毎年七月の第三日曜は、祥太郎さんと会う日と決まっていた。
 いつからそういう決まりになったのだろう。卒業後、ゼミの仲間で一年に一度は会おう、ということで、全員――といっても私たちを入れて5人だが――が集まったのがはじまりだった。あの頃はまだ、みんなで連絡を取り合って、再会の日の予定を合わせていたように思う。あれから何年たったのだろう。いつのまにか、仕事や結婚や、それぞれの事情で一人、二人と遠方に越してゆき、今では何故か、祥太郎さんと私だけの同窓会となっていた。
 祥太郎さんは2つ年下の後輩で、中学校の先生をしている。ふだんの彼の消息は、年賀状と、たまの旅行先からもらう絵葉書程度で、ほとんど何も知らない。ぐにゃぐにゃのミミズのような、彼独特の味のある文字でいつも、元気そうな様子を知らせてくる。物事を判断する時の、バランスのよい安定感といい、ある時突然突飛な行動をする茶目っ気といい、祥太郎さんは仲間うちでもみんなに信頼され、愛されていた。
 梅雨の明けない日曜日、今年も祥太郎さんに会うべく、私は待ち合わせの場所へと向かった。ターミナル駅の巨大な地下街。迷路のようにどこまでもつながる地下通路。雨の日曜とあって、行き交う人、人、人の流れ。その波をかきわけるように泳ぎ、私は目印の本屋を探した。向かい側の壁の、大きなスクリーンいっぱいに映っている、祇園会の宵山のニュース映像をちらちらと見ながら、うろうろと本屋の入り口付近をひとまわりする。そのうち、真っ黒に日焼けした祥太郎さんが現れる。私を見ても特に表情も変えず、のっそりと口だけ開いて笑っている。
 「うわー真っ黒。すごい、すごすぎる」
 開口一番、思わず声を上げるほどに彼は黒かった。色白だった彼の、見る影もない。
 「今年から、サッカー部の顧問なんですよ。今日も試合終わってから、走ってきた」
 「休日返上かー。大変だね顧問は…」
  それから私たちは、例年のごとくとりとめのない話をしながら、例年のごとく古書街を抜け、いつものお寿司屋さんで食事をする。お互いの近況を語りあい、仲間の近況を代わる代わる報告しあい、ところどころで学生の頃のつまらない思い出話をして、盛り上がる。目に涙を浮かべて笑い転げたりもする。そんな話には本当にきりがない。私たちのいる場所が、あの頃と同じ空気で満たされ、懐かしい人々の顔や、学校の雰囲気や、エピソードが、昨日起こったことのように感じられるくらい、近くにやってくる。
 そのうち、おなかも心もいっぱいになって、店を出る。そして、あやしい雑居ビルの地下にある、紅茶専門店に行く。これも例年どおりのルートだ。傘をさして、昂揚した気分のまま、少し地上の道を歩く。ただでさえ背の低い私が、長身の彼と並んで歩くと、自分がふだんより縮んだような、妙な気分になる。これも例年のことだ。ガリバーのような祥太郎さんなのだ。
 「大島さん、お仕事の方はどうなんですか」
 紅茶にミルクを注ぎながら、祥太郎さんがきいた。
 「どうして?」
 「いや、いつもならもっとたくさん話してくれるのにと思って。今日はあんまり話してくれないじゃないですか。新しい種類の花が入ったとか、市場がどうだとか」
 私は少々口ごもった。かなり的を射た質問だったから。
 学校を出てから、好きな花を扱いたくて、花屋でずっとアルバイトをしてきた。そんな私を両親は心配して、口やかましくちゃんとした仕事を探せと言ってきた。ちゃんとした仕事してるじゃない、と私は思うのだけれど、両親にしてみれば、「ちゃんとした学校を出したのに、全然関係のないことをして、しかもアルバイトなんて」ということらしい。ちゃんとした、ってどういうことなんだろう。毎日朝早くから重いバケツを下げ、寒い季節には手をがさがさに荒らして、花や葉を切り、伝票も切り、これはちゃんとしてると言わないのかしら。けれど、全然関係のない仕事、というのは私にも痛かった。今までやってきたことは、自分にとって、全部無駄なことだったのだろうか、という思いが、絶えず心の片隅を席巻していたことは事実だった。
 「えーっと。4月には、スプレーカーネーションの新しい色が出たよ。市場ではそれが高騰してね。母の日に合わせてるからね…」
 祥太郎さんはふんふんと聞いている。そして、初歩的な質問をする。スプレーって、どういうのなんですか。ああ、それはねえ…。
 しばらくそんなやりとりをした後、また沈黙が訪れた。
 「で、大島さん、何か考えてるんでしょう」
 祥太郎さんにごまかしはきかない。それははじめからようく分かっていた。
 「うう。祥太郎さん、強い」
 そして私は、自分が今やろうとしていることを話し始めた。花の勉強を、学校に入って集中してしたいこと。そのためには、今のアルバイトを辞めなければならないこと。両親を説得できるかどうか、という不安。など事細かに。
 祥太郎さんは顔色も変えず、ふんふんと聞いていた。花の種類の話でも、人生の決断の話でも、彼はいつでも、同じように真剣に聞いている。それは相手が誰であっても同じだ。
 ひととおり話を聞き終えると彼は、じゃ、決まりですね、と晴れやかな顔で立ち上がった。何が、と問うと、大島さん、何かやるって決めたら絶対やりとげるでしょう、と伝票に手をのばして言った。そして、ここは僕が持ちます、とさっさとレジに歩いていってしまった。私はぼんやりと椅子の背にかけてあった傘の柄をつかみ、カバンを肩にかけた。中に埋めた白い封筒には、昨日届いたばかりの、花の学校の入学願書が入っている。のろのろとレジに向かって歩きながら、祥太郎さんには、全部見透かされてる、と私は思った。
 喫茶店のあるビルを出てみると、ずいぶん雨足が激しくなっていた。遠くで雷までごろごろいいはじめていた。
 「観覧車。乗りましょうよ」
 祥太郎さんは唐突にそう言って振り向き、私たちが背にしていたデパートの屋上を指差した。
 「ええ。だって、雨だよ。雷も…」
 「行きましょう、大島さん」
 有無を言わさぬ強い口調で言い、彼は先に立ってさっさと歩き出した。私はあたふたと、彼の大きなストライドを追いかけて早足になる。待って。祥太郎さん。
 足元にたちまちできた水たまりをよけながら、彼の紺色の傘と、濡れた大きな背中を見失わないように、ただそれだけを見て歩いた。

