ガラス窓のある風景


  元日の朝の空は、からっぽだ。
 何かが終わり、また何かが始まる、その境界にあるからだろうか。余韻と予感が混在する、
その空虚感が、非日常を感じさせる。今年も、すがすがしい程からっぽの青空が、窓いっぱ
いの映っている。私はそれを、掛け布団の隙間からながめていた。
 「由希子。おぞうにだって」
 姉の美佐子が部屋の襖を開けて、顔を覗かせる。お正月、「お雑煮」という漢字を知らな
かった頃から姉に「おぞうに」と起こされてきた私には、それがどうしてもおぞうに、と聞こ
える。そのひらがなの響きにわくわくする。それは今もって変わらない。
 「お姉ちゃん、早い。石塚さん家はもう行ってきたの?」
 「あんたが遅いの。咲がいるから石塚家は後。早く起きて食べる」
 姉が石塚さんと結婚して三年になる。去年の三月に姪の咲が生まれてから、両親は孫娘と
姉夫婦にべったりだ。そのおかげで母の「帰れコール」が減って、私は内心喜んでいた。
 「起きることは起きてます」
 よっこらしょ、と掛け布団を毛布ごと持ち上げる。階段を降りていく姉の足音を聞きつけて、
咲がぱたぱた這ってくる音がする。石塚さんと父が笑いあう声が聞こえる。ここにも非日常。
寒いので手早く着替え、赤い半纏を羽織って、階下の洗面所へ行く。
 「耕平くん、咲見てて。ミルク作るから」
 姉は石塚さんを耕平くん、と呼ぶ。歯を磨きながら私は、学生の頃の「耕平くん」を思い出
してみる。家に来てもどこか緊張していた「耕平くん」。無邪気な表情はそのままだけれど、
あの頃より少し落ち着いた顔つきになった。
 ふと祐一を思う。彼も今では石塚さんのように、落ち着いた顔つきのサラリーマンになって
いるのだろうか。あの屈託のない笑顔は、そのままだろうか。
 「由希子、こっちに来てお箸用意して」
 母が台所で呼んでいる。ふあい、と返事をしてうがいをする。
 三つ葉のはんなりした香りが、湯気に乗って流れてくる。ポストで、かたんと年賀状の落ち
る音がした。

 台所で母と姉が片付け物をしている。居間では石塚さんが、春に引越す予定の新しい家に
ついて話をしている。私は咲の相手をしながら、それに耳を傾けていた。咲はもうつかまり
立ちも伝い歩きもできるので、そこらじゅう這いまわっては、炬燵や、父や、石塚さんにつ
かまって立とうとする。そして、横ばいに進もうとする。子どもってすごい早さで成長するな、
と思う。一年前のお正月、この子はまだ姉のおなかの中にいたのだ。私は一年前と、何も
変わらないような気がするというのに。
 「ねえねえ、由希子のとこにあるんでしょ?あのでっかいソファ」
 姉がお茶を入れてくれながら、話に入ってきた。急須のふたを押さえている左手に、プラ
チナの指輪が鈍く光っている。
 「あれ欲しいなあ。今度の家はね、リビングがすごく広いんだよ。フローリングでね。あの
 ブルーグレーのソファが似合うと思うんだけどな。どう?由希子。何かと交換する気ない?」
 姉の言うソファというのは、もともとこの家にあったものだ。深いブルーグレーをしていて、
少し大きめで、座り心地のよい、我が家の応接間の主役たる存在だった。ところが姉の結婚
騒動で、家具やら何やらを大がかりに移動した結果、姉が持っていけないと言ったピアノが
これの代わりに収まることになってしまった。そこで、今のアパートに引っ越したばかりだった
私が、部屋が狭いのを承知の上でもらいうけたのだ。今では時折ベッド代わりにもしている
あのソファを、譲るというのは難しい相談だ、と私は思った。
 「うーん。お姉ちゃん、ソファよりピアノを置いたらどうだろう」
 私は姉の興味をピアノに向けるべく、意見した。
 「リビングがおしゃれに見えるし、咲だってもうすぐしたら、習えるじゃない。第一、お姉ちゃん
だっていつでも弾けるしね」
姉は私と違い、きちんとピアノを習っていた。高校受験のためにやめてしまったが、それでも
お勤めを始めるまでは、時々思い出したようにぽろぽろ弾いていた。
 「それもそうだなあ。耕平くん、どう思う?」
 姉と石塚さんは、相談を始めた。父はテレビの新春特番を見ている。私の背中につかまって
立っていた咲が、絨毯の上にころんと転がった。靴下が滑ったらしい。う、う、う、と顔を真っ赤
にして泣き出そうとする咲を、私は抱き上げてゆすった。
 「痛くない、痛くない―――」
 いつか母親になれば、こんなふうに絨毯の上で転んだ時も、自転車から落ちてすりむいた
時も、友達とけんかした時も、病気をした時も、受験に失敗した時も、そして大切なひとと
別れなければならない時も、いたくない、いたくない―――と、誰かを抱きしめることがで
きるのだろうか。今の私は、自分の傷すら抱きしめてやることができないでいる。
 咲は泣くのをやめて、おもちゃを振っている姉の方に両手を伸ばしている。姉は咲を抱き
とりながら、この子、単純だから気が紛れたら平気なの、と笑った。

