ガラス窓のある風景


 「全員、三十分遅れで済んだのは偉い」
 里美が感心している。
 「特にそのちゃん」
 そのちゃんが反論する。
 「里美の最高記録、二時間五十七分。私の一時間二分を大きく上回り―――」
 「あれは時間を間違えたんだってば」
 祝日の駅前コンコースは、待ち合わせをする人たちでごった返している。振袖姿の女の子もちらほら
見える。みんな人待ち顔だ。平均遅刻時間三十分の私たちにとって、十一時半の待ち合わせは功を
奏したようで、ちょうど正午頃に全員が現れた。十二時半に、うどんすきのおいしいお鍋の店を予約
している。
 「まきみきは元気だった?」
 うん、と槙ちゃんがにこにこして答える。今、ちょっと風邪気味だけどね、と美貴ちゃんが鼻声で
言う。映研ではこの二人をまとめて「まきみき」と呼んでいた。いつもたいてい一緒にいたからだ。
おまけに二人とも小柄で、顔立ちもどことなく似ているし、違うのは髪形と、槙ちゃんの眼鏡くらい
だった。どこか愛嬌があって、後輩にまで「まきみき先輩」と親しまれていた。
 「じゃあ、行きますか」
 里美とそのちゃんが先に立って案内役をする。はぐれないでね、特にまきみき、と注意をして里美
はずんずん歩いていく。
 「ゆきちゃん、お店の場所知ってる?」
 槙ちゃんがこっそり私に耳打ちする。知ってるよ、と言うと、槙ちゃんは、いたずらっ子みたいな顔
になって、じゃあ、まきみきと一緒にはぐれない?と提案する。里美のお祝いのお花、さっき美貴ちゃ
んと注文してきたんだ。
 私たちは三人で足を止めた。せえの、で地下街への階段に進路変更する。くしゅん、と美貴ちゃん
が小さなくしゃみをした。

