なつやすみの、まんなかで

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 西浦のおばんのうちのみかん畑のわきには、狭い用水路があった。
 子供たちは隊を組んで探検ごっこに夢中になっていた。
 文字通りの蝉時雨、止むことのないアブラゼミの大合唱。じりじりと焼けるコンクリートの側溝。流れる水の音。裸足にズックや草履をつっかけた子供たちは、用水路をじゃぶじゃぶ遡る。
 毎年八月になると、いとこたちはみんな、祖母の住む家にやってくる。お盆のお茶くみ行事。お墓参り。盆踊り。そして毎日、ごはんに呼ばれるまでずっとずっと、山の中で遊ぶのだ。
 「さーわーちゃん。さわちゃんも、いこうよ」
 なみの声がした。
 さわこは下の広場で、ひとり工作に夢中になっていた。貝型をしたマカロニに、絵の具で丹念に色をつけていく。これを乾かして、貼り合わせて…夏休みの自由課題のつもりだった。妹のさおりは部屋で昼寝をしている。今のうちにやってしまわないと、昨日みたいにまたじゃまされて、いつまでたっても終わらないのだ。
 「なみちゃんは、いくのー?」
 さわこは顔を上げて、大声で叫んだ。
 「早くおいでよー。みんなもう、ずいぶん上の方まで行っちゃったよ」
 なみは半分体を上に向けながら、上半身だけねじって大声で応えた。夏らしい、明るい花柄のワンピースが揺れる。洋裁の先生をしているなみの母が、さわことお揃いで縫ってくれたものだ。赤い大きな花、橙色の小さな花。白地にたくさん咲いた花が華やかで、二人とも大のお気に入りなのだった。
 「まってー。わたしもいくー」
 さわこは少しためらった後、大声でそう返して立ち上がった。絵筆を筆洗に放り込み、パレットを足元に置いて坂道を駆け上る。みかん畑の段に手をついて、よっとよじのぼり、ズック靴を脱いで用水路に入った。浅く流れる水に足を浸すと、全身の汗がすうっと引いていく。ところどころ出っ張った水底の石に足をかけてバランスをとりながら、すでにかなり高いところにあるなみの背中に、少しずつ近付く。
 「まってー」
 甲高い声で叫んださわこに、なみはしっと口に手を当てて振り返った。さわこは立ち止まった。眉間にしわを寄せたなみが、かすかな声でしずかに、と言った。
 「へび」
 へ、と聞き返したさわこに手招きをする。
 さわこは水音を立てないように抜き足差し足で進み、恐る恐るなみの左手をつかんだ。
 「へび?」
 なみの前をのぞきこんだその時、さわこは澄んだ水の中に、長く細いしっぽを見た。それはしゅるしゅると素早く、けれど心持ち威厳を持ってゆったりと、用水路の奥の鬱蒼とした繁みの中に消えた。
 「白いへびだった」
 なみは長く濃い睫毛をしばたいて、さわこの顔をじっと見つめた。大きな黒い瞳がまっすぐさわこの目をのぞきこむ。
 「さわちゃん、見たよね」
 なみの強い口調に、答えに窮したさわこは、しっぽしか見えなかったことを言えないまま、うなずいた。白かったかどうかは分からなかったけれど、あれは確かにへびだった。
 なみー、さわは来たのか。ここに基地を作るぞお。
 はるか上の方から、たかしの声が聞こえた。
 私たちは顔を見合わせたまま、そこに立ちすくんだ。
 おーい。なみー?いるのかー?
 木陰をざわざわと風が通り抜け、蝉時雨はいよいよ賑やかになり、たかしの声がかき消されていく。小高い木々の立ち並ぶ中、アブラゼミばかりがじりじりと鳴きつづけ、まだまだ日は暮れそうにない。