 姉たち一家は、午後遅くに石塚家へ行ってしまった。家中がしいんとする。私はすること
もないので、炬燵でごろごろテレビを見ていた。ふだんあまりテレビを見ないので、つまら
ないような面白いような、何とも言えない感じだ。一緒にごろごろしている父も、姉たちが
いなくなったのでつまらなそうにしている。母は台所で、みんなでつついたおせちのお重を
詰めなおしていた。由希子、明後日はこれ少し持って帰りなさいよ、といいながら。
 明後日はすぐにやってきた。お正月休みはいつもあっという間に終わってしまう。ちょっと
太ったかな、と思いながら、私は手早く帰り支度をする。
 「由希子。遠くないんだから、たまには帰ってきなさいよ」
 靴を履く私の背中で、母がため息まじりに言う。うん、と曖昧に笑って、私は玄関の戸を
開ける。
 戸の表で注連飾りのだいだいが、つめたい夕方の光を受けて揺れていた。

 正月明けの図書館は、休みの間にポスト返却された本の山を処理することから始まる。
新年の挨拶を兼ねた簡単な朝礼が済むと、早速手分けして作業にとりかかる。今日の勤務
は半日なので、お昼までに一区切りつけてしまわなければならない。
 各階ごとに分けられた本のかごを持って、二階へ上がろうとした時、階段のところで森川
さんに声をかけられた。今日は真新しいたまご色のエプロンをしている。
「ゆきちゃん、今日お昼ごはん一緒に食べない?」
 いつもの喫茶店に行こう、と誘われたが、私は、昨日母に持たされたタッパウェア二杯分の
おせち料理のことを話し、早く消費しなければならないこと、一人では食べきれないことを
説明した。
 「で、良かったら森川さん、今日のお昼、うちでいかがですか」
 話は森川さんの即決でまとまり、私たちはそれぞれの作業に戻っていった。

