母さんを呼び出して、プリントを渡して、家に帰る途中だった。帰ったらおばあちゃんのところに行って、遅いお昼を食べて、毛糸を買いにいこう、とぼんやり考えながら公園の角を曲がったところで、私の記憶は途絶えた。

 遠い意識の向こうに最初に見えたのは、明るい大きな窓と、小さなやかんの水差し。そこがどこなのか、まったく分からなかった。
 「頭、痛い。ここどこ」
 「病院。ちょっと待って、看護婦さん呼ぶから」
 慌ててそう言って、お母さんがベッドの横にあるボタンを押した。
 あの後のことは、思い出せない。お母さんの話を聞いても、思い出せない。公園の角で、私は車とぶつかって、自転車から落ちて、頭を打った。救急車で救急病院に運ばれ、そこから国立のこの病院にまわされ、いろいろ検査をして、もし意識が回復しなければ、先生から覚悟をするように言われていたらしい。連絡を受けてかけつけた救急病院でひきつけは起こすし、こわかった、生きた心地がしなかった、と後でお母さんは言った。

 一時は命も危ないと言われたのが嘘のように、私は数日でみるみる回復した。お父さんもお母さんも、後遺症をとても恐れていたけれど、私にはそれがどういうものか、よく分からなかった。ただ、退院しても、頭の検査をしに定期的に病院に通わなければならないらしく、それがゆううつだった。
 二学期最後のお楽しみ会で、劇ができなかったことも残念だった。私の役は、誰がやったんだろう?クラスのみんなからは、お見舞いの千羽鶴と原稿用紙の手紙が届いた。この病院は学校からずいぶん離れたところにあったから、お見舞いに来てくれるお友達がなくて、寂しかった。通知票も、健康記録票も、先生が終業式の後、病院に持ってきてくれた。
 クリスマスのことも、心配だった。毎年枕もとに置かれているプレゼント、今年はサンタさん、病院まできてくれるのかなあ。お願いもまだだし。私はそこまで考えて、お父さんにとりあえず、「キャンディ・キャンディのマイミシン」が欲しい、とお願いしておいた。毎年、なぜかうちでは神棚にお願いを書いて、置くことになっているので、そうしておいてと頼んだのだ。お父さんは、分かったような分からないような、あいまいな返事をして、うなずいた。
 そうだ、おばあちゃんに編んであげる約束のマフラーも、できないままだ。悲しくなって、おばあちゃんが来てくれた時に言ったら、ただ笑っていた。いつでもいいよ、クリスマスが間に合わないなら、お正月でも、おひなさまでもいいんだよ、と笑っていた。病院では、あまり細かいことをしてはいけないと言われていたから、本も読めなかったし、編み物もできなかった。退屈している私に、お父さんが、歌の本とラジオを持ってきてくれた。それは私の唯一の楽しみだった。

