ガラス窓のある風景


 「ここ漏ってるよ。コップずれてる」
 祐一の下宿は古い平屋で、相変わらず雨漏りがする。祐一は天井を見上げ、うわ、と声を上げた。
 「雨漏り範囲が拡大してるぞ。ずれてるんじゃなくて、コップじゃ駄目なんだ」
 洗面器洗面器、と流し台の方へ行く。六畳一間の奥に、くっつけたような流し台があるのだ。どこに
いても本を見るのが習慣になってしまっている私は、祐一がゼミ室引越しの際に失敬したというスチール
の本棚をながめていた。あの頃、何度となくながめた背表紙ばかりだ。三分のニ位は経済学や社会学
の本で埋まっている。ふと、本と本の間に立ててある、小さなカレンダーが目にとまった。一月のカレ
ンダーだ。それは確かに今年のカレンダーで、今年の干支で、日付も曜日もぴったり合っている。
 過去じゃない、と私はぼんやり考えた。これは現在進行形なのだ。今日の出来事は、余りに私たちの
過去とかけはなれている。私の知らない祐一。あの日々の中で、彼がどんなことを感じ、どんなことを
考えていたのか。あの三年間、もしかしたら私は、彼の思いの万分の一も理解できないままだったのか
もしれない。
 「今日は由希子に聞いてもらえて、良かった」
 祐一が、茶筒の蓋をぽん、と開けた。欠けた急須の縁に気を付けながらお茶っ葉を入れている。彼が
使っているなすびの茶さじは、いつだったか私が京都みやげにあげたものだ。
 「ただ自分が面白がって弾いているだけじゃ駄目なのかもしれないって考え始めたら、どんどんその
 考えにとらわれてしまって、弾けなくなったんだ」
 部屋の隅の洗面器が、ぱたん、ぱたん、とプラスチック製の音をさせている。雨漏りの間隔は、どうし
てこう規則正しいのだろう。
 「マスターの言うように、ゆっくり考えればいいんだよ。それに」
 私は祐一のピアノが好きだから、と力をこめて言った。どんな音だって、いいじゃない。祐一らしければ
それで。下手なところが、いいんでしょ。
 「今はそう思う気持ち半分、自分が信じられない気持ち半分、なんだよ。ゆきは優しいな」
 祐一は湯呑みを二つちゃぶ台の上に並べて、こぽこぽとお茶を注いだ。大きな右手と急須が、とても
不釣り合いに見える。
 「ゆうべ、小田さんの夢を見たよ」
 「里美の?」
 新年会の日の、バラの花束を抱えた里美の顔が浮かぶ。あのバラは、里美の雰囲気にとても良く似
合っていた。
 「小田さんが、結婚する夢。俺に電話をかけてきて、二次会に来てくれって言うんだ。できれば、『ラ・
 ストラーダ』でやりたいんだけどって。それから、俺にピアノを弾いてくれないかって、頼むんだ」
 ―――その続きの話は、里美から聞いていない。私はそれで、と先を促した。
 「『店は多分使えるだろうけど、俺は弾かないよ。というより、今は弾けないんだ』って答えた。きっと
 あの晩、お客さんに言われたことが頭に残っていたんだろうな。それにしても小田さんが結婚するっ
 てのは、突拍子もない設定だろ」
 祐一はさっきより大分元気を取り戻して、面白そうに話をした。私はふうん、と曖昧な返事をして、
黙りこんだ。
 里美の結婚の話が、ここで祐一の口から出るとは思わなかった。確かに里美はもうじき結婚するし、
二次会に祐一を呼んだし、「ラ・ストラーダ」を使いたいとも言っていた。しかし私は、その偶然の一
致に驚くよりも、祐一がピアノを弾けないと言ったことに胸が痛んだ。いつか見た夢をいやでも思い出
してしまう。何故弾けないのかが分かってしまった分、今は余計に辛かった。
 「そんな顔するなって。夢だ夢。どうにかするさ。由希子に聞いてもらってたら、なんとかなるような
 気がしてきた」
 祐一は朗らかに笑って、雨も止みそうにないし「雨に唄えば」でも聴くか、と押し入れの戸を開ける。
知っている。楽譜もカセットテープもCDも、音楽に関するものは全てこの中できちんと整理されている。
私は祐一の背中に、ラヴェルにして、と言った。「亡き王女のためのパヴァーヌ」。ピアノの方。
 ボリュームを絞って流すその曲は、思ったとおり雨の音とひとつになる。二人ともしばらく黙ってそれ
を聴いていた。
 「ゆきの手、見せて」
 祐一が不意に自分の右手を私の目の前に広げた。その大きな掌に左手を合わせると、祐一は、その
手の大きさでこの曲は無理だな、と言った。ラヴェルは指使いも変わってるしな。
 「関節一つ分は優に違うじゃない。そりゃ無理だよ。第一私は『猫ふんじゃった』しか弾けないし」
 だからさ、と私は思いつくまま夢中で喋り続けた。
 「祐一の手とピアノはやっぱり貴重なんだよ。私みたいに、憧れたって三日坊主のまま弾けない人は
 たくさんいるのに、祐一は自分の手で、自分の思うように弾けるっていうだけで、すごいんだよ。いい
 じゃない、それで。感情的でも、聴く人が不快でも、弾いた者勝ち」
 突然、祐一が私を抱き寄せて、キスした。肩の力が抜けて、震える。この感覚を忘れていた。もう長
いこと、忘れていた。
 祐一への思いが過去と現在の上を歩き始める。それを確かめるように、雨の雫は、ぱたん、ぱたん、
と時間を刻み続けた。