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 「せんせーい、テスト時間終わりー」
 窓際の席の生徒が振り向いて手を挙げた。
 教室の後ろの掲示板にもたれ、ぼんやりしていた佐和子は腕時計を見た。一二時十分。テスト終了時刻だ。
 「はーい、そしたら後ろからテストまわして、集めて」
 佐和子は教壇に立ち、黒板の文字を消し始める。
 「先生、難しかったー」
 教壇の左横に座っている生徒が、シャープペンシルの芯をとんとんと直しながら、不服そうに訴える。ミッフィーちゃんのシャープペンシルに、ミッフィーちゃんのペンケース、ミッフィーちゃんのバッグ。このクラスときたら、いや、担当しているクラスはどこも、みんながみんな、何かしらひとつはミッフィーちゃんのグッズを持っている。教室を巡回していたら、ほんとに笑ってしまうくらい。専門学校生とはいっても、まだまだ可愛らしいなあ、と佐和子は思う。
 「こないだ、問題教えてあげたじゃないの」
 「ノートなかったら、分からないよ」
 「まあまあ。絵本発表した分の点数が大きいって言ったでしょ。大丈夫大丈夫」
 福祉専門学校の幼児科で、佐和子は文学を教えていた。女の子ばかりの、保育士志望クラス。半期の授業を2クラスずつ計4クラス、交代で担当している。彼女たちに実地で役立つ内容を取り上げたいということで、絵本を中心に授業を進めてきたのだった。
 「もうどうだっていいや、さあ、夏休みだー!」
 大きくのびをして、教壇の真ん前の席の子が立ち上がった。テストが全て終了した、安堵感。教室全体がちょっとけだるそうな、ちょっと浮き立ったような、不思議な空気に満ちている。さあ、夏休み。小学校の時から何度となく味わったその雰囲気を、佐和子は懐かしい思いで見つめていた。
 「先生、何処か行くの?」
 ばさばさとカバンに筆箱やら何やらつめこみながら、生徒が話しかけてくる。
 え、と曖昧に佐和子は笑い、先生はもうすぐ、先生になる試験があるからね、と答えた。これから最後の追い込み勉強しなきゃね。
 佐和子は教員採用試験を毎年受け続けていた。どうしても高校の教員になりたかった。今年は思いきって地元の試験をやめ、地方を受けるつもりでいたのだった。
 「先生は、先生じゃないの?」
 不思議そうな顔をして生徒が首をかしげる。佐和子は曖昧な笑顔のまま、結城さんは夏休み、何処か行くの、と聞き返した。
 「海、海!おばあちゃんちが近いの」
 うちのおばあちゃんちは山だわ、と答えながら佐和子は、大人になってからずいぶん帰っていない、祖母の田舎に思いをめぐらした。蝉時雨の降り止まぬ夏。佐和子の夏の記憶のほとんどを埋める、あの山。
 「ではみなさん、元気で夏休みを過ごしてくださいね。成績をお楽しみに」
 楽しみじゃなーい、という生徒たちの不満げな声に、佐和子は涼やかに笑い、出席簿とテスト用紙の束を腕に抱えた。

 白茶けた、盛夏の真昼の日差し。まるい日傘の影だけが、小さく足元にわだかまる。
 佐和子の家は、最寄駅から緩やかな坂を上ったところにあった。道端の小さな豆腐屋の店先では、今朝咲いた朝顔がもうしおれている。
 汗で額にはりついた前髪をかきあげ、淡いグリーンの日傘をたたみながらポストをのぞいた佐和子は、そこに自分宛の一枚の絵葉書を見つけた。表に赤い文字でair mailとしたためられてある。誰だろう。首をかしげながら取り出してみると、Nami Kishidaとしたためられてある。岸田奈美。佐和子は少なからず驚いた。
 奈美は母方の同い年のいとこだが、お互い遠方に住んでいることもあって、もう何年も連絡を取っていない。子どもの頃はそれこそ、いとこでありながらペンフレンドでもあり、遊び仲間であり、相談相手でもあった。けれどいつしかそんな距離も遠ざかってゆき、高校生の時に彼女の両親が離婚してからは、直接連絡を取ることはなくなっていた。
 それにしてもair mailというのはどういうことだろう。消印は薄くて読み取れない。と、文面の最後の一文が目に飛び込んできた。―――夢のインドは、暑くなかった・・…。
 「お姉ちゃん、帰ってたの。何してるの。そんな暑いところに立ちっぱなしで」
 佐緒里が、玄関に引いた網戸越しにこちらをのぞいている。ノースリーブのサマードレス。ふわりと裾が揺れる。この花柄、どこかで見たことある気がする、と佐和子はぼんやり思った。
 「早く入っておいでよ。すいか冷えてるよ。お姉ちゃんの分も食べちゃうよ」
 奈美ちゃんが、と言いかけて顔を上げると、もう佐緒里の姿はなかった。ほんとに昔からちゃかちゃかと、落ち着きのない子だわ、と半ばあきれながら、佐和子はくすりと笑う。生来おっとりとした性格で、生真面目にいろんなことを悩んでばかりの佐和子には、佐緒里のような性格はある意味うらやましくあった。網戸を開け、たたんだ日傘を上がり框にぽんと投げ出し、佐和子は靴を脱いだ。ああ、暑かった、とため息のようにひとりごちて、もう一度手の中にある絵葉書に目を落とした。
 暑中お見舞い申し上げます。みなさん、お元気ですか。私は今、インドの北の端の方、マクロード・ガンジという標高1800mの街に滞在中です。ここは英語もあまり通じないので、大変です。少しだけど、雪山、なんとヒマラヤが見えます。7月7日に日本に帰る予定です。夢のインドは暑くなかった…それでは。At Mcleod Ganj H.P.INDIA.
 単に憧れの地への旅行だったのだろうか、それとも何かの勉強?そしてこの一枚の絵葉書を、奈美ちゃんはどんな思いで私にしたためたのだろう。
 奈美ちゃんに会いたい。突然佐和子はそう思った。何かの糸に引かれるように、今、奈美も自分と同じことを考えている気がしてならなかった。同じものを見、同じことを考え、同じ場所にいる、と。
 それが、今年の夏休みのはじまりだった。


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