 イブの夜に、小児病棟だけで開かれるクリスマス会があった。その日の夕食にケーキがついていて、それを食べた後、小さなホールに集まって、みんなでクリスマスの歌を歌ったり、クイズをしたり、先生や看護婦さんたちが出し物をしたりするのだそうだ。私はあまり気乗りがしなかったのだけれど、もう明日退院なんだし、行ってきたら、とお母さんにすすめられて、ひとりでホールに行った。
  同じ部屋でもない限り、特に親しくもない、いろんな年の子たちが集まって、だから、しんとした、ちょっとした緊張をはらんだ会だった。個室だった私は、話す人もいないまま、隅っこの壁の前で三角座りをして、ぼんやり歌を歌ったり、クイズのやりとりをながめたりした。そのうち、すぐ隣に、片足を包帯でぐるぐる巻きにして、松葉杖をついた男の子がやってきて、どっかりと腰を下ろし、壁にもたれた。
 私はますます居心地が悪くなるのを感じながら、次の出し物を見ているふりをして、その子を観察した。ケガをしていない方の足を立てて、肘をついて頭を支えている。退屈そうな目をして、何だか態度が大きいなあ、と思っていたら、不意に話しかけられた。
 「お前、どこが悪いの」
 あまりに唐突で、何も考えられずに思わず頭、とだけ答えたら、その子は目をまんまるに見開いて、「頭?!」ときき返した。そして、口を押さえて、声を押し殺して、笑い出した。私はむっとした。
 「頭を打ったの。交通事故だったんだよ」
 「ごめん。あまり間が良かったもんだから。僕は見てのとおり、骨折」
 あっさりと謝ってくれたので、とんがった気持ちがすうっとほぐれた。
 「私はもう、だいたい、いいの。明日、退院するの」
 「そうか。僕は、もうちょっとだな」
 まばらな拍手が起こって、前を見たら、看護婦さんたちの人形劇が終わったところだった。
 「…最後の目玉は、二階堂先生のマジックでーす」
 二階堂先生といえば、何度か回診で診てもらった、お医者さんになりたての若い先生だ。丸い眼鏡をかけて、背がひょろっと高くて、いつも少し猫背で歩いている。話す時、私と同じ背の高さに屈んで、丁寧に話してくれるのが嬉しくて、好きな先生だった。真面目そうで、いつもぼっとしているあの先生が手品をするなんて、意外だ。その男の子も私も、二階堂先生のマジックショーに目が吸い寄せられた。他の子たちも、しんとして先生を見ている。
 「さあ、今夜はクリスマスイブ。今からみんなに魔法をかけます」
 先生はいつものぼっとした感じではなくて、目がきらきらして、別人のようだった。
 「今年ももうすぐ終わり。いろんなことがあったね。いちばん楽しいことはなんだったかな?つらいことはなんだったかな?入院したこと?」
 みんな少し笑った。
 「いろいろ思い出して、笑って泣いて、しみじみしたら、次のこと考えよう。今度はどんなことがあるかな。何がしたいかな。…今から先生が、ちょっとだけ、それをみんなに見せてあげる」
 みんな不思議そうな、けれど真剣な顔をして先生の話を聞いていた。
 「みんなひとりひとり、見えるものが違います。さあ、何が出てくるかな。先生にも分かりません。分かるのは、それがみんなのこれからだよっていうことだけ」
 先生は、では、深呼吸して、目を閉じて、と言った。
 薄目も開けちゃだめだよと言われて、私はぎゅっと目をつぶった。
 「いち、にの、さんっ」
 先生がぱんと手をたたいたのと同時に、体がふわっと浮くような感じがした。えっと思って目を開けると、さっきの男の子と私だけが、屋上にいた。
 あれ、君たち、なんで二人一緒なんだろうね、何が見えたかい、と、耳元のような、遠くのような二階堂先生の声が、どこからともなく聞こえた。
 それは、満天の冬の星座だった。冷たく澄んだ空気の中で、潔く力強い光を放ち、またたく星たち。他のどの季節よりもくっきりと、思いきりよく輝く。
 「どの星が好き?」
 「そうだなあ、オリオン座かな。この間理科で習ったばっかりだ」
 「私は、シリウス。青い光が好き」
 そうして私たちは黙って、満天の星空をながめていた。いろんな色を見分けたくて、目をこらしてみる。どのくらいそうしていただろう。とても寒いはずなのに、寒さを全く感じない。何も考えないで、ただ星を見ていると、目から全身が空に吸いこまれそうだ。またたく光はいよいよ眩しく、何億光年の彼方にある星の生命がすぐそばに感じられる気がする。
 私はほおっと白い息を吐いて、まるいそのかたちをながめた。それが吐く息で曇った窓のガラスだと気がついた時、満天の星は離れた町のクリスマスイルミネーションの点滅になった。私はひとりで、自分の病室の窓辺に立っていた。消灯時間が近く、お母さんももう、帰ってしまっていた。あれは何だったんだろう。私、クリスマス会にほんとに行ったのかしら。
 枕もとの小さな明かりをつけて部屋の電気を消し、眠る用意をしてから、もう一度窓辺に立って、遠い町の明かりを眺めた。きらきらといろんな色の光が揺れていて、セロファンみたい。クリスマスの町、今ごろきれいなんだろうなあ。商店街のショーウィンドウには、どの店もわくわくするような飾りがいっぱいで。だけど、遠くから眺める明かりも、なんてきれいなんだろう。そんなことを、ぼんやりと考えていた。
 二階堂先生は、あの男の子と私にだけ、あんな手品を見せてくれたのかしら。
 その夜は、なかなか寝つけなかった。そして、変な夢を見た。
 あの男の子と、二階堂先生が、二人で魔法の特訓をしている夢。私はその助手をしていて、おかしな道具をいっぱい持たされていた。
 目が覚めたらもう朝で、お母さんが退院の用意でバタバタと走りまわっていた。一緒に迎えに来てくれたおばあちゃんが、クリスマスプレゼントと退院のお祝いだよ、開けてごらんと言って、きれいな和紙の包みを私にくれた。開けてみると、オフホワイトの柔らかなセーターが出てきた。もちろん、おばあちゃんの手編みだ。
 サンタさんのプレゼントは、やっぱり病院には届かなかったけれど、私にはそれで充分だった。なぜかそれが納得できて、寂しくなかった。
 あの男の子、どこの部屋なんだろう。
 結局名前もきかないまま、不思議な気持ちを抱えて、私は退院した。
 それが私の、11才のクリスマスのできごとだった。




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