ガラス窓のある風景


10

 五月晴れの天候に恵まれて、里美は結婚式の日を迎えた。前夜、花材と一緒に式場のホテルに泊ま
り込んだ里美と私は、正午の挙式に合わせて、朝早くからブーケ作りに追われた。大した腕でもないが、
二人いればどうにかなるものだ。バランスがどうだとか、奥行きがどうだとか、あれこれ言い合う。私は
白い花びらに傷をつけないように、慎重にワイヤーをかけていった。里美もいつにない真剣さで、ひとつ
ずつ花材をホルダーに挿していく。三時間かかって、ようやく二つのブーケが完成した。
 「できた」
 里美は気が抜けたようにベッドに座り込んだ。さっきから時計を見てはらはらしていた私は、座り込ん
でる場合じゃないよ、と意見した。
 「もう十時過ぎてるじゃない。早く着替えに行かなきゃ。さっき朝食の時降りた階だよ。間違えないでね」
 「由希子ってさあ」
 里美があきれたような顔をする。
 「こういう時、私以上にてきぱきするね。ふだんはぼんやりさんのくせにね」
 「人のことはちゃんとしないとって思うんだよ。特に里美の場合、大雑把すぎるから」
 私はくすくす笑った。
 「どういう意味よ。由希子もね、人の心配ばっかりしてないで、自分のことをちゃんと片付けなさい。
 てきぱきと。―――四年も放りっぱなしだったんだから」
 さて、小姑もうるさいし行くか、と里美は立ち上がり、ブトニアも頼むわよ、と言い残して出ていった。
私は冷蔵庫から、白いユリを一輪取り出す。わずかに開きかけたそのつぼみにワイヤーをそっと通し、
コットンを当ててテーピングしていく。―――四年も放りっぱなしだったんだから。最後のコサージュを
組みながら、私はこの四年の歳月を思った。そして、祐一や里美たちと過ごした日々を思った。そんな
時間を、笑って話せる日も遠くない気がする。何もかも散り散りの、華やかな紙吹雪みたいに。その時
は、すべてを受け容れた、泣きそうな、けれど笑い顔でありたい、と心から思った。

 「良かったね。いいお式だったねえ」
 槙ちゃんと美貴ちゃんが目を真っ赤にして、まだ鼻をぐずぐずいわせている。五月の友引の日曜は、
ホテル中、絶え間なく礼服や着物が行き交う。ロビーの喫茶室で二次会までの時間つぶしをしている
間、私はずっとそれをながめていた。
 「この荷物だし、タクシーで行くしかないか」
 そのちゃんがあきらめたようにつぶやき、ほら、あんたたち泣きやんで、そろそろ行くよ、と二人を促
した。
「由希子、場所よく知ってるでしょ。運転手さんに説明してね」
 私たちはホテルのタクシー乗り場から、「ラ・ストラーダ」に向かった。店は入り組んだ路地に面してい
るので、車では入れない。近くでタクシーを降りて、少し歩いた。
 まだ明るい時刻にここに来るのは、初めてのことだった。ライトアップされていない看板が、違う店の
もののように見える。「本日貸し切り」の札が、ドアの前で揺れている。
 「いらっしゃい」
 マスターが相変わらずの笑顔を見せる。店内の様子は、とりたてていつもと変わらない。さっき披露
宴でスピーチをしていた柴崎さんの友人が幹事らしく、数人の会社びとを仕切って準備している。既に
到着している幾人かずつのグループは、カウンターに腰掛けて話をしていた。私はちらっと奥のピアノに
目をやる。照明は落とされたままだが、ピアノの蓋が開けられている。
 「十番のワルツは弾かないよ」
 驚いて振り向くと、そこに祐一が立っていた。
 「小田さんのご要望どおり」
 その言い方が可笑しくて、くつくつ笑った。私もあのワルツより、この前の曲を聴きたかった。
 「由希子、こっちのテーブルに座っていいって」
 そのちゃんが呼んでいる。じゃあまた後で、と祐一はピアノの方へ歩きだそうとした。
 「祐一」
 彼が振り返る。自分の口から出たその確かな響きに戸惑う。
 「あの曲、なんていうの」
 「『ザ・ウィンド・オブ・ライフ』。気に入ってるんだ」
 明るくて、あたたかくて、いい曲ね、と言うと、そうだろう、と祐一は少年のように得意げな顔をした。

