ガラス窓のある風景


 自動ドアをくぐると、沈丁花がほのかに香る。「本日は閉館しました」の札を下げに出るのも、そう
苦痛ではなくなった。日もずいぶん長くなり、来月には小学校の下校時刻が三十分遅くなる。春はすぐ
そこまで来ているのだ。
 今日は森川さんと、あの豆腐料理の店にいく約束をしていた。館員のみんなに好評だった忘年会以
来だ。手早く身支度をし、二人で図書館を出る。帰り際、斎藤さんに、おやお揃いでどちらへおでかけ、
とからかわれた。
 予約を入れてあったので、すぐに大部屋に案内された。ついたてがいくつもあって、席が仕切られて
いる部屋だ。私たちは申し合わせたとおり、生麩田楽と柚子のアイスクリームがついているコースを注
文した。森川さんは難しい顔をして、
 「小豆豆腐も死ぬ程おいしいんだよ。どうする、ゆきちゃん」
 と言う。そういえば忘年会の時に、森川さんは主任の小豆豆腐を味見して、横取りしていたっけ。私は、
後で別に頼みましょう、と笑いを噛み殺した。
 「あれからずっと考えてたんだけど」
 よく冷えたビールをグラスに注ぎながら、森川さんが口火を切った。
 「ゆきちゃんと白木くん、同時に同じ夢を見ていたんじゃないの」
 昼休み、祐一との旅の話から、「ラ・ストラーダ」での再会までを、森川さんに話したのだった。彼女が
うーんとうなったまま時間切れとなり、会話もそこそこに切り上げて、お互い仕事に戻ったのだ。
 「だけど、私はあの時、一日お休みもらってたでしょう。確かに、旅に出たんですよ」
 「ところがその頃彼は、風邪をひいて部屋でふせっていた。―――うーん。分からない」
 森川さんは眉間にしわを寄せた。
 「なんだかフィリパ・ピアスを思い出す。ゆきちゃんは、白木くんの夢の中に入りこんでいたのかなあ」
 ほんとかどうか分からないけどね、と森川さんは生クリームの豆腐をつついた。不思議は不思議とし
て、いちいち理詰めにしなくてもいいと思うよ、とつぶやきながら。
 次々出てくる料理のおいしさに、しばらく食べることに集中する。最後にデザートのアイスクリームと
小豆豆腐が運ばれてきた。
 「ゆきちゃんだから、話してしまうけど」
 小豆豆腐の半分残ったお皿を私に差し出して、森川さんは真顔になった。
 「私、図書館をやめるかもしれない」
 どうして、と問いかけた私を制して、彼女はぽつぽつ語りだした。
 「今の仕事は、とても自分に合っていると思う。高校生の頃から就きたかった職業だし。厳しい募集
 状況の中で、大学を卒業してすぐ図書館に入れたのも、すごく幸運だったと思う。だけどここ一年く
 らい、これでいいのかなって悩んでた。贅沢だと分かっていても、このままずっとこの仕事を続けて
 いくことが怖くなった。だんだん先のことが見え始めたというか。とにっく、精神的にも経済的にも
 安定は得られるんだけど。その代わり、学生だった時には縦横に広がっていた可能性の道が、あの
 頃の心もとない不安と引き換えに、どんどん狭く細くなっていく。それに耐えられなくなったの」
 私は話しながらお茶を入れてくれている森川さんの手元をじっと見ていた。香ばしい湯気が薄く立ち
のぼる。
 「もしかしたら私たちはもう、可能性よりも安定した生活の蓄積を求めなければならない年なのかも
 しれないけれど」
 森川さんは私を見て、小さく微笑んだ。
 「ちょっとだけ、冒険してみようかなと思って」
 それからいたずらっ子のような顔になって、もーらった、と小豆豆腐の最後の一切れを口に放りこん
だのだった。私はあ、ずるい、と言ったきり、森川さんの笑顔をじっと見つめていた。お勘定の表袋に
書かれていた「一期一会」の意味を思いながら。

