花咲く日まで

waku waku waku
waku


 降りつづく雨は、なかなかやまない。
 二時間目の算数が終わった教室は、雨の日独特の匂いとざわめきに満ちている。外に遊びに出られない男の子たちが走りまわり、数人の女の子が教室の後ろでゴムとびをしている。文はそれをぼんやり見ながら、窓から外をのぞいていた。窓ガラスに教室の蛍光灯が反射して、外がことさら暗く見える。川はさっきよりもまた少し、増水したようだった。
 文の学校は、ふたつの川を見下ろす高台にあった。校舎の二階の窓からは、やがてそれらが合流し、大きなひとつの川となって流れていくのを、遠くながめることができた。そしてその上にかかる鉄橋を、いろんな色の電車が模型のように走りぬけていくのも見えた。
 「もうすぐ、コスモスが咲くのに。」
 文はそれを思うと、不安な気持ちでいっぱいになった。
 毎年秋になると、中州になっている河川敷いっぱいに、広々としたコスモス畑ができる。秋の澄んだ空とどこまでも向かい合う、数十万本のコスモスの大群。その種をついばみに降り立つ野鳥たち。コスモス畑と川の上、広々とした空間を走りぬける私鉄電車と鉄橋。絵葉書そのままのような風景を楽しみに、遠くから足を運ぶ人も少なくない。この辺りに住む人たちは、なおのこと、このコスモス畑を愛した。文も幼い頃から、コスモスが咲き始めると、両親に連れられ、お弁当を持って散歩したものだ。やがてこの学校からながめるようになって、五年がたつ。授業ではどの学年も、遠足や図画や野鳥観察や、いろんな口実でコスモス畑を訪れる。今年ももう、黄緑のじゅうたんは十二分に広がっていた。あと一ヶ月もすれば、またあの見事な、桃色のじゅうたんを目にすることができるはずなのに。
 雨足は相変わらず激しく、おさまりそうもなかった。川の水はじわじわと、けれど確実に川べりに迫り、中州へと勢力を広げつつあった。
 「気になるね」
 文が振り返ると、クラス委員の志穂が立っていた。
 「今年も絵を描きに出るの、楽しみにしてるのに」
 何の話をしているか、説明しなくたってすぐ分かる。神妙な顔つきの志穂の言葉に、文は無言でうなずいて、また外に目をやった。
 おとなしい文は、クラスの女子のどのグループにも属さず、いつも静かに本を読んでいるような子だった。それは孤立している、というより、どこか毅然と自分のテリトリーを守っているように見えた。みんなは少し付き合いにくそうにしているけれど、志穂はそんな文が好きだった。みんなの意見をきいて、みんなに都合よくいくように、なんとかしようといつも頑張りすぎる志穂には、文のマイペースさが新鮮で、少しうらやましくもあったから。
 「雨、すごくなってきたんじゃない?!」
 窓際の志穂を見つけた女の子たちが、口々に何か言いながら窓に押し寄せた。その時、チャイムが鳴って、担任の啓子先生が入ってきた。
 「みんな、座って」
 廊下に出ていた男の子たちが、あわてて教室に飛びこんでくる。
 「いいですか?静かにしてきいてね。さっき、大雨洪水警報が出ました。これから下校になります」
 やったー、と賑やかな歓声が上がり、後ろの席の男の子たちが手をたたいた。啓子先生はきれいな眉を少しつりあげ、厳しい顔をした。
 「そんな喜ぶような状態じゃないのよ。雨がかなりひどくなってきてるの。この辺りは高台だから、みんなのお家は大丈夫だと思うけど、もし川が決壊したら、学校が川沿いに住んでいる人たちの避難所になるからね」
 「先生、ケッカイって何ですかー?」
 クラス一声の大きい庄介が手を挙げた。
 「川の堤防が壊れることよ。そうなったら、水があふれだして大変なことになるの」
 教室中がしんとした。
 「それじゃ、帰る用意をして。急いで終わりの会をします。日直の人、前にきて」
 文の頭の中で、濃い桃色のコスモスがゆらり、と揺れた。のろのろと教科書をランドセルにつめ、もう中洲に目を向けるのが怖い、と思いながら、もう一度だけ、激しい雨すだれの向こうの、暗く濁った川をそっと見た。

