ガラス窓のある風景


3

 昨日からの寒波で、頬がひりひりするくらいの木枯らしが吹きつけている。忘年会の下見
に、豆腐料理のお店に行くことを森川さんと約束して、私は例の重装備で図書館を出た。す
でにスカーフはマフラーに変わっている。最寄りの駅まで徒歩七分。こんな寒い日は、道の
りがいつもより長く感じられる。駅前のドーナツショップの明かりに心ひかれたが、えいっと
改札をくぐる。電車がもうすぐ来るのだ。
 残業もなく、花の教室もお休みの奇数週水曜は、なんとなく気持ちが緩む。夜が長い。ア
パートに帰っても、するべきことが特別見当たらない。こんな時私は、部屋で行きづまらな
いように、帰りの電車で宿題を決めてしまう。今日は簡単だった。斎藤さんの言っていたプ
リント作りに精を出すことに決めて、後はぼんやりと黒いガラス窓の中の車内を見ている。
かたんかたん。かたんかたん。単調な音の先にある、暗く寒い部屋を思う。靴を脱いでもし
ばらく重装備の解けない、あの部屋。
 帰ったら一番に、熱い紅茶を入れよう。濃いアッサムの、ミルクティ。そう思ったら、少し心
が暖かくなった。
 どんな時だって、僅かな救いは必ずあるものなのだ。

 「里美、ひっかかってるって」
 私は大急ぎでウェディングドレスの長いトレーンを持ち上げにいく。里美は後ろなんかちっ
とも気にしていない。大きな鏡の前で、眉間にしわを寄せている。
 「きれいはきれいなんだけど、面倒だなあ。足さばきの悪いのが気に入らない」
 ロングスカートもはいたことないのに、とぶつぶつ言っている。私は思わずふきだしそうに
なる。
 今週は、日曜日に休みを振り替えて、里美のドレス選びにつきあうことになっていた。挙
式用のブーケは私が作ることになったので、そのためだ。
 衣装室には、ホテル独特のきらきらした明るい光があふれている。一面ガラス張りのクロ
ーゼットの中では、花嫁を待つきらびやかなドレスが次から次へと控えている。まるで姫に
かしずく侍女たちのように、忠実に。
「それ、いいじゃないか。お前みたいなこと言ってたら、和装なんて一生無理だぞ。足さばき
 なんかこの際問題じゃないんだよ。分かってないなあ」
 婚約者の柴崎さんはあきれて意見している。
 「和装はしないんだからいいじゃない。男は黙って見てる」
 里美は相手にしていない。これでは柴崎さんは、何のために連れてこられたのか分からな
い。彼の衣装は、数少ない中でとっくに決まっているのだから。
 里美と柴崎さんは、勤務している貿易会社の配置換えがきっかけで知り合った。同期だが、
年は柴崎さんの方が一つ上だと聞いている。二人がつきあいだしてから、結婚が決まるまで
にそう時間はかからなかった。だから、私が柴崎さんに会うのは、まだ今日で二度目だ。
 「あとは由希子さん頼む。里美の好きにさせてくれ。俺は下でコーヒー飲んでくる」
 柴崎さんはあきらめて衣装室を出ていった。
 「由希子、ブーケ係としてどう?このドレスだったら、足さばきが悪い上に、唯一私が希望す
 るキャスケードが、ラウンドかなんかになってしまうんじゃない?」
 「そんなことはございませんよ」
 ホテルの係の女性が丁寧に言う。
 「これなら、どんなブーケでもお持ちいただけます」
 私は、さっきの柴崎さんの困ったような顔を思い出した。彼はこのドレスを、気に入ったよう
だったから。
 「大丈夫。おかしくないから、これに決めたら?」
 里美はまだためらっていたが、決心したようだった。
 「じゃあ、由希子のセンスを信じることにしよう」
 決めたら一秒でも早くこんなものは脱ぎ捨てたい、と言っていたのに、そのまま里美は鏡
に向かって、じっと自分の姿に見入っている。鏡の中の花嫁。懐かしい記憶がよみがえる。
映画研究会に入部した時、上級生と見間違えるほどてきぱきしていた小田里美。現実主義
で、おおらかで、仲間たちの筆頭だった小田里美。彼女らしい、ゆるぎない道が、今目の前
にある。柴崎さんは幸せ者だ。聡明な里美の心は、まっすぐ柴崎さんに向けられているのだ
から。
 柴くんこれが良かったんだよね、と里美がぼそりと確認する。うん、と答えながら私は忍び
笑いをした。