 「倉田家のお正月はどうだった?」
 森川さんは、炬燵に入りながら件のソファにもたれられるという、我が家の特等席に座っ
ている。テーブルの上のみかんをもてあそびながら。
 オーブントースターで焼けたばかりのおもちをお皿の上にのせながら私は、姪がすごく可
愛いんです、と答えた。今、しゅんなんです。
 「しゅんねえ」
 森川さんは可笑しそうに呟いて、キッチンに小皿とお箸を取りに来てくれる。
 大急ぎでおもちに醤油をかけて、味付けのりで巻く。大皿に盛りつけたおせち料理と一緒
に炬燵に運んでいると、森川さんがお茶をいれてくれた。
 「いただきまーす」
 誰かとあたたかいごはんを食べるというのは、幸福の基本形だとしみじみ思う。この部屋
には、自炊第一としているが故の、閉鎖空間での食事の寂しさが染みついているような気が
する。実家から帰った後はいつも、それを強く感じるのだ。今日は森川さんに来てもらえて、
本当によかった。
 「森川家のお正月は、どうでした?」
 「どうもこうも、大変だったのよ。今日はゆきちゃんにその話をしたかったんだ」
 海老の塩焼きの殻をぱりぱり手でむきながら、森川さんは顔をしかめた。私は固く絞った
お手拭きをさしだす。
 「知ってると思うけど、私は三人姉妹な訳よ。三人姉妹の長女」
 森川さんを筆頭に、二つ下、四つ下、と妹が続くという話は何度となく聞いていた。
 「二人とも、今では立派にOLとして働き、認められている。少なくとも我が家ではね」
 「森川さんだって、立派に公務員として働いて、認められているじゃないですか」
 そこまではいいんだけど、と彼女はお手拭きで手を拭う。
 「なんと突然二人とも結婚すると言い出したんです、これがびっくり」
 森川さんの話では、上の妹さんには学生時代からの彼、下の妹さんには会社の新人研修で
親しくなった彼、がそれぞれいたらしい。それがほとんど同時に、申し合わせたかのように、
結婚する、とお正月に彼を呼んだのだそうだ。
 そんな話は寝耳に水だと両親は仰天するし、二人揃った男の子たちは居心地が悪そうだし、
結局、両親と妹たちとの間で気を揉んで、神経を擦り減らしたのは私だった、と森川さんは
語った。おせち料理を味わう余裕もなかったんだから、と。
 「さらに『お前はどうするんだ』ととばっちりは食うし」
 黒豆をつまみながら、どうするんだと言われても、と森川さんは続けた。
 「困るよね。ただ、今はどう動いても、納得できないだろうと思うだけで」
 分かるような気がした。図書館司書を天職だと感じているのは森川さんだって同じだ。今
の仕事に不満がある訳ではない。生活にとりたてて不安がある訳でもない。こんなふうにや
ってきたし、やっていくだけのことだ。そこへ、次はどうするんだ、どう動くんだと問われても、
困るのだ。
 「学生の頃って、いつも目の前に課題がぶらさがってたじゃない。そして、とりあえずそれ
 をこなすことで前に進んできた。年を追うごとに、それは選びとるものに変わっていって、
 社会に出れば、きっと自分で創り出す課題に変わっていくんだろうなって、漠然と思って
 いた。だけど、社会に出たら出たで、期待される課題があって、結局そこにはまらなければ
 周囲には認められない。とりあえず今は、とか、時間をかけて、とか、曖昧でまわりくどい
 やり方は却下されてしまう」
 自分自身と周囲の折り合いをつけていくのは至難の業だ、私たちの年齢では特にね、と
森川さんは小さく笑った。
 「ところで、白木くんからの連絡はなし?」
 答えるタイミングを外して、うさぎの湯呑みに目を落とした。「あんず」のガラス窓と祐一の
笑顔とがオーバーラップする。森川さんは察してくれたようだった。
 「ゆきちゃん、おもち食べよう。固くなるよ」
 私たちは磯辺巻きを食べながら、もうすぐ始まるバーゲンの話をした。欲しいものの話に
は、お互い熱が入る。スーツや靴、図書館用のエプロン、きれいな食器。欲しいものはたく
さんあるけれど、本当に気に入ったものを見つけ出すのはとても難しいということを、私たち
は知っている。

 小学校が賑やかになる日を境に、お正月の空気は急速に薄れていく。それはここに限らず、
世間一般でも、大概そういうきまりになっているようだ。家々の玄関の注連飾りも、商店街
に流れる「春の海」も、どこかそらぞらしく取り残されている。当たり前の毎日が、動き出す。
第二水曜の花の教室も、すっかりいつも通りだ。
 「由希子、何か適当な葉っぱ残ってない?」
 後ろの席の里美が小声で尋ねる。ワイヤーをかけるのに失敗して、グリーンが足りなくな
ったらしい。
 手際の悪い私たちにとって、ワイヤリングは泣きたくなる作業だ。里美は、一度本当に泣
いたよ、と言う。先生から、「花四十輪、グリーン二十本、処理してください」の指令が飛ぶ
と、私たちは情けない顔を見合わせる。それから約一時間半、寡黙な私たちは延々とワイ
ヤリングをするのだ。早い人たちがどんどんブーケの構成を始めるのを、横目で見ながら。
 余っていたゴッドセフィアーナを数枚、後ろの机に乗せる。サンキュ、と手を動かしながら、
ほんと私向きじゃないよ、と里美が呟く。でも、結婚式までの辛抱だ。
 里美は披露宴用の分を作るのだ。挙式用の方は、白い花びらを傷めることに、異常な恐怖
を感じているらしい。私だって怖いよ、と言うと、由希子は私よりキャリアがあるし、数十倍
ていねいだし、お願い、と彼女は懇願した。
 花屋には絶対になれないであろう劣等生ではあるが、それでも私はこうして花をいじるの
が好きだ。たとえ下手くそでも、思うように活けることができた日は嬉しい。
 「そちらのお二人はどう?」
 先生がにこにこしながら見にきてくれる。私たちは最後の力を振り絞って、残りの花材に
ワイヤーをかけていく。

