ガラス窓のある風景


 次の朝、投宿していたビジネスホテルで、祐一は発熱した。
 暖房のばんばんきいた部屋で寒い寒いというので、祐ちゃん、これは風邪だ、と診断した。昨日も一
昨日も、寒いところに立ちっぱなしだったから。今日は寝てなきゃだめだよ。
 「せっかく来たんだから、でかける」
 「だめ」
 「明日は帰るんだし」
 「だめ」
 ゆきの強情、とぶつぶつ言う声も鼻声で弱々しい。じゃあ、と祐一は毛布を巻きこみながら提案した。
 「じゃあ、薬を買いにでかけよう」
 「私が行く」
 「その間に俺が消えたら?」
 どきりとした。祐一は今確かに目の前にいる。けれど、それは四ヶ月前の謎の電話から始まった、夢
とも現実ともつかない事実なのだ。今度こそ本当に会えなくなるかもしれない。私は黙りこんだ。
 「由希子?」
 余程不安げな顔をしていたのだろう。祐一はよろよろしながら起き上がり、毛布をひきずったまま私
を抱き寄せた。
 「だから一緒に、薬を買いにいこうって」
 「なら、お昼から。ちゃんと着替えてね」
 髪の毛もぐしゃぐしゃだよ、毛布怪獣、と笑うと、祐一はがおおと鼻声で鳴いて、大きなくしゃみを
した。

 雪が小降りになるのを待って、祐一と私は町へ出た。
 雪国とはいえ、スキー場とも無縁のこの町はこの季節、観光客もまばらで、みやげものやに入る私た
ちの姿は妙に目を引くようだった。
 「新婚旅行ですか」
 店のおばさんが笑いかける。いいえ、と曖昧に笑って目をそらす。今の私たちは、そんな言葉の届か
ない世界にいる。当たり前の日常にだけ通用する言葉は、現実感でつながれたひとつの輪っか。その外
側に一歩踏み出してしまえば、何の効力ももたないのだ。こんなにも深い孤独の海では、当然のように。
喉の奥と胸の間で、重いかたまりがふくらんでいく。棚に並べられた土鈴がにじんで見える。ゆき、と
祐一が呼んだ。
 「それ、ひとつずつ買おうか」
 鳥の形をした白い土鈴をふたつ、彼は慎重に選ぶ。
 「冬の海の、思い出に」
 そしていつか必ず、とつぶやいて、祐一はいつもの屈託のない笑顔で笑った。
 「薬、買いに来たんだったな」

 みやげものやで教えられた薬局は、なかなか見つからない。
 とぼとぼ歩くうちに、さすがにやせ我慢も限界にきたらしく、祐一がどこかで休もうと言い出した。
彼の顔色が悪いのを気にしていた私は、ふと目についた古い建物を指差した。「市民会館・本日の催し」
の看板が風に揺れている。
 「『ピアノ発表会。午後一時より』」
 祐一は熱のせいか潤んだ目で、看板を読み上げた。
 「懐かしいな。入ってみようか」
 私は彼のコートの袖をひっぱって返事をし、二人で信号を渡る。街路樹の銀杏が、寒風に肌をさらし
ている。その横で、大きな時計のチャイムがふたつ鳴った。午後二時だ。
 外観から分かるとおり古い建物ではあったが、会館の中は暖房がよくきいていた。ロビーの奥にある
分厚いドアから、かすかにピアノの音が漏れてくる。案内役は誰もいない。ただ、ドアの前には会議用
の長机が置かれていて、「ピアノ発表会」と書かれたプログラムが並べられていた。私たちはそれを一
枚ずつ手にとり、そっとそのドアを押す。
 明るい舞台で、小学生の男の子がピアノを弾いていた。五年生くらいだろうか。音がたどたどしい。
しかしつっかえずに一生懸命弾いている。ドアの前に立ったまま、祐一は黙ってそれを聴いていた。
 曲が終わると、まばらだけれど惜しみない拍手が客席から送られた。男の子は少し照れたような顔で
ぴょこんとお辞儀をし、早足で舞台の袖に消えた。
 「ソナチネ。スカルラッティの」
 耳元で祐一が告げる。
 「聞いたことある。お姉ちゃんが昔、弾いてた」
 私たちは客席の一番後ろにそっと腰かけた。次のプログラムの紹介が始まる。
 「―――曲目は、ランゲ、花の歌」
 水色のワンピースを着た女の子が舞台に現れ、お辞儀をした。やがて、静かなメロディが流れ出す。
 祐一は、目をつぶってじっと聴き入っていた。まぶしいライトと、のびやかで明るい音の波。暖かな
日だまり。
 いつか、こんな音を聴いた。私はその音を、心から愛していた。時には痛く。哀しく。そして、せつな
く。どんな音であっても、祐一が祐一である証明として、私は彼のピアノを、そして祐一自身を、深く
愛していたのだ。だから、あの時。祐一のピアノを失いたくなかった。祐一を、失いたくなかった。けれ
ど今、はっきりと分かる。その音が私を支えていたのでなく、祐一と、祐一のピアノを愛する私の思い
が、自分自身を支えていたのだということ。その思いは形を変えて、今も自分の中で生き続けている
ということ。
 発表会のプログラムが終了しようとしている。主催者であるピアノ講師が、私の知らない、甘く優しい
曲を弾いた。