 「由希子、どれにするの」
 ぼんやりしていた私は、急いでショーケースのドーナツを指差した。里美がしっかりしろよ、とつぶや
きながら店員に注文してくれる。
 奥の窓際の席につくと里美は、白木くん、ピアノ弾いてくれるらしいよ、と早口で嬉しそうに告げた。
コーヒーにミルクを入れてかきまぜながら、私は努めて平静を装う。
 「よかったじゃない。連絡、取れたの」
 「昨日、電話かかってきたんだ。ずいぶん留守にしてたんだねって嫌味言ったら、小田さんには負け
 るなあって大笑いされた。どういうことよ。仕事が忙しかったらしいけどさ。どうするの、弾くの弾かない
 のってきいたら、弾きます、小田さんのためなら、ってさ。ずっと笑ってるし。馬鹿にしてるよ。最初から
そう言えばいいのにね」
 それではほとんど脅迫だ。私はこらえきれずに笑った。
 「由希子まで何よ」
 ドーナツをもごもごほおばったまま里美がふくれる。
 「そういえばあんたたち、会ったんでしょ。あそこの店で」
 「祐一が何か言った?」
 「白木くんの電話番号、私がゆきに教えたのかって。教えないよって言ったら、ふうん、それならいい
 んだって。由希子、どうやって白木くんと連絡取ったの」
 「分からない」
 里美が不服そうに私をにらむ。しかし本当に分からないことだらけだ。私は困って、そのうちちゃんと
説明するから、と答えた。
 「まあいい。また会うらしいわね。よろしく言っといてね」
 由希子の好きな暗いワルツ弾かないように伝えて、と里美は念を押した。その真剣な表情が可笑しく
て、私はまた笑いころげた。

 四月初めの日曜日の午後。大学近くのあの駅で、私は祐一を待っていた。
 日差しはやわらかく、駅前の噴水に虹がうっすらかかっている。そのまわりで、子どもたちが遊んで
いる。それを横目で見ながら、電車が着くたび改札口の向こうに彼の姿を探していた。
 「今日は休ませて悪かった」
 改札を抜けてくるなり、彼はそう言った。
 「振り替えただけだから、いいの」
 「図書館に勤めていると、そういうところが不便だな」
 祐一が気の毒そうに言うので、そうでもないよ、と私は弁解した。平日の休みも、悪くはないものだ。
休日の昼間の開放感はたまらないし、週末、親子連れでごった返す閲覧室を行ったり来たりしている
と、我ながら真面目に働いているなあとしみじみ感じる。疎外感は多少あるけれど、そんなに不便だと
思ったことはないよ、と説明すると、祐一は納得したようだった。
 明るい晴れた午後を二人で過ごすのは、おそらく学生の頃以来だ。森川さんの言うように、数ヶ月
前からの出来事がすべて夢だったのならば。―――私たちは黙ったまま、どちらからともなく駅の高架
下をくぐり、「あんず」の方に足を向けた。本屋、文房具屋、パン屋、そしてスクランブル交差点に面して
ファストフード店。何も変わっていない。しかし、その斜向かいにやはり「あんず」はなかった。
「インターネット・カフェ」の看板を掲げた真新しい小さなビルが、そこに建っていた。
 「『あんず』、もうないんだな」
 祐一がぽつりとつぶやいた。うなずいた私は、彼もそれを知っていたらしいことに気が付いた。
 「今年の正月休みに、ここに来てみたんだ。卒業して四年も経つと、今の生活がすっかり当たり前に
 なってしまった。そうするとだんだん、あの時代が本当にあったのかなって気がしてきて。―――そ
 れに」
 ひと呼吸ためらって、ここに来れば由希子が待っているような気がしたんだ、と彼は言った。
 信号待ちの人々に紛れて、私たちは長いことそのビルをながめていた。窓に太陽が反射して、白く
光っている。そのまぶしさに目を細めながら、もうここで信号を待つ必要がなくなったことを、祐一も私
も痛いくらいに感じていた。ここではない場所で前へ進んでいくしかないことを、今の私たちは知って
いた。