 ハーブの絵のマグカップ。
 目が覚めて、セージの黄緑色の葉っぱをみつめたまま、ぼんやり考える。深い眠りの後の、数秒間の
空白。混乱が私を待っていた。
 カーテンを引き忘れた窓いっぱいに、朝の光があふれている。向かいのマンションの上には、明けた
ばかりのくっきりとした空が広がっている。窓のガラスとサッシは僅かに結露で曇り、壁の時計は七時
五分前を指している。ここは、私の部屋だ。
 昨日は―――昨日は、祐一から電話があって、「ラ・ストラーダ」に行って、祐一の下宿に行って、その
まま泊まった、はずだった。何故ここにいるんだろう。昨日でかけたのが、まるで嘘のように。
 はっとする。もし嘘だったら。昨日のことが、みんな夢だったら。――昨日だけじゃない。祐一のことが、
みんな、夢だったら。――頭がくらくらした。
 炬燵でうたた寝したせいで、口の中がからからに乾いている。キッチンに行き、蛇口をひねりながら、
とりあえずシャワーを浴びて仕事に行かなければ、と思う。水道水はかすかなカルキ臭を放ち、喉にし
みこんでいく。ガラスのコップを空にして息をつき、ふと玄関の三和土に目をやった。
 呆然とする私の目の前で、乾きかけた傘の足を雫がひとつ伝う。色褪せた紺色の傘が、その足元に
小さな水たまりを作っていた。

 「つかぬことを伺いますけど」
 なになに?と鼻歌まじりで、森川さんはピンキングばさみを動かしている。来月の展示物を作ってい
るのだ。ほとんどが一階の分なので、色画用紙やいろがみをたくさん使って、鬼の顔や豆なんかを切り
貼りする。毎月変わる展示物は、子どもたちにも評判がいい。
 今日水曜ですよね、と言うと、そうだよ、と半分鼻で歌いながら答える。「冬景色」だ。このところ、学
校帰りの大きい子たちが、たてぶえでこの曲を吹きながら図書館の前を通るので、すっかりそれに
感化されている。
 「それで、昨日は火曜日で、すごいどしゃぶりでしたよね」
 森川さんはきょとんとした。
 「そうだけど。どうしたの、ゆきちゃん」
 風邪でもひいて寝てたの?と不思議そうな顔をする。
 「風邪ひいて一日中寝てると、時間や日にちの感覚がなくなってしまうでしょう。麻痺するっていうかね。
 体、辛くないの?」
 大丈夫です、と答えながら、私は泣きそうになった。この数ヶ月の間、森川さんも祐一のことをずっと
気にかけてくれていたのだ。それがみんな夢だったのかもしれないと思うと、たまらなくなった。
 「森川さん。昨日ね、会ったんです。彼に」
 丸くて重いかたまりが、喉の奥にひっかかっている。それを呑み込む努力をしながら、昨日起こった
ことを全部話した。時々声が震えた。
 森川さんは手を止めてじっと聞いていた。ガラス戸の向こうの運動場では、子どもたちがなわとびを
している。大なわだ。
 「傘が濡れてたっていうことは、やっぱり出かけたんじゃない?」
 どちらにしても、と森川さんは呟いた。
 「夢でも、そうじゃなくても、白木くんと会ってゆきちゃんの心に残ったものは、ほんとうだから。
 嘘にはならないよ」
 ゆうびんやさん。はがきがいちまい、おちました。甲高い声が合唱している。グレーの事務机の上に、
ぽたりと涙がこぼれた。ひろってください、いちまい、にーまい、さんまい、よんまい。
 「夢でも、タイムスリップでも、きつねでも。たとえ答えがなくても、大切に思うことはやっぱり大切に
 しなきゃね、お互いに」
 そうお互いに、と森川さんは微笑んだ。いろんなことが、あるけれど。
 「お待たせ。お二人さん、お昼どうぞ」
 主任と斎藤さんが休憩から戻ってきた。返却された本を積み上げながら、斎藤さんが小声で「冬景色」
を歌っている。私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。