 「ちょっとだけ、弾かせてもらえませんか」
 録音テープを整理していたピアノ講師に、祐一がおずおずと尋ねる。
 生徒や保護者たちは、華やかな記念撮影の後、それぞれに去っていった。講師のほか、会場内には
係員のおじさん一人と、私たちしかいない。
 「構いませんよ。片付けが終わるまでだけど」
 ピアノの先生らしく、彼女はにこやかに、しかしきびきびと答えた。
 「すみません。じゃあ、ちょっとだけ」
 そう断って、祐一は舞台に上がった。私も一緒に木の階段を上る。大型のグランドピアノはまだ片付け
られずに、舞台中央におかれていた。譜面台も外されたままだ。
 ピアノの前で祐一は立ち止まり、鍵盤に触れるのをためらっている。私はそれを横目で見ながら、とん、
と椅子に腰かけた。
 「弾いていい?」
 曖昧な記憶を辿りながら、「猫ふんじゃった」を弾いてみる。猫ふんじゃった。猫ふんじゃった。猫ふんづ
けたら、ひっかいた。―――あやしい指使い。ときどき止まる。それでも一回、二回と弾くうちに、何となく
様にはなってくる。三回目を弾こうとした時、祐一が私の右側に立った。そして、メロディに合わせて高い
方のパートを弾き始めた。片手だけの、黒鍵だけの、簡単ハーモニー。けれど小学生の頃、姉とこれを
合わせるのが楽しくて仕方なかった。私は嬉しくなって、「猫ふんじゃった」を弾き続ける。四回。五回。
六回目の終わりで、祐一が私の背中をぽん、とたたいた。
 「代わってくれ」
 私はうなずいて、立ち上がった。祐一がピアノに向かう。
 やわらかな音が場内に響いた。メロディのはっきりした、流れるような曲。私はこの曲を知らない。
けれど、静かであたたかく、力強く、辺りの空気に染みとおるようなこの音は、紛れもなくあの頃の祐一の
音だ。水のように、風のように、さらさらと流れていくこの感覚は、あの頃の祐一そのものだ。私は胸を
打たれた。祐一と共に過ごした日々。存在の意味など知らず、精一杯生きた日々。遠のくほどにいとおしい
年月のかけらが、ひとつひとつの音によみがえる。
 拍手で、曲が終わったのに気が付いた。さっきのピアノの先生がにこにこしながら、舞台のすぐ下で手を
たたいている。
 「とてもきれいだった。澄んだ音を出すのね。子どもたちと同じ位。最後にいいものを聴かせてもらって、
 良かった」
 ありがとうございます、と祐一は頭を下げて、そっとピアノの蓋を閉めた。そして、ゆき、ありがとうな、と
小声で言いながら、熱っぽい手で私の手をひいて、舞台を下りた。
 「薬買ってくるから、ここのロビーで待っててくれる」
 そう尋ねると祐一は、待っている、といった。その言葉に安心した私は、一人で薬局を探しにいくことに
した。何の不安もなかったのは、祐一のピアノを聴いた後だったからだろう。すぐ戻るね、と笑って手を
振ると、待ってる、と祐一は重ねて言った。