 それは、この土地で百年に一度と言われる大雨となった。
 二日後、晴れ上がった空の下には、無残に倒れ、茶色くなってしまったコスモスたちがいた。地元の新聞は「コスモス全滅」の記事を載せ、あの日の雨で、河川敷が完全に浸水してしまったと報じた。幸い堤防の決壊には至らなかったけれど、泥だらけになった中州は実際、コスモス畑の見る影もなかった。
 学校でも家でも近所でも、誰もがコスモス畑を残念がった。そしてそんな話も消える頃、あの河川敷が来年、市の整備計画のもとに緑地公園になる、という噂がささやかれるようになっていた。

 「あれ?あのピンク色の点々、何?」
 黒板をノートに写していたみんなは、窓際に立った啓子先生の上ずった声に驚いて、一斉に顔を上げた。あの大雨から、およそひと月が経とうとしていた。いつものように庄介が一番に立ち上がり、みんながその後を追うようにして、窓に押し寄せた。
 「先生どれ?あれ?あ、あのピンクのかたまり?」
 文は鉛筆を握りしめたまま、志穂の顔を見た。志穂もまた、同時に文を見た。
 「あれ、コスモスなんじゃない?ゴミにしちゃ、たくさんありすぎるよ」
 「うっそだあ。コスモスは全滅したんでしょ」
 啓子先生はよし、と教科書を閉じ、みんなで確かめにいきましょう、と明るい声で言った。
 「よっしゃあ!」
 れいによって庄介が先頭をきり、志穂がみんなの世話を焼きながら、全員迅速に廊下に出た。こういう時はみんな行動が早い。授業中だから静かに、という啓子先生の声をききながら、動き出した列の一番後ろで、文はどきどきしていた。本当に咲いたのだろうか。だとしたら、来年はあの見事な畑に戻るのだろうか。公園造成の噂なんて、文の頭からすっかり吹き飛んでいた。志穂は女の子たちと小声でしゃべりながら、さりげなく文の隣へと移動した。
 「きっと、咲いたんだよ。コスモスは、強い花だもの」
 志穂の言葉に文は顔を上げた。文の目に強い光が宿り、答える代わりに、大きく頷いた。

 それは、確かにコスモスだった。
 黄ばんで茶色くなり、倒れたまま腐ってしまったコスモスがほとんどだったが、中には立ち上がり、ちらほらと花をつけているものが、近くで見ると無数にあるようだった。
 「奇跡的だなあ。やっぱり咲いてたんだ」
 庄介が感心したように、いくつか花をつけている茎を持ち上げた。
 「でもあのコスモス畑には、程遠いよなあ」
 その場にしゃがみこんだまま、智史がどうしようもなく落胆した声で言った。おっとりした彼の、いつものとぼけ顔が曇る。
 「あんな一面に、咲くわけないもんな」
 「じゃあみんなで、種をまこうよ」
 唐突な意見とその強い口調に、その場にいた誰もが驚いて、声の主を見た。文だった。
 「来年もう一度、咲くように。あの広さになるかどうか分からないけど、みんなで協力して、まこうよ。」
 「種まくったって…来年にはこの野っぱらごと、なくなっちゃうんだぜ?公園になるって…」
 智史があきれて意見した。けれど文はひるまなかった。
 「私、自分の大事にしていた庭がなくなったような気がするんだ」
 「うまいこと、言うな。俺もそう思うわ」
 ひと呼吸置いて、庄介が言った。日に焼けた顔を上げ、きっぱりと。
 「私、やるよ」
 志穂が間髪入れず声を上げた。
 「もう一度、見たいもん。あのピンクのじゅうたん」
 「種、まきたい人ー?」
 庄介がふざけて、れいの大声で問いかける。
 「はーい!」
 手が挙がる。次、その次、と順々に。智史も、悠基も、健一も。真理子も絵美も貴子も。そしてもちろん、文も。
 志穂が笑い泣きしながら、それを数える。挙がった手の数と、クラスの人数とが、一致するのを確信しながら。なぜかひとり多かった。数え直しかけた時、啓子先生がいつのまにか輪に紛れて手を挙げているのに気付いた。
 「やっぱり背が低いんだわ、先生」
 みんなはどっと笑い、むくれる啓子先生を口々に冷やかした。