 校門前の大きな桜が花を咲かせ始めている。濃い桃色のつぼみと、白く淡い色をした花。覆いかぶ
さってきそうに張り出した枝々が、青空にくっきり浮かび上がる。祐一はその幹にもたれて、ずっとそれ
を見ていた。
 「去年の暮れぐらいから、異常に忙しくなってさ。深夜に帰ってまた朝早く出勤して、の繰り返しで。
 寝ようと思っても眠れないんだ。うとうとして、すぐ目が覚める。そのうち体も参ってきて、おかしな夢
 を見るようになった」
 祐一は相変わらず空を見上げている。
 「俺は学生で、『あんず』に行くんだ。ガラス窓の向こうで由希子が待っていて、やっぱりアーモンド
 オーレを注文している。あの頃の夢なんだが妙にリアルで―――起きたら、指先にピアノをたたいた
 後の感触が残っているんだ。少し熱をもって、十本の指がそれぞれ意志を持っているような」
 さらさらと風が吹いてきて、桜の花が震えるように揺れる。祐一は淡々と話し続けた。
 「眠りが浅いと夢が生々しくなるのはよくあることだ。最初はそう思って、深く考えなかった。だけど、
 回を追うごとに夢の断片が胸に食いこむというか―――あの頃思うようにいかなかったことや、
 できなかったことを少しずつ思い出して。ああ、俺は今も後悔していることがたくさんあったんだなあ
 と気が付いた。その時に、恥ずかしい話だが大泣きした」
 彼は視線を下げて、照れたような顔をした。
 「俺、格好つけてたんだな。あの頃はずいぶんと。ゆきにも、周りにも。いろいろ悩んだりもしたけれ
 ど、それをどこにも投げ出せなかった。自己満足でしかないと思ったピアノも、結局やめてしまったし。
 だけど分かったんだ。ゆきと『猫ふんじゃった』弾いた時に」
 なぜ、と言いかけて、口をつぐんだ。おそらく彼は気付いているのだ。私たちが夢ではなく、ある時間
を共有していたということに。
 「子どもの素直な音を聴いて、心の中で何かが動いた。あの時、本当に弾きたいと思ったんだ。弾か
 ずにはいられない。その思いが一番で、他人がどう思うかなんてのは二の次だ。あの頃そう言いな
 がら、どこかで評価を気にしている自分がいた。そいつに見張られて息苦しかったし、とても窮屈だっ
 た。だけどあの時、やっとそこから抜け出せたんだよ。もう、自分が自分らしくあることを、縛る必要は
 ないんだ」
 由希子、ありがとう、と言って、祐一は私の目をまっすぐに見つめた。そして、決定打はショパンの楽譜
だったな、と笑った。
 「由希子に無期限貸し出し中のはずなのに、いつだったかの朝、目が覚めたら部屋のテーブルの上に
 返却されてたんだ」

 由希子ちょっと来て、という姉のうわずった声に驚いて、私は重いダンボールを足元に置いた。何やら
興奮した様子で、石塚さんと話をしているのが聞こえる。慣れない間取りにどこにいるのか見当がつか
ず、その声を頼りに進んでいくと、奥のリビングにたどりついた。引っ越しの手伝いに来た石塚さんの
友人たちと姉夫婦が、埃っぽい床に座りこんでいる。彼らの視線を一身に受けて、咲が真ん中に立って
いた。
 「咲がね、歩いたの」
 姉が私を振り返る。満面の笑顔。それは石塚さんも同じだった。
 「お誕生を過ぎたのに、なかなかだったでしょ。個人差があるものだけど心配してたんだ」
 連れてきて良かったね、と石塚さんがにこにこして言う。今日は片付けが大変なので咲をうちの両親
に預けてくる予定だったのだ。ところが咲がぐずったので、仕方なく子連れで引っ越し、となった。さっき
から私は片付けの手伝いよりも咲の相手をしていて、姉はやっぱり預けてくればよかったとぶつぶつ
言っていたのだった。
 「ほら、咲ちゃんこっちこっち」
 姉が手をのべる。咲はその手をつかもうと、慎重に歩む。一歩、二歩、三歩。転びそうになったところ
を、姉がさっと抱きとった。
 「見た?由希子」
 「うん。すごい」
 答えながら私は、この子の未来を思っていた。この一歩から始まる、無数の幅広い道。その無限の
可能性を、この子が自分で選びとっていくのだ。
 「よし。お祝いに、お姉ちゃんがピアノを弾いたげる」
 広いリビングの隅っこに、ピアノがぽつんと置かれていた。結局姉は例のソファではなく、実家のアプ
ライトピアノを選んだのだった。まだカバーもかけられていない黒い蓋を、そっと持ち上げてみる。
私は立ったまま、予行演習済みの「猫ふんじゃった」を弾いた。
 「お姉ちゃんじゃなくておばちゃんよねえ、咲」
 そう言って姉は立ち上がり、私の側に来て高い方のパートを弾き始めた。二人でこんなふうにピアノ
を触るのは、何年振りのことだろう。姉の練習の合間にこれを弾いて、よく遊んだものだ。懐かしいね、
と姉が嬉しそうにつぶやく。
 「ところで、どうしてお祝いが『猫ふんじゃった』なの」
 石塚さんの友達が不思議そうな顔をする。姉と私は顔を見合わせ、それはつまり、猫をふんづけるく
らい歩けるようになったってことよ、と苦しい言い訳をした。

