ガラス窓のある風景


  ―――人魚は、南の方の海にばかりすんでいたのではありません。北の海にも住んでいたのであり
 ます。
  北方の海の色は、青うございました。―――
 ろうそくの炎が揺れる。真っ暗な部屋の中で、子どもたちはしんとしてお話に聞き入っている。その表情
を見ていると、いつもながら間を取るのに緊張してしまう。
 今日は月に一度のお話会の日で、ストーリーテラーの当番が私に回ってきていた。二月のお話という
ことにずいぶん悩んだけれど、結局個人的な好みで「赤いろうそくと人魚」に決めてしまった。そんな訳
で、いつもはただの白いろうそくなのに、今日は燭台で赤いろうそくが燃えている。何処で見つけたのか、
森川さんが面白がって持ってきてくれたのだ。
  ―――ふしぎなことには、その後、赤いろうそくが、山のお宮にともった晩は、いままで、どんなに
 天気がよくても、たちまち大あらしとなりました。それから、赤いろうそくは不吉ということになりました。
 ―――
 子どもたちの目がいやおうなく赤いろうそくに吸い寄せられる。
  ―――まっ黒な、星も見えない、雨の降る晩に、波の上から、赤いろうそくのともしびがただよって、
 だんだん高くのぼって、いつしか山の上のお宮をさして、ちらちらと動いて行くのを、見た者があります。
  いく年もたたずして、そのふもとの町はほろびて、なくなってしまいました。
 ふっつりろうそくの炎が消えた。これはお話の雰囲気を盛り上げるための演出で、お誕生月に当たる子
たちに、あらかじめ吹き消す役を頼んである。それが分かっていても、子どもたちはみんな、息を呑んで
明かりがつくのを待っている。

 「今日のは真に迫ってたね」
 森川さんが椅子を片付けながら言った。
 「最後、みんなぴくりともしなかったよ」
 「それは森川さんのろうそくのせいでしょう。きっと」
 「確かにあれはかなり効いてた」
 彼女はくすくす笑った。森川さんの肩越しに、小学校の校舎が見える。下校時刻五分前を知らせる放
送が、とぎれとぎれに聞こえてくる。
 「あ、雪」
 私の声に振り返った森川さんは、ほんと、と呟いた。
 「ゆきちゃん、人魚はどんなこと考えてたんだろうね。生き方、途中でひっくりかえっちゃって、その後
 どうしたんだろう」
 森川さんはうつむいて椅子をたたんでいく。何となくいつもと違う口ぶりに、そうですね、と曖昧な返事
しかできなかった。貸し出し終了のチャイムが鳴る。閉館三十分前だ。
 「来月、斎藤さんでしょ」
 不意に顔を上げて、森川さんが言った。口元で含み笑いをしている。
 「斎藤さんの話、面白いからねえ。何をやってくれるか、楽しみだ」
 「最初に歌を歌ってくれるしね」
 「そうそう」
 私たちは、来月の斎藤さんの歌について論議を始めた。「春の小川」は早いし、「ひなまつり」ははまり
すぎ。
 「『どじょっこふなっこ』だよ。絶対」
 森川さんは断言して、歌い出す。はあるになれば。
 私も同意して、合唱する。しいがこもとけて。
 どじょっこだあの、ふなっこだあの、よるがあけたと、おもうべな。