 四月。
 クラス替えなし、担任持ち上がり、の進級で、文たちは六年生になった。
 あれから半年、れいの計画は着々と進んでいた。
 市役所に行って、河川敷の情報を集める班。川べりの家を回り、コスモス畑のことをきいてまわる班。肝心のコスモスの種を手に入れるため、農家を回る班。コスモスの生育と生態について調べる班。それぞれが自分の役割を果たそうと一生懸命だった。それはつまり、みんながそれぞれに、あのコスモス畑に寄せる思いとたくさんの思い出を持ち、それを大切にしていたということなのだろう。
 孤立しがちだった文はいつか計画の中心人物となり、集められた情報のまとめ役となっていた。志穂は相変わらず話し合いを取り仕切り、庄介もまた、あのキャラクターから、仲間の気持ちをまとめるのにひと役かっていた。
 初夏を思わせる暑いくらいの日差し。気候が安定してきた連休明けのある日、クラス全員があの河川敷に降り、一斉にコスモスの種をまいた。花を育てている農家から分けてもらった種、学級費をやりくりして買った種、話を聞いた有志の人からもらった種。手もとに集まった、ありったけの種を、河川敷にみんなでまいていった。ところどころ生き残っているコスモスの隙間を埋めるように、班ごとに手分けして、重ならないように。そして、もうじきやってくる、梅雨の長雨に負けないことを祈りながら。
 「コスモスねえ。惜しいけど、仕方ないよ。もう決まったことだから。予定では、十月半ばにはブルドーザーが入るんですよ。残念だけど、それが咲いたとしてもすぐに…」
 川の流れにふと目をやった志穂は、市役所職員の困ったような顔を思い出した。けれど、いいのだ、それでも、と志穂は思った。ここまでみんなでやってきたことが、みんなの思いが、全部、このコスモスの花なのだから。今ではそんなふうに思えるのだった。
 「種まき、完了?」
 自分の持ち場がどこだか分からないくらい移動した頃、啓子先生がタオルで汗を拭きながら、誰にともなくきいた。
 草むらの中にしゃがんでいた志穂がそれを聞きつけ、立ち上がって声をはりあげる。
 「こっちは完了!」
 体操服姿で汗まみれになったまま、全員駆け足で集まって報告する。
 「こっちも!」
 「こっちも完了!」
 「よっしゃあ!」
 庄介があらん限りの声で叫ぶ。拍手が湧き上がる。そして、全員が晴れやかな顔でもう一度、よっしゃあ!と叫んだ。

 「来月、引っ越すことになりました」
 終わりの会で手を挙げた文が、唐突に言った。あまりに当たり前のことのように言ったので、みんなあっけにとられた。
 二学期が始まり、短縮授業も今日で終わろうとしていた。運動会の練習に入り、変則的な授業予定に、クラス中が落ちつかない気分のまま過ごしていた。みんなコスモスのことを気にしながらも、小学校最後の運動会で、最高学年としての役割で頭がいっぱいになっている、そんな矢先のことだった。
 「なんで急に引っ越しなんて」
 庄介が不服そうに言う。大きな声が教室中に響く。
 「お前んち、転勤族じゃなかったろ」
 文は、何から、どう話せばいいのか、分からなかった。上手に説明する自信も、なかった。けれども、しんとして聞き入っている仲間たちに、きちんと伝えなければ、と思い、小さな声で、ぽつりぽつりと話しはじめた。
 夏休みに入ってすぐ、おじいちゃんが亡くなったこと。
 おばあちゃんがひとりぼっちになってしまい、すっかり元気をなくしていること。
 おばあちゃんの手足の自由が利かないこと。
 お父さんたち大人同士で、いっぱい話し合ったけれど、年老いたおばあちゃんは、住み慣れたところを離れて暮らせないということ。
 おばあちゃんの家の近くに仕事場を変えてほしいという、お父さんの転勤希望が昨日、通ったこと。
 文はできるだけ、なんでもないことのように言おうと努力していた。けれど、話せば話すほどに、なぜか涙があふれて、最後には止まらなくなった。
 「ごめん」
 庄介が突然立ち上がり、謝った。
 「理由も聞かずに、ひどい言い方して。全体、お前のせいじゃないもんな。残念だが、仕方がない」
 黙ってその場を見守っていた啓子先生が、文のそばへ行き、肩をたたいた。
 「がんばれ、文ちゃん」
 文は掌で涙を拭い、小さな声で、みんな、ごめんね、と言った。
 仲間たちは言葉が見つからないまま、そんな文をただじっと見つめていた。
 遠く窓の向こうには、いつもと変わらず穏やかな川の流れがあり、浅くやわらかな緑に彩られた河川敷が広がっていた。あと少し、あと少し。コスモスが咲くまで、文がここにいられますように。クラス中の誰もが心の中でそう祈っていた。