 自動ドアが開いて、店内の熱気が伝わってくる。いらっしゃいませ、の声が私たちの上を飛び交う。
「小田里美」の名前を店員に告げると、すぐに二階のお座敷に案内された。私の後ろで槙ちゃんが、
大きな紙袋をばさばさいわせている。
 「あんたたち、ほんとにはぐれたのね」
 靴を脱ぐ私たちに、あきれたように里美が言う。由希子までまきみきと一緒に消えるなんて。ゆき
が店を知ってて良かったよ。
 「お待たせいたしましたっ」
 槙ちゃんが勢いよくお座敷に乗り込む。紙袋は、入り口の襖の陰に隠してあるのだ。
 「もうビールとうどんすき、頼んじゃったよ。後で好きなもの追加してね」
 「おお!昼間からビール。よろしいんですか、奥さん」
 奥さんじゃなくて苑子さんよ、とそのちゃんが訂正する。そのちゃんは去年の夏に結婚したばかり
だ。翻訳の仕事を今も続けていて、結構忙しそうにしている。
 運ばれてきたビールで賑やかに乾杯をして、煮立っただしの中にどんどん海老や野菜やうどんを
入れていく。とにかく、食べることとなると、例外なく寡黙になる私たちである。やがてだしの中で細
切れのうどんが泳ぎ出す頃に、ようやく会話らしき会話を取り戻すのだ。
 「映画見てる?」
 美貴ちゃんが赤い鼻をハンカチで押さえながらきく。
 「結婚してから劇場にはなかなか行けなくなったけど、ビデオは結構ね。耳を鍛えて、字幕と比べ
 るの、続けてるよ。仕事柄」
 そのちゃんは翻訳業を目指していた英文科在学中から、その方法で頑張っていた。
 「里美も結婚するんだなあ」
 しみじみと槙ちゃんが言う。そうだ、と里美がバッグから封筒の束を出してきた。
 「これ、招待状。せっかくだし、みんなには手渡ししようと思って」
 ていねいに毛筆で宛名書きされている、その青っぽく白い封筒を、みんなは神妙に受け取る。
 「あと、二次会の案内は、会社びとから別にはがきが届くからね」
 里美は会社の人たちのことを、「会社びと」という。柴崎さんは、そこに含まれないらしいけれど。
 「二次会って、誰が来るの?会社の人ばっかり?」
 そのちゃんが、居場所はあるんでしょうね、という顔をする。そのちゃんは、出席者の居場所のは
っきりしない二次会が嫌いで、友達のにもあまり出たがらないし、自分の時にもパスしているのだ。
 「大学のクラスメートと、ゼミ仲間も。ちゃんと来る来る」
 そうはいっても、あんたの大学の友達は少ないじゃないの、とそのちゃんがぶつぶつ言う。ゼミな
んて、里美も入れて三人でしょ。変な分野だったんだから。
 「そういえば私、白木くんに会ったよ」
 美貴ちゃんが、座布団の上に座りなおして、こともなげに言った。
 「お正月、遊びに行った帰りに。確か三日かな。ホームで電車待ってたら、後ろから、よおって声
 かけられて。卒業以来だったからびっくりした。お互い全然変わってないねって話してたんだけど、
 白木くんはちょっと痩せててね。仕事がすごく忙しいって言ってた。特に年末年始は大変だって。
 夜も遅くて、ちゃんと寝てないって」
 忙しいのに、二次会誘って悪かったかな、と里美が呟く。しかも二次会の候補会場まで打診しても
らってるし。
 「いいんじゃない。まだ先の話だし、おめでたいことだから、自分の都合は言わなかったんでしょ。
 白木くんはそういう人じゃないの?由希子」
 そのちゃんが私に振る。そうだね、とうなずいて、里美に二次会会場の候補がどこなのか尋ねた。
ある確信をもって。
 「ほら、あの店。白木くんの伯父さんの。『道』とかいってた」
 「ラ・ストラーダ」だよ、と答えながら、私は安堵していた。「ラ・ストラーダ」は存在したのだ。
 「あそこなら生演奏もあるし、割合広くていいかなと思って。その日限りだし、由希子にも堪忍して
 もらって。大丈夫だよね」
 大丈夫だと思っていた。あの電話があるまでは。
 「じゃーん。里美、ご結婚おめでとう!」
 そそくさと出ていったと思ったら、まきみきが花束を持って現れる。上品な紅茶色をした、大輪の
バラだけの、大きな花束。小さく息を呑んで驚いた里美は、花って柄じゃないけど、とみんなの顔を
見る。ありがたくいただく。感謝。
 「小田里美に、もうひとつ、ささやかな贈り物を」
 そのちゃんが、ご自慢の高く澄んだ声で、あの頃私たちが好きだった詩を暗誦する。

    AUGURIES OF INNOCENCE

Too see world in a grain of sand,
 And a heaven in a wild flower;
Hold infinity in the palm of your hand,
 And eternity in an hour.

 笛吹きケトルが、キッチンで頼りなげな声を上げている。私は炬燵でソファにもたれながら、ぼん
やりガラス窓を伝う雨の雫をながめていた。ケトルの口を開けてやらないと。
 こんなふうに過ごす休日は、しかもどしゃぶりの雨の日は、久しぶりのことだった。出ずっぱりの
日々は、退屈ではないけれど、エネルギーが拡散されてぐったりする。会う人会う人ごとのテンショ
ンの高さがあり、そこに同化する、そのことに多くのエネルギーが費やされるのだ。それは、どんな
に大切な人であろうと、嫌いな人であろうと、変わらない。正であれ負であれ、人と人との間に摩擦
とエネルギーの消耗が生じることは避けられず、それに疲労を覚えるのは、きっと誰も同じだろう。
 私はキッチンへ行き、小さな棚から白いポットと、ハーブの絵が描いてあるマグカップを出した。
そして、ゆっくりと紅茶を入れる。ポットとカップを温めて。矢車草の青い花びらが混ざっているき
れいな茶葉を、ティーメジャーで三杯。ケトルから熱いお湯をたっぷり注いで。パイナップルや柑橘
類の甘い香りがたちのぼる。蓋をして、お茶帽子をかぶせて。こうして少しずつ、自分だけの自分を
取り戻す。心の針を、ゼロに戻す。
 カーテンを開けた窓からは、向かいのマンションのてっぺんと、重く湿った灰色の空が見える。け
れど私は、窓のガラスを伝う雫と、時折風で斜めになる、雨の落ちる道すじを見ていた。熱い紅茶を
飲みながら、さまざまな記憶の断片がさらさらと重なっていくのを感じる。みんなみんな、雨に溶けだ
して、流れていけ。そうして私は、強くなっていく。
 この雨が上がったら、また寒くなるのだろう。ぱちんと炬燵のヒーターが弱まる。うとうとしはじめた私
の耳の奥で、十番のワルツがディミニエンドしていく。ファドレラシファ、ラソシドミソ、ソファシレドラシ。