 夢を見た。
 明るい午後の教会から、式を終えた里美と柴崎さんが出てくる。ふたりとも最上の笑顔だ。
私は白いネクタイをした礼服姿の祐一と一緒に、それを見ている。祐ちゃん、お祝いに何か
弾くんでしょう、と問うと、祐一はとても悲しそうな顔をして、今それどころじゃないんだ、ピア
ノは弾けないよ、と言う。俺はもう、ピアノをやめたんだ。そして祐一は、どこかへ忙しく去っ
ていってしまう。立ちすくむ私のそばに里美が来て、気の毒そうに言う。由希子だって、もう
ややこしいのはごめんでしょ。知らない方がいいんだよ。
 さめざめと泣いている自分に気が付いて、目が覚めた。夢は生々しく、重く心にのしかか
り、目が覚めてもしばらく涙が止まらなかった。

 寒さの緩んだ月曜日の朝、遅い朝食を済ませ、身支度をする。「あんず」に行ってみよう
と思ったのだ。あの日以来、祐一からの連絡はない。「ラ・ストラーダ」での祐一の言葉が
ふとよぎる。もう会えないのかもしれない。しかし彼は別れ際に、また電話する、とも言っ
た。また電話する。いつ?
 一体、私は何を期待しているのだろう。口紅の色を選びながら、ひとり苦笑いする。何が
起ころうとも、どう変わろうとも、私たちの結末は、どこまで行っても平行線だ。それは私が
一番良く知っている。
 行ってきます。誰もいない部屋にぽつんと次げて、ドアを閉める。仕事の日は小走りで駆
ける駅への道を、今日はたっぷりと時間をかけて歩く。ダッフルコートの裾が揺れて、ター
タン・チェックの裏地がのぞく。通りの角にある児童公園では、垣根代わりの山茶花が、一
斉に白い花をつけている。
 快速電車の通過待ちをした後、各駅電車が発車する。図書館のある見慣れた駅も乗り越
して、十五分。電車を降りて、改札を出る時、電車の案内表示板が前と違っていることに気
が付いた。デジタル表示になっている。少し胸がざわざわした。
 駅前はしかし、そのままだった。記憶通りの道すじを辿る。一番手前が本屋、その次が文
房具屋、その隣りがパン屋、そしてスクランブル交差点に面してファストフード店。ここの斜
向かいが、「あんず」。―――「あんず」。
 私は呆然とした。真新しいインターネット・カフェが、そこにあった。