 急だったので、引っ越しの準備は大変だった。両親はいろんな手続きに追われ、家の中は片付けなければならないものであふれかえった。
 転校を目の前にして、文は疲れから風邪をひいて熱を出し、学校を休む日が続いた。あと少しなのに、学校にいけない、みんなに会えない、コスモス畑の様子を見られない、くやしさ。さよならのあいさつだって、まだしてない。文は焦った。
 そんなある日、志穂が文の家を訪ねてきた。
 「引っ越しダンボールにつぶされたんじゃないかって噂が立ってるよ」
 「そんなこと言うの、庄介でしょ」
 寝たまま勢いづく文に、冗談、冗談、と志穂は笑った。
 「文ちゃん、お引っ越しまであとどれくらい?」
 「あと一週間…来週の火曜日。荷物だけ引っ越し屋さんが先に運んで、私たちは、次の日に電車で行くの」
 「そうか。もうじきだね」
 「だから、早く学校にも行かないとってあせってるんだ」
 「そうそう。早く来ないと、文ちゃんの給食、毎日庄介が食べちゃうぞ」
 志穂がからからと笑った。 
 志穂ちゃん、と文が体を起こし、ありがとう、と言った。なーにが、と志穂は振り返り、文の目を見た。
 「早く元気になってね」
 うん、と文はうなずき、志穂はバイバイと手を振った。二人とも、一年前のあの大雨の日のことを思い出していた。交わす言葉もほとんどなかった、あの頃の二人。その姿は遠く遠く消え去り、もう追う影もない過去の中にあった。

 さようならの日は、駆け足でやってきた。
 すべての荷物が出発した翌朝、母とともに学校を訪れた文は、どきどきしながら、まず教室の窓をのぞいてみた。以前のような眼下一面のコスモス畑ではないけれど、川向こうに淡いピンクのかたまりがかすんで見えた。コスモスが、咲いたのだ。ただそのことがうれしくて、みんなの顔を前にして、出てくる言葉はただ、「ありがとう」ばかりだった。何もかも、いつもと変わりない学校。いつもと変わらない教室。クラスのみんなの顔。明日もまた、ここにやってきて、何事もなく授業を受けるような気がした。同時に、心のどこかにぽっかり穴が空いたような、変な気持ちもした。
 「文ちゃん」
教室を出て階段を降りかけた時、志穂が後ろから小走りで追いかけてきた。ふたつに束ねた髪が、肩の上で揺れている。
 「あさって、誕生日だよね」
 志穂が左手を後ろ手にして、いたずらっぽく笑った。
 「みんなからのプレゼント。はい」
 そう言って、ピンク色の封筒を文に手渡した。表には、高野文さま、と書かれている。志穂の字だ。
 「これで私の使命は果たしたぞ」
 志穂はバイバイと手を振った。
 「ありがとう、志穂ちゃん…」
 志穂の後ろ姿が見えなくなってから、文はそっと封筒を開けてみた。中から同色の便箋が一枚、出てきた。
 「文ちゃん。十二才のお誕生日おめでとう。ひと足早く、みんなでお祝いするね。
電車が出発して五分たったら、あのふたつの川を越えるから、その時、きっと窓の外を見て。」

 電車が発車して五分。見なれたふたつの川を越える鉄橋から、窓の外を見た文は、あっと小さな声を上げた。さっき学校の窓からかすんで見えていたピンクの一面が、目の前に迫ってくる。ふたつの川に挟まれた河川敷に、明るい桃色のじゅうたんが広がり、ゆらゆらと揺れた。
 みんなの思いの結晶だ、と文は思った。そして、はっきりとそれを心に収めようと、滲む目をこすり、見開いた時、コスモス畑の端っこに、大きく手を振る志穂の、みんなの、先生の、姿が見えた。お誕生日おめでとう。元気でね。さようなら。志穂の声が、確かに文の耳に届いた気がした。


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