 いらかのなみと くものなみ
 かさなるなみの なかぞらを
 小学校の校庭から、元気のいい歌声が響いてくる。この小学校では音楽集会というのが週に一度
あって、低学年と高学年に別れて、歌を歌ったり、楽器を演奏したりする。晴れた日にはこうして、外で
気持ちよく歌っているのが聞こえてくるのだ。
 たーかくおーよーぐーや、こおいーのーぼりー
 カウンターでは、斎藤さんが歌っている。新着図書の整理をしながら、私はくすりと笑った。開け放し
た窓から、葉桜が風にそよいでいるのが見える。みずみずしい季節の到来だ。
 「ゆきちゃん、ちょっと早いけど昼休憩どうぞって」
 森川さんが二階の配架を終えて戻ってきた。はあい、と返事をして、ざっと机の上を片付ける。いつも
お弁当の私たちは、たいてい一緒にお昼をとるのだ。
 「あれから白木くんに会った?」
 給湯室の冷蔵庫を開けた森川さんは、あ、冷たいお茶がある、と嬉しそうな顔をした。
 「いいえ。前にお話しした一度だけ。忙しいみたいだし、休みの日も違うので」
 「そう。だけど、良かったじゃない。何だかよく分からないにしろ、タイムスリップでも、きつねでもなかっ
 たから」
 ドラえもんでもなくってね、と私は笑った。
 「ゆきちゃん、どこかふっきれたみたいだね。朗らかになったよ。白木氏に関して」
 お箸箱をかたかた鳴らして森川さんが言う。
 「去年の暮れから特にだけど―――その前からもずっと、戒律を隠し持ってるみたいで、見てられな
 かった」
 「お坊さんじゃあるまいし」
 「ほんとだよ。ゆきちゃんの話、今までたくさん聞いてきたけど、いつもそこが基点だった。いつもそこ
 を基準にして、自分を測ってたよ。だから、良かったと思うんだ。白木氏と再会したこと」
 そうかもしれない、と私はぼんやり考えた。私の中で祐一の存在がひとつの禁忌であったことは確か
だ。封印した過去の中心に彼はあったのだから。しかし、思いがけない再会が封印を解き、記憶の風化
を知らせた。そしてあの時、強くなれると思ったのだ。
 「森川さんの言うとおりかもしれない」
 私はガラスのコップを二つ出して、冷蔵庫のお茶を注いだ。ふだん冷たいものをすすんで飲まない
私には、初物だ。森川さんは、ふくふくした卵焼きをお箸でつまんでいる。ぱくっと一口で食べてから、
この間の話だけど、と切り出した。
 「日本人を、いろんな分野で海外に派遣する団体ってあるでしょ。主に発展途上国と呼ばれる国々に」
 「知ってます」
 「そういうのに、応募してみようと思って。政府も民間もやってるしね。ただ、どっちにしろ倍率がもの
 すごく高いらしくて、試験に通るかどうかも分からないんだけど。とりあえず、受けるだけでも受けて
 みる。それで合格すれば、図書館はやめる。落ちたら、今のまんまだけどね」
 願書が昨日届いたんだ、と森川さんは二つ目の卵焼きをつまみあげた。テーブルに並んだガラスのコ
ップが、うっすら汗をかいている。
 彼女の、人生への揺るぎない自信と決断力を、私は心から羨ましいと思った。私の知るかぎり、森川
さんはいつでも百パーセント森川さんだ。追い風の時も、向かい風の時も。予測できない、どんな状況
下にあっても。そして、それが私の神様たる所以なのだ。
 「そういえば、ミルクティーのシフォンケーキのレシピ、ついに入手したんだ」
 人気の料理雑誌の最新号を、隙を狙ってコピーしたと森川さんは喜んでいる。今度一緒に作って、試
食会をしようとはりきる。彼女のよもやま話は終わらない。どこまでも着実な幸福と希望とに満ちて、
続いていくのだ。


10へ


Contents


Home