 里美のコートが椅子の背からずり落ちそうになっている。それを掛け直しながら、私は店内に目を泳
がせた。入り口のショーケースの前で、里美が二人分のドーナツを注文している。時間が遅いせいか、
店は割合空いている。ここはいつだって明るくて、暖かだ。
 「今日のはまた、すごかったよ」
 ドーナツのトレーを運んできた里美が言った。コーヒーカップを凝視している。こうしていてもよくこぼす
のだが、本人は細心の注意を払っているつもりらしい。
 「ドーナツが?」
 「違う。花。アレンジ」
 暖房の風が当たらない足元に、二つの鉢が並んでいる。今日は、オアシスと土とを半分ずつ使って、
寄せ植え風のアレンジをした。梅や麦を活け、ムスカリやヒヤシンスの球根を植える。早春の花はひん
やりとつつましい香りがして、本当にすがすがしい。
 「私はすごく楽しかったけど。いい香りがするし」
 「ヒヤシンスは倒れてくるしチューリップの葉っぱはとれるし、どうしようかと思ったんだから。やっぱり
 ブーケが不安だ」
 そう言って、プレーンドーナツをつまむ。お先に、と黙々と食べ始めた里美に、私は恐る恐る二次会
のことを尋ねてみた。
 「場所、決まった?」
 口をもぐもぐさせながら里美が頷く。コーヒーを一口飲んで、「ラ・ストラーダ」に決まったことを彼女は
報告した。
 「場所はこれで良し、なんだけどさ。白木くんが妙なこと言うんだよ。ピアノは弾かないとか弾けない
 とか、なんとか」
 「ピアノ頼んだの?」
 「そりゃあ、せっかく彼が来てくれるんだし」
 祐一が卒業と同時にピアノをやめたことを、里美は知らない。彼は私にも、そのことについては最後
まで言葉を濁していた。
 「忙しいのも、弾いてないのも、分かるんだけど。当日だけお願いできないかなと思って」
 もしかして私のことが嫌いなんだろうか、と里美が眉間にしわを寄せる。飛躍するなあ里美は、と私
は笑いをかみ殺した。
 「来てくれるだけでいいじゃない。演奏者のことはマスターに頼めばいいんだし」
 それはそうだけど、と里美はぶつぶつ言っている。シナモンドーナツを食べながら、私は昨日の祐一
の話を思い出していた。彼の夢の通りだったと、ぼんやりと考えた。
 「またヒヤシンスが倒れてる。由希子、どうにかして」
 テーブルの下に頭を突っ込んで、里美がため息をついている。一緒に覗いてみると、土が沈んでか
なり傾いていた。里美、不精して土を減らしたでしょう、と言うと、彼女は、そうでもないけどな、ととぼ
けた顔をした。

 その日の夜、布団にもぐりこんで泣いた。
 胸が痛くて痛くて、泣くしかなかった。昨日までのことはみんな夢だったのだと、思えば思うほど、祐
一と過ごした時間がせつなく胸に染みた。
 私はただ、あの日々のもつあたたかなノスタルジィにひかれて、幻想を見ていたのだ。そして、気付
いてしまった。
 あの頃、私は祐一と祐一のピアノを頼りにするばかりで、彼のために何もしてあげれらなかった。祐
一はいつも穏やかで優しかったけれど、迷いも悩みもなかった訳ではないだろう。彼はそういうことを
一切口にしなかった。少なくとも、私にそういう姿を見せたことがなかった。それで私は彼を理解して
いたと言えるのだろうか。彼の弾くピアノを聴いているだけで、彼のことを分かっていたと言えるのだ
ろうか。
 私は涙をぼろぼろ流しながら、ばさりと布団をはねのけた。そして、起き上がった。
 どうせ夢なら、この後悔を晴らしてしまおう。時間は決して戻らないし、傷ついた祐一を受けとめて
あげられるのは、夢の中しかない。それで私も楽になれる。
 私は「禁断のヨックモックのかんかん」から、二人で写っている写真を出してきた。私たちが一番幸
福だった夏の写真。それを枕の下に入れ、アシュケナージの弾くショパンワルツ集のテープをかける。
もう一度、祐一に会えますように。しゃくりあげながら、祈るような気持ちでまた布団にもぐりこむ。
 ―――しかし、電話は鳴らなかった。子犬のワルツを過ぎて、別れのワルツが始まっても、電話は、
鳴らなかった。息をひそめて待つうちに、ひどく泣いた後のけだるさがやってくる。
 眠りに落ちる前のゆらゆらした意識の底で、十番のワルツがずっと廻っていた。祐一の弾く、深い深
い青の旋律。そこに投げ出されたまま、私は祐一を待ち続けた。


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