 バスケットのかごにオアシスを放りこんで、里美が目を輝かせている。二月の第二週目は、毎年バレ
ンタインのアレンジをすることに決まっていた。
 「せめて今回だけでも、オアシスはきれいにカットした方がいいんじゃない。柴崎さんにあげるんなら」
 「いいのいいの。花を入れれば分からないから」
 バスケットを、花畑のように花でいっぱいにして、その上に小さなチョコレートケーキを乗せる。それが
今日のコンセプトだ。
 「由希子は、誰かにあげないの?」
 私は、ふと遠い日を思う。いつだったか、姉と二人でチョコレートを作った日のことを。姉は石塚さんの
ために、私は祐一のために。そして二人で、父のために。あんなふうに屈託なく過ごしていた日々から、
どれだけ遠ざかってしまったのだろう。
 「里美、準備はどうなってるの」
 「どうもこうも、すべてが面倒でね。私は倒れそうですよ」
 「二次会は、どうなったの」
 「先週、会社びとと会場の下見に行った。マスターも相変わらずでさ。やっぱりあそこのお店、いいよね」
 ふうん、と下を向いてミモザの葉っぱを取っている私を、里美はじっと見ている。
 「白木君、いくら電話しても出ないんだよ。忙しいのかなあ」
 「居留守使ってるのかもしれないって、思ってるんでしょ」
 私は下を向いたまま苦笑した。
 「大当たり。ピアノを弾くのがそんなに困るのかなあ。マスターに頼んで、誰か探すしかないか」
 胸が苦しくなる。あの雨の日の祐一の姿がよみがえる。はりつめた彼の心は今、何処にあるのだろう。
まだ悩み続けているのだろうか。
 あふれんばかりの花が、バスケットいっぱいに広がっていく。心の痛みを消すために、私は目の前の
優しい春にありったけの思いを注ぐ。

 夢を見た。
 それは、泣きたくなる程懐かしい夢だった。記憶の底に封じこめた、北国。別れを決めた祐一との、
最後の旅。夜汽車の窓から見た、夜明けの青い雪。隣で祐一がうとうとしている。私は色えんぴつを握
って、小さなスケッチブックに絵を描こうとしている。白く青い雪景色、何処までも続く海岸線。高い波。
かたんかたん。かたんかたん。列車の走る単調な音。この音は―――私の部屋へ、続く音だ。――
―ほっぽうのうみのいろは、あおうございました―――
 はっと目が覚めた。暗がりの中で、壁の時計は午前三時すぎを指している。こんなせつない夢を見た
のは、久しぶりのことだった。記憶の引き出しがひっくりかえって、時間がめちゃめちゃに散乱している。
どこから片付ければいいのかも分からない位。手のつけられない感情の混乱に涙も流せず、ただ呆然
と時計の秒針を見つめていた。一周。二周。こんなに脆く崩れ去るくせに、時間は規則正しく右回りに
だけ流れ続ける。
 静寂の音が、耳に忍び寄る。音のない音。その中に、かすかに異質な音が混ざっている。それが電話
の呼び出し音であることに気付いた私は、ゆっくりと起き上がり、ソファの側の受話器をとった。―――
彼に違いなかった。
「もしもし。由希子?」
 彼方からかけてきているような、遠い小さな声。重ねて祐一は言った。
 「雪を見に行かないか。北の海に降る、雪を」