 こんな天気だから、観覧車の待ち人数はふだんよりかなり少なかった。それでも待合を兼ねた休憩所では、カップルや家族連れが十組ほど、それぞれに話をしながらぐるりと窓際の席を陣取っていた。祥太郎さんは隅っこの券売機で大人二枚のチケットを買い、黙って私に一枚差し出した。ありがとう、と小さな声でお礼を言って、私は文字どおり小さくなった。なんだか自分の話したことで、祥太郎さんに妙な心配をかけてしまったようで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 ようやく観覧車に乗りこむ頃、雷は次第に遠くなり、雨が小降りになって、空一面を重く覆っていた雲が、切れはじめた。私たちを乗せた黄色の箱は、ゆっくりと地面を離れ、ビルとビルとの隙間に見える、高い空を目指して上りはじめる。
 「ふらふらしてるよねえ、実際」
 私はため息をつきながら言った。
 「いつもふらふらと、無駄なことばっかりしてるなあと思ってね。ちっとも建設的じゃないよね。やったことが身になったこと、ひとつもない気がして」
 祥太郎さんは笑って、大きな左の靴をとんとんといわせた。いいんじゃないですか。大島さんらしいですよ、無駄なことなんて発想が。
 「僕はね」
 祥太郎さんの声が、小箱の中に響く。大きなガラス窓に、ぽつりぽつりと雨のしずくが当たっては落ち、当たっては落ちていく。
 「つきあっていた人と、別れたんですよ。この春」
 祥太郎さんはもう何年も、学生時代のクラスメートとつきあっていた。あまり詳しい話を聞くことはなかったが、仲が良さそうなことは知っていた。どうして、あんなに仲が良かったのに、と問うと、祥太郎さんは少し笑って、答えなかった。
  ゆっくりと、しかし確実に、黄色の箱はオレンジの箱を追いかけて、高く、高く、上っていく。立ち並ぶビルたちを越え、切り取られたようだった曇天が、やがて目の前に大きく開ける。雲の隙間から、青い空がわずかにのぞく。
 ああ、ちゃんと空は続いていたのだ。重い雲ばかりでは、忘れてしまう事実。もう長いこと、こんなふうに空を見ていなかった気がする。
 祥太郎さんは、じっと空を見上げたまま、動かない。
 つらいこと、迷いごと、悩みごと、何もかも、ここから吹き飛んでゆけ。
 そう思った途端、何かしら強い力が、足元から湧きあがり、全身に満ちていくのを感じた。どんなことも必ず、乗り越えてゆける。祥太郎さんの言うとおりだ。そんなふうに私は今まで生きてきた。そんなことすら、忘れかけていたのだ。日々の中で。
 大観覧車のてっぺんで、遥か彼方、私たちは暮れゆく街と梅雨空をながめた。いや、さっきの激しい雷雨の後、おそらく明けたのであろう、最初の夏の夕空を。
 その時、私は祥太郎さんを好きだ、と思った。希望的にでもなく、絶望的にでもなく、当たり前のことのように。祥太郎さんの真っ黒に日焼けした横顔と、あおむらさき色の美しい夕空を交互にながめながら、その気持ちに昂ぶるでもなく、沈みこむでもなく、ただその情景と祥太郎さんを、いとおしく思ったのだった。そして、今日のことを一生涯私は忘れないだろう、と思った。小さな小さな会話まで、いつまでも大切に心にたたみこんでおくことだろう。
 祥太郎さんは、やっぱり空を見上げていた。そして、灯りはじめた明かりが目の前に迫る頃、ようやく椅子に座り直し、もう梅雨、明けますね、きっと、と言った。
 「お、梅雨明け宣言するのだね」
 当たりますよ、僕のは、と彼はにやりとした。なんたって小学校の時、天文気象クラブに入ってたんだから。
 係員のおじさんが、オレンジの箱の鍵を開けようとしている。

 「じゃあ、大島さん、また来年」
 「一度、先生を呼んで、他のみんなも集めなきゃね」
 祥太郎さんはゆっくりと会釈をし、北へ向かう私鉄の乗り口へと去っていった。
 私は笑って手を振り、再び地下鉄への通路をたどりはじめる。
 帰宅時間近づく地下街の人波は、さらににぎやかに、あわただしく流れはじめていた。





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