 スタンダード・ジャズが流れ続ける。祐一が弾いているのだ。里美と柴崎さんは、それぞれのテーブル
を廻って友人と談笑している。雑然とした空間。槙ちゃんが眼鏡をコンタクトにすることの是非を、私たち
に問いかけている。それが真剣な論議に発展した頃、私はちょっとごめん、と言って席を立った。
 「さっきの曲、すごく良かった」
 ピアノの側に立った私は、小さな声でそう言った。オープニングに、祐一はあの曲をお祝いとして弾い
たのだった。
 「手が思うように動かなくなってるけど」
 「サテン・ドール」を弾きながら、彼はやはり小声で言った。
 「弾きたいと思う気持ちは、あの頃より自由になってる」
 カウンターで待ってて、という彼の言葉にうなずいて、私はそこを離れた。中でマスターが煙草をくゆ
らせている。隅っこの席に腰掛けた私に気付いて、アップルジュースを注いでくれながら、彼女、きれい
になったねえ、と里美を見た。
 「だけど、中身は変わってないようだねえ」
 しみじみした口調に、思わず私は吹き出した。
 「俺もそう思うなあ」
 祐一が私の左隣に腰掛けた。今にも笑い出しそうな顔をしている。
 「『白木くんがやらなきゃ誰がやるっていうの。鬼の百枚レポートの時、資料廻して助けてあげたの
 誰だか覚えてる、その人が結婚するっていうのに。さあピアノ弾くの弾かないの、どっち』ってまくし
 たてるんだ。可笑しくてさ。笑ってたら、小田さんまた怒り出して」
 我慢できないというふうに、祐一は体を揺すって笑いころげた。想像はつく。マスターも私も一緒に
なって笑った。あの里美のことだ。言い方は乱暴でも、余程祐一に弾いて欲しかったのに違いない。
そしておそらく―――彼女には、彼女なりの気遣いがあったのだ。私が祐一の連絡先を尋ねた、あの
日から。
 涙目になって笑いながら、私は里美に感謝していた。四年モ放リッパナシダッタンダカラ。何も口に
しないで見守っていてくれたのは、里美らしいやり方だった。
 「由希子も。変わってなくて、ほっとした」
 何か音楽をかけよう、とマスターがカウンターを出ていった。祐一が私のアップルジュースのグラスを
奪う。
 「もう二度と、会うことはないと思ってたけど」
 そう言うと、彼は少し悲しそうな目をして、俺も、と答えた。
 「あの時きっぱり、離れたからな。由希子とも、ピアノとも。だけどこの四年間、自分の体の一部が
 切り離されたような、何かが足りない、奇妙な感じがどこかでしていた。それでも、毎日こなさなけ
 ればならない仕事が山積みで。深く物事を考えている暇なんかなかった」
 すぐ後ろのテーブルから、柴崎さんの笑い声がする。里美が、眼鏡よ、槙ちゃんは眼鏡って決まって
るの、と真剣に意見しているのが聞こえる。
 「それが夢を見るようになって、思ったんだ。今の俺がピアノを弾いたとしても、人をひきつけるような
 音を出せないだろう。何事にも分別をつけて、人に不快な思いをさせないように、きれいに見せる。
 その術と要領ばかりを身につけた自分には、調和する分散和音は弾けても、学生の頃のような、力
 強い不協和音をめちゃめちゃにたたくことはできない。それは、今だってそう思うよ」
 アップルジュースのグラスを空けて、祐一はだけど、と言った。
 「気が付いたんだ。要は、バランスなんだ。どちらが良いという訳ではなく、その時々で、大切なもの
 を優先していく。それを見極める目を育てなければならない。発表会で子どものピアノを聴いた時、
 そう思った。そして、迷いながら捨てたものは、もう一度拾って見直さなければ、前に進めないと思
 ったんだ。だから」
 祐一は屈託のない笑顔に戻り、由希子にもう一度会えて良かった、と言った。どこがどうねじれたの
か、おかしなきっかけではあったけど。
 「おひらきの時、ピアノお願いしますね」
 さっきの幹事が慌ただしく告げて、去っていく。そろそろなのかな、と立ち上がりかけて、祐一は思い
出したようにまた腰を下ろした。どうしたの、ときくと、真顔になって、もし、と言った。
 「もしもあの時、由希子にこんなふうに話せていたなら、俺たちは別れずに済んだんだろうか」
 私は自分の答えに自信があった。
 「きっと、同じだよ」
 大きく息を吸い込んで、私は笑顔で答えた。
 「私たちはあの日、終わったんだよ。そして、これで、本当に終わったんだよ」
 「由希子、俺は」
 祐一がゆっくり立ち上がり、私の目を見た。
 「あのみやげものやで、言いそびれた。どんなかたちにしろ、お互い、いつか必ず、幸せになろう、
 と」
 ざわめきの中、ゆっくりと照明が落ち、司会者が最後のプログラムの案内を始めた。


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