 その夜、私たちはターミナル駅の十一番ホームにいた。
 北国行きの夜行列車を待っている人たちは言葉少なに、吐く息を白く凍らせている。みんな同じ目的
でここに並んでいるのだけれど、それぞれがばらばらのモザイクのピースのように見える。数十分だけ
のモザイク。祐一と私も、今はそのひとかけらにすぎないのだ。そのことが、私をひどく孤独な気分にさ
せた。
 「じっとしていると、寒いな」
 「ほんと」
 ダッフルのポケットの中の缶紅茶を、ぎゅっと握る。温かさが手袋ごしにじんわり伝わってくる。祐一が
とんとんと足踏みをする。
 列車の入線と同時に、寒さと孤独に侵食されたモザイクは崩れ、みな一様に数時間の居場所を求める。
列車に乗りこむまで、私たちは無言だった。あの雨の夜のように。
 「由希子。俺、ピアノをやめようかと思う」
 網棚に荷物をほうりあげながら、祐一が言った。
 「俺は何のために、ピアノを弾いてきたんだろう。どうしてあんなに、ピアノが弾きたかったんだろう。何も
 かも、分からなくなった」
 私は窓際の席にそっと腰を下ろし、膝にコートをかけた。そして、隣の彼の横顔を見つめた。あの日と
同じだ。彼の心に手が届かない。
 「迷ったり、期待したり、こんな自分がもどかしい。卒業したら次は、って、ちゃんと道はできているじゃな
 いか。ピアノを弾く度にこんな自分と向き合わなきゃならないのなら、いっそもう弾かない方が、楽なよう
 な気がする」
 ああそうだったのか。四年前、ついに最後まできけなかったこの言葉を、頭の中で反芻する。ぼんやり
したまま、私はコートのポケットの中で缶紅茶を転がしていた。
 「由希子、俺は、ピアノをやめる」
 突然きっぱりと祐一は言い、私の手から缶紅茶を奪って、プルトップを切った。そして私に一度差しだした
後、すっかり冷めてしまったミルクティーを、一息に飲みほした。
 「海が見えたら起こしてくれ」
 祐一の重みを左肩に感じながら、四年前の旅をきりきりと思い出していた。あの夢の続きが始まろうと
している。グレーのカーテンの隙間から覗いている、窓ガラスの黒く深い闇。車内燈の光がぼやけて反射
している。私たちはゆっくりとその中へ沈んでいくように見えた。

 「北方の海の色は、青うございました」
 いつか窓の外は青く明るく、うねうねとした海岸線が何処までも続いているのだった。波は高く、大きな
岩の上に寄せては返し、寄せては返していた。その音は聞こえない。ただ列車の走る単調な音だけが、
耳の底に響いていた。かたんかたん。かたんかたん。
 「それ、何」
 祐一が頭を起こして尋ねた。赤いろうそくと人魚、と言うと、ふうん、と良く分からない顔をした。
 「図書館でね。子どもたちにお話をしたの。悲しい人魚の話でね。作者は、この列車の行き先の出身
 なんだけど、舞台もやっぱり北の海なんだよ」
 「続き、話して」
 それからひとしきり、私はにわかストーリーテラーになった。図書館のお話会でいつもそうするように、
祐一の表情を見ながら、間の取り方に苦心しながら。彼は青い雪景色がどんどん白っぽくなっていくのを
見つめながら、熱心に私の話に聞き入っていた。
 「人魚は、最後にどんなこと考えたんだろうな」
 話が終わると、祐一は窓の外に目を向けたまま、森川さんと同じようなことを言った。
 「人魚にとっては、何が一番良かったんだろう。―――でも道は、いつだってたったひとつしかないんだ」
 空はどんよりとしている。しかし夜はくっきりと明けていて、窓際に置いた腕時計は七時三十分になろう
としている。もう天候がはっきり分かる時刻だ。
 「今日の天気は、くもり、のち、ゆき」
 急に思いついてそう言うと、祐一は静かに笑った。