 きいんと耳が鳴るような北風に、ブーケのリボンをひらひらさせながら、里美と私は首を
すくめて駅へと急いだ。寒いし、暗いし、お腹はすいたし、荷物はあるしで、里美は「むな
しい」を連発し、結局二人で駅前のドーナツショップに入ることにした。
 「生き返った」
 熱いアメリカン・コーヒーの二杯目を口にして、里美は気が抜けたように言った。既にドー
ナツを二つたいらげている。暖房のよくきいた明るい店内は、それだけでほっとする。
 「由希子、当日、上手くいくかなあ」
 彼女は花の教室に行く度に、結婚式の日のブーケが気になるようだ。果たして、私たち
劣等生の腕で、どうにかなるのだろうか、と。
 「やるしかないよ。ホテルには持ち込みって言っちゃったんでしょ」
 「そうだけどさ」
 柴くんも期待してるみたいだけど、とぼそぼそ呟く。私向きじゃない、と言いながらも休まず
教室に通う理由は、実のところ、これひとつなのだ。
 「もうすぐ招待状出すからね。それまでに映研の新年会があるけどね」
 成人の日に、私たち二人を含めた映画研究会のメンバー五人で、毎年恒例の新年会をする
ことになっていた。既婚者も勿論いるが、この新年会では、確実に全員が揃う。私たちは後輩
から恐れられる程、結束の固い学年だったのだ。
 式にはみんな呼ぶんだけど、と里美は手の中のコーヒーカップをぐるぐる回す。二次会の
場所をね、どうしようかと思って。
 「悩みは尽きませんねえ」
 からかうと里美は、面倒くさいだけよ、とコーヒーを飲みほした。がさがさした音で流れて
いた「悲しき雨音」が、耳慣れたカレンの声に変わる。
 「これ何て曲だっけ」
 「『イエスタデイ・ワンス・モア』。カーペンターズ」
 あ、と突然思い出したように里美が言った。
 「由希子。白木くん、連絡ついたよ。二次会にも来るから」

 「大人一枚」
 映画料金もずいぶん高くなったな、と思いながら入場券を受け取る。入り口のところで制
服を着た若い女の子が、無愛想に半券をちぎる。安っぽい緋色のカーペットを横切り、ぎし
ぎしいう薄暗い階段を上って、ゆっくり重いドアを押す。
 平日昼過ぎの映画館はがらがらだった。私はスクリーンの真正面の二階席を陣取り、スプ
リングの傾いた座席に身を沈めて、さっき駅の構内で買ったおにぎりを食べる。一人の時は、
こうして簡単なお昼ごはんを食べながら上映を待つのだ。二階席には、私の他に誰もいない。
烏龍茶の缶のプルトップを開けながら、一階席のお客さんを観察する。老夫婦。中年女性の
二人連れ。若い男の子。年齢不詳のあやしげなおじさん。みんな思い思いの席で、上映を待
っている。
 あの日、里美の口から祐一の名前が現実のものとして出たことで、少なからず私は動揺し
ていた。初めて二人で観た映画のリバイバル上映を新聞で見つけ、こうしてわざわざ観に来
たことも、その延長なのに違いなかった。それを自分で分かっているというのは、なんて悲
しいことなのだろう。
 十二月に「ラ・ストラーダ」で別れて以来、祐一からの連絡は全くなかった。年末年始の
留守中に電話があったかもしれないと考えたが、直感がそれを否定した。それらしき「気配」
がない。「あんず」のことが分かった以上、「ラ・ストラーダ」に足を運ぶ勇気は出なかった。
結局、あの祐一との再会も、謎のまま終わってしまうのかもしれない。
 ちりめんのおにぎりをほおばりながら、私はとても悲しくなってきた。あの祐一のピアノは、
もう聴けない。あの日の確かな手応えは、まだ感覚の中に残っているというのに。
 ベルが鳴って、照明が落ちる。怪獣映画の予告を観ながら、祐一はこういう映画が好きだ
ったということを、突然くっきりと思い出す。


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