 祐一がいない。
 行きに通ってきた道すじを一本違えて、薬局はすんなり見つかった。小さなその店の主人に症状を
話すと、それに効く風邪薬を選んでくれた。その後、大急ぎでまっすぐここへ戻ってきた。時計をきちん
と見ていた訳ではないが、その間おそらく十五分とかかっていないはずだ。しかし、祐一の姿はどこに
も見えない。
 最初は、まだピアノを弾いているのだと思った。けれど、発表会の会場だったホールはすでに明かり
が落とされ、もう誰もいない。ロビーの周囲をぐるぐる廻ってみても、もとより小さな市民会館に、隠れる
場所などどこにもない。次第に私はうろたえはじめた。
 私の後を追って、ここを出たのかもしれない。もう一度来た道を引き返し、薬局までの道すじを辿って
みる。いない。薬局できいてみる。それらしい客はなかった、と言う。胸が高鳴る。不安が波のよう
に押し寄せる。
 みやげものや。通ってきた道。昨日の海辺。喫茶店。思い当たる場所はすべて廻った。いない。祐一
は熱を出しているのだ。あのまま一人にしておくことはできない。こんな小さな町の中で、一体どこへ
行ったというのだろう。待っている、と言ったのに。
 日暮れは着実に近付き、街燈が灯りはじめる。こんな時間に、知らないところでひとりぼっちになって
しまうことも、私には耐えられなかった。いったんホテルに戻ろう。そう思って、はっとした。―――そう
だ。ホテル。今までどうして思いつかなかったんだろう。救われたような気がした。私は小走りでホテル
に向かった。
 しかし、キーはフロントに預けられていた。それでも確かめなければと、夢中で狭いエレベーターに
飛び込む。二階。三階。いらいらするほどゆっくりと上へ上がっていく。
 やっとの思いで部屋のドアにキーを差し込む。ドアを開けながら、祐一、と呼んだ。返事はなく、暗い
部屋が廊下の照明でぼんやり浮かび上がる。祐一、ともう一度呼んで、部屋の明かりをつけた。
 ツインの部屋はきれいに片付けられ、私の荷物だけがまとめて窓際に置かれている。昼過ぎ、出かけ
た時のままで。その隣にあるはずの祐一の荷物が、消えていた。何ひとつ、残されていなかった。
 呆然と立ちすくむ私の頭の中を、十桁の数字がかすった。規則性の認められない羅列。しかしそれは
確かに、ひとつの記憶の糸でつながれている。学生の頃、祐一が住んでいた下宿の電話番号。気が付く
と私は受話器を握りしめ、外線のボタンを押さえていた。指が諳んじているその十桁の数字を、ゆっくり
と押していく。ダイヤルした後の、息がつまるような空白。そして、呼び出し音。もう誰が住んでいるのか
も分からないあの部屋で、途切れては鳴り、途切れては鳴り。寂しいその音は、遠く、彼方の空間へと
吸い込まれていく。

 どのくらい鳴らしたのだろう。かた、と受話器の外れる音がして、誰かがもしもし、と言った。長く眠った
後のような、小さな声。少し疲れたような、かさかさした声。私は震えをおさえるために、深呼吸をした。
 「白木さん、の、お宅、ですか」
 電話の向こうで、その人は黙りこむ。数秒間の沈黙。
 「―――由希子、か」
 彼は驚いたな、とつぶやいた。
 「三年―――いや、四年ぶり、か」

 あの時何故、昔の下宿に電話したのだろう。
 旅から戻って一週間後の火曜日。夕焼けの名残が消えていくのを電車の窓からながめながら、私は
ぼんやりと考えていた。メモに走り書きした彼の現住所は、大学ともあの古い下宿とも離れた隣の県の
もので、無論電話番号も、市外局番から全く変わってしまっていた。あれから何度かあの電話番号にか
けてみたが、どこにもつながらない。「おかけになった番号は―――」と、女性の声が冷たく繰り返すだ
けだった。
 西の空は少しずつ、天頂から濃い藍色に染め上げられていく。僅かな光を塗りつぶしていくその深い
色も、やがてまた東から明るい朝の色に塗りつぶされていく。空も、私たちの一日も、同じようにできて
いる。気が遠くなるほどの重ね塗りから生まれた微妙な色合いが、存在の本質なのだと、今は信じられ
る。それは、たった一色をも欠くことのできないもの。すべての色に支えられて、はじめてそこにあるもの。
 私はこの四年間、痛みを伴う過去の時間を封印しようとしてきた。しかしその一方で、その時間に身を
沈め、痛みと甘美なノスタルジィとを求め続けている自分を知っていた。これはつまり、堂々巡りなのだ。
このままでは、前に進めないのだ。
 今夜―――「ラ・ストラーダ」で。「現住所」から「会社」を経てやってくる祐一に会うことで。入り乱れた
全ての時間を、受け容れることができるのだろうか。そして、新しい時間を紡いでいくことができるの
だろうか。
 誰かが閉め忘れた窓から、ひんやりした風が吹き込む。夕暮れ時の少し湿った風は、かすかに春の
匂いがした。