 「驚いた。私も全然知らなかった」
 森川さんは、良く冷えた華奢なグラスにビールを注いでくれた。
 「びっくりしたでしょう」
 「回れ右、で帰ってきたんです。どうしていいか分からなくって」
 ビールのびんを受け取って、今度は私が森川さんのグラスに注ぐ。
 豆腐料理の店は週末の夜とあって、大変な混雑ぶりだった。入り口の待ち合いでしばらく
待たされた後、やっと和風カウンターの席に案内された。「豆腐と湯葉の簡単コース」を二
人分注文し、グラスを合わせて乾杯する。
 「駅前にインターネット・カフェができたっていうのは、半年くらい前に、偶然会った映画研
 究会の現役生に聞いていました。だけど、祐一に会った時には二度とも、あの場所にイ
 ンターネット・カフェなんてなかったし、確かに『あんず』で待ち合わせているんです」
 「あんず」が存在しているのか、いないのか、実際のところ私には分からなかった。祐一
と会ったのも、一人で行ってみたのも、どちらも私には紛れもない現実で、あやふやなとこ
ろなど一つもなかったのだから。
 「これでますますタイムスリップの可能性が強まった訳だ」
 きつねかもしれないけど、と森川さんは真剣な顔をした。
 そう考え始めると、前々から感じていたうしろめたさがふくらんでいく。もし会いに来て
くれる祐一が、かつて学生だった頃の祐一に間違いないのなら、私は彼を欺いていること
になりはしないだろうか。私は、彼の求めている「学生の由希子」ではないのだ。
 そう言うと森川さんは、分からないけど、と前置きした。
 「少なくとも、ゆきちゃんは学生の白木くんに会えることを喜んでいる。彼の方も、そう思
 っているとは、思わないの?」
 あの日。平和であたたかだった初冬の一日。祐一も、私も、静かな幸福に満たされてい
た。それは、共感、というより幸福の共有だった。あの日の絵のような幸福は、私たち二
人のものだったのだ。そうして私はあの頃の心の柔らかさを取り戻し、祐一もまた、まっす
ぐにピアノに向かっていた。私たちの、一番自然な在り方で呼吸していた。
 森川さんは来たばかりの湯豆腐に夢中になっている。ここの湯豆腐は温泉の水でお豆腐
を炊くので、煮えるとお湯が白く濁るのだ。
 「白くなった!ゆきちゃん、食べごろ」
 お箸でつついて豆腐を崩しそうになっている。私は慌てて、待って待って、と小さな木杓子
を持っていって、すくいとる。
 ナイスキャッチ、と彼女は言い、生姜醤油の入った器をさっとさしだす。
 「もうちょっとでこっぱみじん、ゆきちゃんの分まで影も形もなくなるとこだった」
 森川さんが笑い出す。湯気に当たった頬がほてる。私たちは熱い湯豆腐を口にすること
に心を砕き、うっすらと涙目になる。

 キャシャーで会計を済ませた森川さんが、図書館の忘年会の予約を入れている。私は生
麩田楽を推奨し、森川さんは柚子のアイスクリームを絶賛し、満場一致でここに決定したの
だった。こういうことは自称「宴会係」の森川さんにお任せだ。
 引き戸を開けて暖簾をくぐると、冷たい空気が私たちを包む。繁華街になっている駅まで
の道を、人の流れに沿って歩く。雑貨屋、ブティック、レストラン、喫茶店、立ち並ぶ店々
のウィンドウは、どこもクリスマス一色に染めあげられている。白いスプレーで型抜きされ
たサンタクロースや、クリスマス・ツリーで点滅する色とりどりの小さな電球。きらきらす
る包み紙と大きなリボンでラッピングされたプレゼント・ボックス。あふれるクリスマス・ソン
グ。二十五日を過ぎれば、たちまち消え去る幻たちは、それゆえに押しせまった年の瀬を
高揚させる。一年のいろんな出来事を、淡々と押し流していく。人々は、その流れに身を
投じるように賑やかに通り過ぎていく。森川さんと私も、今はその中にいた。
 「クリスマス前に街を歩くと、いろいろあったけど、今年もよく頑張ったなあって気分になり
 ませんか?」
 そうだね、と森川さんはうつむいた。いつもは束ねている長い髪が、臙脂のコートの肩先
をすべる。ほんとにいろんなことがあったね。CD屋の店先でセール中の、ゴスペルの賛美
歌が聞こえてくる。
 「ゆきちゃん。きっと来年もいろいろあるんだろうけど」
 森川さんは顔を上げて、にっこりした。
 「とりあえず、今年はよく頑張ったね」
 「森川さんも」
 森川さんは、ショルダーバッグのポケットからハーシーのナゲットチョコを出して、私に
分けてくれた。私たちはかさかさと包みを開けながら、とりとめのない話に戻っていった。

 十二月も半ばを過ぎると、あっと言う間に年末年始の休館日がやってくる。図書館は少し
早めに休館になり、館員はその間に蔵書整理や掃除をする、年始も同じだ。最初の二日
間は蔵書整理があるために、休館する。
 忘年会が終わり、図書館の片付けも済むと、私は実家に帰る支度をする。私鉄を二本乗
り継いで一時間半、大学時代は通っていた距離なのだから大したことはないけれど、一応
帰省するという心構えをつくる。そう。この場合、持ち物より何より、心構えが肝要なのだ。
 祐一からの連絡は、なかった。心のどこかにかすかな失望を感じながら、それでも、あの
再会があってよかったと思おうとしていた。たとえもう、会えないとしても。 


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