 どのくらい眠っていたのだろう。
 気が付くと部屋はすっかり暗くなり、雨の音がいっぱいに満ちていた。炬燵布団の隙間だけが妙に
明るい。まだぼんやりした頭でカーテンを引き、電気のスイッチを入れる。テレビのリモコンを探して
炬燵布団の下をまさぐっていると、電話が鳴った。胸がどきりとする。―――もしかしたら。
 「もしもし。由希子」
 祐一だった。しかしそれは、いつもの声ではなかった。どこか動揺を感じさせる、その切実な声に、
どうしたの、と緊張して答えると、会いたい、とたたみかけるように言う。会いたい。これから、「ラ・
ストラーダ」まで来られないか。
 「どうしたの。何かあったの」
 こんな祐一を、今までに見たことがなかった。私が知っている祐一は、どんなときも大らかで、穏や
かで、あたたかだった。最後の別れまで、それは変わらなかった。
 「由希子にしばらく会わなかったからかな。おかしいか」
 さっきより少し落ち着いた声になる。
 「分かった。今から行くよ。でも、雨が降ってるし、いつもより時間がかかるかもしれないけど」
 「待ってる。俺はずっと店にいるから」
 電話は切れた。また振り出しに戻ったことを思案するよりも、今は祐一のことが気にかかった。私
は大急ぎで出かける支度をする。

 色褪せた紺色の傘を閉じて、傘の先から雨の雫がこぼれていくのを見つめる。何となく入るのがた
めらわれて、「ラ・ストラーダ」のドアにもたれたまま、しばらくそうしていた。店の看板を照らす電燈の
明かりを受けて、雫がきらきら落ちていく。
 ドアの近くで人の声がする。店を出る人たちだ。私は傘を傘立てに入れて、その人たちが出てくる
のを待った。入れ違いにすべりこもうと思ったのだ。
 常連らしい中年の男女が、ドアを開けて出てきた。
 「今日はピアノがなかったね。珍しいな」
 「彼はいたじゃない。カウンターに。ただ単に、マスターが映画音楽を流したい気分だったんでしょう」
 すれ違う時ちらっと目が合ったが、すぐに彼らは笑い合いながら傘立ての方に視線を移した。ピア
ノがなかったというのは、どういうことだろう。狭いキャシャーの脇を抜けて、カウンター席に行く。
一番奥の隅っこに、祐一がいた。頬杖をついて、空を見つめていた。
 「祐一。ゆきちゃんが来たよ」
 マスターが先に気付いて、こんばんは、とにっこりする。
 「何にする?」
 「アップルジュースをください」
 私はコートを脱いで、祐一の右隣の椅子に腰掛けた。いつもの私たちのきまりどおり。彼の頬杖
の陰に、小さなミルクピッチャーのようなグラスがある。
 「祐一、これ何」
 指さすと、祐一は空を見つめたまま、ウォッカ、と答えた。マスターがアップルジュースのグラスを
差し出しながら、大丈夫だよ、と私に目配せをする。
 切り出せないまま、細いストローでアップルジュースの氷をからからいわせていると、祐一が、由
希子、とかすれた声で呼んだ。視線を空に漂わせたままで。
 「俺のピアノ、どう思う」
 「どう思うって」
 あの頃、他人がどう思うか、なんて気にしたふうもなく、いつだって楽しそうにピアノを弾いていた
のは、祐一だ。俺のは下手くそで危なっかしいところがいいんだ、と豪語していたのは、祐一なの
だ。こんなことを不安げに問う祐一を、私は初めて見た。
 「前にホテルで弾いていた時、窓際の席にいた年配のお客さんに、『もっと勉強してみないか』っ
 て言われたんだ」
 祐一はひとつ息をついて、頬杖を崩した。「アズ・タイム・ゴウズ・バイ」が低く流れている。脳裏に
「カサブランカ」のピアニストの背中がよみがえる。
 「音がとても素直で、変に曲がっていない。きちんと技術を学べばもっと良くなる、って。よくここ
 には来ているから、ってそれだけ言って帰っていった」
 「誰だか分からないの?」
 「うん。時々顔は見るけど、それ以来、話はしてないから」
 私は黙りこんだ。そんな話は初耳だ。当たり前かもしれないけれど、どこかで過去を辿っているよ
うなつもりでいた私には、その話がとても現実的に響いた。
 「それから、」
 祐一は続けた。
 「昨日、ここのお客さんに言われたんだ。君のピアノは素直すぎて、不快だ。感情を剥き出しにし
 いていて、聞きづらいって」
 「それ、どっちもおんなじ人?」
 ときくと、ゆきは時々すっとぼけたことをきくなあ、と可笑しそうに笑った。少しだけ、あたたかな
いつもの祐一の表情が戻る。
 「違うよ。全然違う人」
 「おんなじ曲弾いてたの?」
 「違う。全然違う曲」
 じゃあ、違うように聞こえても仕方ないよ、と言うと、そりゃあそうだ、と私の目を見て笑った。
ゆきの答えは拍子抜けするな。だけど安心する。
 それでも、祐一の心がずっとはりつめているのを私は感じていた。その口調、その間の取り方、
その横顔。ぴりぴりと厳しく、しかし危うく揺らいでいた。以前のように、容易に彼の心に手が届か
ない。恐らく、今彼が語った二つの些細な事件が、良くも悪くも彼の中で発酵しつつあるのだろう。
そう思うとやるせない気持ちになった。
 「祐ちゃん、ウォッカには変なロシアのお漬物が合うんだよ。ロシア・バーでバイトしてたいとこ
 がね、言ってた」
 「何だ、その変なロシアの漬物って」
 祐一が目を丸くする。
 「ええと。要はキュウリなんだけど。何だっけ。フェンネルと、お塩と、タカノツメと、で漬けるって
 言ってたような。名前はすっかり忘れた」
 「フェンネルって何だ」
 「ういきょう」
 祐一はくつくつ笑い出した。ういきょうって何だ。私は少しほっとして、ういきょうはういきょう。と
一緒に笑った。笑いながら、ふと店内を振り返った。奥のスペースは照明が落とされ、ピアノには
黒いカバーがかけられている。ピアノにも、たまには休憩が必要なんだよ、と祐一が独り言のように
呟いた。