 キャシャーを横切っていくと、マスターが驚いたような顔をした。やはりこの人は祐一に似ている、と
思う。少し髪が白くなったような気もするけれど、あの頃と変わらない。
 お久しぶりです、と挨拶をして、カウンターの隅っこに陣取る。
 「りんごとみかん、どっちがいい?」
 りんご、と答えると、マスターは笑ってアップルジュースを出してくれた。
 「ひさしぶりだねえ。ゆきちゃん変わらないねえ」
 みんなそう言います、と私は苦笑いをした。
 「そうかあ。祐一もね。働きだしてからここにはこないね。ほとんど。ピアノも弾かなくなったし。
 今弾いてる彼女はね、芸大の学生さん。なかなか繊細でいい音を出すよ。三回生かな。あの頃の
 ゆきちゃんや祐一くらいだ」
 奥のスペースで、女の子がピアノを弾いている。音楽をやっている女の子って、みんな上品できれい
だな、と思う。先入観もあるだろうが、どうも思いこみだけではないような気がする。彼女も例外では
なさそうだ。
 白熱燈のあたたかなオレンジ色。たちこめる煙草の煙。染み入るピアノの音。お客さんたちのざわめ
き。ここでは何も変わらない。この空間を作り上げているものは、何ひとつ失われていない。照明の中
でピアノを弾いていた祐一。カウンターで空を見つめていた祐一。さまざまな記憶の姿が、重なり合っ
て見える。数ヶ月前。五年前。―――結局どちらも同じなのだ。それぞれの時間の中で、記憶は真実と
してそこにある。過去に対する今の思いだけが、生き物のように形を変えていく。それだけのことだ。
 耳慣れた曲が流れ出す。「オーバー・ザ・レインボウ」のイントロからテーマに移った時、すぐ側で
懐かしい声が由希子、と呼んだ。

 「ほんとに四年ぶりだな」
 少し痩せた。変わっていないといえば変わっていないが、頬や顎の線が微妙に違う。私は何となく直
視できずに、ちょっと痩せたね、とだけ言った。
 「先週、風邪で寝こんでたしな。由希子が電話くれた時、会社休んで寝てたんだ。変な声じゃなかった
 か?熱で意識が朦朧としてた」
 そういえば、と彼は話を変えた。
 「小田さん、結婚するんだろ」
 うん、と答えると、あの小田さんだからなあ、びっくりした、と祐一はからからと笑った。
 「二次会をここでするらしいな。俺も呼ばれてるんだ。光栄なことに」
 それから私たちは、卒業した後のいろんな話をした。お互い仕事の話がほとんどだったが、祐一は相
変わらず朗らかに笑い、語り、愉快そうに相槌を打った。あの電話では混乱してまともに話せなかった
のだったが、今、彼の屈託のない笑顔を目の前にして、私は安堵していた。彼自身が話しているように、
祐一は私の知らない四年を過ごしてきたし、私もまた、彼の知らない四年を生きてきた。二人ともあの
春から、それぞれに正しく時間を積み重ねてきたのだ。これが、現実だ。少しのずれも、間違いもない。
私は小さくなったグラスの氷をストローでつついた。きらきら光りながら氷はくるんと浮き上がる。
 突然、まぶたの裏で白い波がはじけた。海の上に永遠に降り続く雪。痛いくらい風が冷たかった。海
辺にたたずんだあの日。彼を―――あの日の祐一を、この人は知っているのだろうか。この人は、あの
灰色の海と、降りしきる雪を、見たのだろうか。
 切り出そうとした時、不意に祐一が席を立った。マスターと小声でやりとりをしている。演奏の区切
りを見計らって、彼は奥のピアノの方へ向かった。芸大生のピアニストに二言三言告げ、交代している。
私ははっとした。
 穏やかな旋律が響く。これは、あの町の、市民会館で聴いた曲だ。観客のいなくなったホールで、最後
に祐一が弾いた曲。水が緩やかに流れるように、音が空間にあふれ出す。その音の中で、私はようやく
気付く。手を触れずにきた過去の時間も、決して真空保存されていた訳ではないことを。封じ込めた中で、
他の記憶と同じように、風化していたということを。
 今日に至るまでの、この数ヶ月間の出来事が何だったのか、もう知る由もない。けれど、その結果こう
して祐一と再会し、ずっと不透明だった何かを確認できたのだ。
 強くなれる、と思った。新しい時間を、紡いでゆける。
 「ゆき、ありがとう」
 隣の席に戻ってきた祐一が言った。私は顔を上げた。
 「『猫ふんじゃった』、楽しかったな」
 懐かしい視線をまっすぐ私に向けて、彼は笑った。


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