 その町は、雪に閉ざされていた。
 駅のロータリーは薄く凍りつき、建物の足元では雪が畝を作っている。ターミナル駅ではあるがどこか
閑散としていて、その分余計に風も冷たいような気がした。
 祐一は海が見たいと言った。正しくは、海に降る雪を見たいと言った。駅前の観光案内所でもらった
一枚の地図を手がかりに、私たちはただ海を目指して、てくてくと歩いた。言葉少なに、互いの背中を
交互に見ている。大通りを越え、町の中心を流れる大きな川を越え、かすかに見えはじめた海が、やが
て目の前に開けた。
 「海」
 つぶやくと、祐一がうなずいた。風が強く、冷たく、私は耳を両手で押さえる。灰色の空、灰色の海。
境界のない、ひとつの世界。水平線はその中に呑み込まれている。前に京都のお寺で見た、水墨画の
襖絵。「生生流転」というその絵に、この風景はとてもよく似ていた。そのことを祐一にぼそぼそと説明
する。全体が薄墨で描かれていて。海の只中の流木にとまった、一羽の鴎。うつうつと浅い夢を見てい
る。海があまりに大きくて。鳥があまりに小さくて。それなのに、たった一本の流木に安心しきって眠って
いて。訳もなく哀しい思いがしたことを、よどみなく喋りつづけた。波の音が、声をさらっていく。それでも
祐一は、私の言葉にいちいちうなずいていた。
 「せつないね」
 二人でどんどん孤独の海に漕ぎ出している。祐一のコートの肩に、白いひとひらがとまり、解けた。
ひとつ、ふたつ。降り始めた雪の中で、私たちは立ちつくしていた。
 「雪を見ているとね。知らないうちにたったひとひらに目を奪われて、視線が下へ下へ落ちていくで
 しょう。自分の見る場所を決めておかないと、どんどん沈んでいってしまうんだよ。現実も、雪に似て
 いると思わない」
 子どもの頃からずっと思っていたことを、大人になってするりと口にするのは難しい。多分それは、
話した相手に理解されないことが、ひどく悲しいからだ。それも、子どもの頃のままの悲しみ。だから、
話す時には誰でも、この世で一番自分と世界を共有している人に、恐る恐る語るのだろう。私もまた、
そんなふうに祐一に語った。そして彼は、それを当たり前のことのように聞いていた。
 「由希子は、今どこを見ている」
 「ずっと向こうの、テトラかな。あの、上にちょっと飛び出ているの」
 「じゃあ俺は、あの岩にしよう。右に少し傾いたようなやつ」
 そうして私たちは、海を見ていた。海に降りしきる雪を見ていた。
 それは本当に、永遠の中の時間だった。
 夢のせいで散乱したままの時間が、記憶が、たくさんの思いが、そこに溶けだしていく。現実も夢も、
今は同じひとつの場所にある。それなら、私たちがこうありたいと願う道をまっすぐ進んでいければい
いのに、と思う。

 その店は、「あんず」に少し似ていた。
 二人ともそれを口にはしなかった。ただ、どちらからともなく窓際の席を選んで座った。大きなガラス
窓いっぱいに、雪に煙った海が見える。私たちの他に客はいない。マスターらしき老人がひとり、カウ
ンターの奥で退屈そうに煙草をくゆらせている。
 「ずいぶん寒かった」
 ここに入って初めて寒さに気付いたというふうに、祐一が言う。ホットココアをかきまぜながら、私は
ぼんやりうなずいた。甘い?とききながら祐一はココアのカップを奪って一口飲む。彼の無邪気な癖。
ほっと心が緩む。
 カップを戻しながら店内を見まわした祐一が、不思議そうな顔をした。
 「ゆき、前にここに来たこと、なかったか」
 私はえ、と顔を上げて祐一の表情を探るように見た。しかし彼は即座に、ああ、そうか、とひとりごち
て納得したようだった。「あんず」、だな、と小さく笑って、コーヒーを飲む。
 「俺はずっと、こんな場所で、こんなふうに、ゆきと話したかったんだ」
 「何を?」
 「どんな話、というのじゃなくてさ。まあ、こんなふうに、ってことかな」
 「あんず」がね、と言いかけて、やめた。モウナインダヨ。喉まで出かかった言葉を呑み込む。言って
しまえばそれっきり、もう祐一と「あんず」で待ち合わせることはないだろう。どこかで私は、あのガラス
窓のある風景を、失いたくないと思っていた。その中に生きている、あの日の祐一と私と、たくさんの
仲間を。
 「インターネット・カフェ」
 祐一がつぶやいた。私は息を呑んだ。
 「ガラス窓の、信号待ち」
 彼は確かめるようにゆっくりと言う。
 「二人で、どのくらい待ったんだろう」
 風と波の砕ける音がする。窓の向こう、雪だけが静かに降りしきる。


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