 雨はなかなかやまない。
 私たちはそれぞれの傘をさして、無言で歩いた。駅までほんの数分の距離なのに、もうずいぶん
長いこと歩き続けているような気がする。
 店を閉めるのを手伝う、という私たちの申し出を、マスターは丁寧に辞退した。そして、ゆっくり
休んで考えろよ、と祐一の背中をたたいた。
 「ばかばかしいよな、実際」
 ホームのベンチに座って、祐一がぼそりと言った。吐く息は白く、静かだ。閉じた彼の傘から雫が
どんどん流れ落ちて、あっという間に小さな水たまりができる。私はそれをじっと見ていた。
 「言われたことはたいした問題じゃないんだ」
 電車はなかなか来ない。もう本数が減っていくばかりの時間帯だ。シャッターが下りている売店の
横で、サラリーマン風のおじさんが煙草を吸っている。
 「ピアノは好きだし、弾いていたい。もっと勉強したいとも思うけど、そこまでの才能はないと自
 分で分かっている。それに自己満足では済まされなくなるし、他人の評価も大切になる。店のお客
 さんの言うように」
 祐一はため息をついた。
 「でも、こんなこと言いながら、やってみたいとも思ってるんだ、どこかで。このまま経済やって、
 卒論書いて、来年の春にははいサラリーマン、でいいのかって思ったり。多分、漠然とそんなこと
 を考えてたんだ、ずっと。こういうのも、みんな音に出てたんだろうなあ。よく聞いてるなって妙に
 感心したよ」
 ブレーキをきしませながら、電車がホームにすべりこんだ。明るい銀色の箱は、ぱらぱらと人を吐
き出す。私たちは二つの水たまりを残して、立ち上がった。うちに寄っていくか、と祐一がきく。私は
答える代わりに、祐一の腕にぶらさがった傘をとる。


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