桜降る夕暮れに





 仕事を定時に終えた聡子は、急ぎ足で事務所の階段を降りた。まだまだ明るい空を見上げて深呼吸する。重苦しい煙草の煙と紙のまざった匂いから抜け出す瞬間。着ていたカーディガンを脱いで、夕暮れの風にばたばたとはたいてみる。
 地下鉄の駅からあのスーパーまでは目と鼻の先だ。緩やかな坂になっている桜並木沿いに、少し歩く。花見提灯がゆらゆらと、枝から枝へはしごする。
  「お母さーん」
 はっと顔を上げたら、スーパーの駐車場の隅っこで、はなちゃんとはるちゃんが手を振っていた。思わず走り寄る。
 「大丈夫だった?困ったこと、なかった?」
 「大丈夫〜。はなちゃんがいるもん!」
 「あっはるちゃんだって〜」
 はるちゃんがふくれる。
 姉がしっかりしているとはいえ、二人は確かに就学前の年齢だ。
 だってはなちゃんも、「な」の字のまるめるところを、裏返しに書いてたもの。
 いくつってきいても、笑って教えてくれないけれど。
 知らない人ごっこが、とても楽しいらしい。
 「今日はたきこみごはんね!」
 二人が声をそろえて、聡子の両手をとる。
 スーパーに入った聡子は買い物をしながら、レジ係や売り場の店員にこの子たちの母親のことを尋ねてみたが、誰もが昨日と同じように首をかしげ、「迷子のお問い合わせは、ありませんねえ」とくりかえすだけだった。親切なレジのおばさんが、「警察に届けた方がいいよ」と神妙な顔つきで言う。
 「そうですねえ・・・」
ふと見ると、はなちゃんとはるちゃんは、変な顔をして曖昧に笑っている。
 「たきこみごはんだよ〜」
歌うようにはるちゃんが言う。これ以上ややこしい話になってほしくなかったのだ。
 大人の話って、退屈。
 はなちゃんの顔が、そう言っていた。
 聡子はレジのおばさんにありがとうを言ってかごを持ち上げた。
 持ち歩いている木綿のバッグを開いてごそごそと買ったものを詰め、二人の手を引いて自動ドアの前に立った。微かに夜のにおいのする風がふうっと吹きこむ。
 「たきこみごはんだよ〜」
 はるちゃんが歌いながら聡子の右手をぎゅっと握りなおした。ひんやりと汗で湿った小さなてのひら。見上げるくるくるした目。
 「おいしいんだよ〜」
 はなちゃんがふざけて、両の手で包むように聡子の左手を持ってひっぱる。
 「だめだめ、カバンが肩から落ちちゃう」
 重いバッグを肩にかけなおしながら聡子は、この子たちはじきに私のそばから居なくなる、とふと思った。どうしてだか分からないけれど、いつか、夢の中の出来事のように輪郭のぼやけた、あたたかな余韻だけの思い出になるのだ、と。
 駐車場を抜け、花見提灯の波に照らされながら、聡子とはるちゃんとはなちゃんは歩いた。たそがれの薄暗闇にほの白い桜の花びらが映える。はなちゃんがきれいだねえ、と言い、きれいだねえ、とはるちゃんも応える。
 「…しあわせだねえ」
聡子がうっとりとつぶやくと、二人は声を揃え、嬉しそうに、しあわせだねえ、と言った。一瞬、その大人びた微笑みに聡子はどきりとする。
「まだ、」
行かないよね。思わず問いかけそうになった。
「お母さんのたきこみごはん、早く食べたーい」
 見るとはるちゃんとはなちゃんは、すっかりいたずらっ子の顔に戻っている。くすくす笑って、追いかけっこを始めた。
「お母さん遅い〜」
「車が来るよ、そこストップー!」
 きききききー!と言いながら二人は立ち止まり、満面の笑顔で聡子を振り返る。二人の上に、はらり、と白いひとひらが舞い降りた気がしたが、それは気のせいだった。


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