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随想ノート 9



においの記憶 (2009/11/7)

 めまぐるしい日常の中で、ある日ふと、気が遠くなるような昔の、それも些細な場面を思いだすことがある。
 それは決まって、何かの「におい」を感じた時。
 それが何のにおいなのか、記憶のどの断片を呼び覚ましたのか、大概は上手に説明できない。けれど、それと同じにおいを感じた、遠い過去のある日、ある時の、ある場面へと、心がひと息に、軽々と、時間と空間を飛び越えてゆく。
 そして、何ものか分からない、せつなさに胸をしめつけられる。

 小さなお友達にもらった小さなお手紙に、子どもの頃折った、小さな折り紙のにおい、柄、手触りが、瞬時によみがえる。
 ベランダから室内に戻った時のにおいに、文房具屋に入った瞬間を思いだす。
 保育園で出た、脱脂粉乳のにおいに似たにおいと出会い、保育園のあらゆる情景が脳裏にひらめく。
 ふだんの生活では、まったく思いださないような、忘れ去っているはずの、遠い情景やものが、あっという間に手元、目の前、にやってくる。
 以前の雑記に書いた、「畳のにおい」などは、そのはっきりとした例である。
 「私」という人間を構成している、ちいさなちいさなひと粒の粒子を、そこに見つけるのだ。
 そのたびに、今ここにいる自分だけが自分を作っているのではないことを確認する。

 においの記憶、と呼ぶべきか、記憶のにおい、と呼ぶべきか。
気温の下がるこの季節は、めったに開かない記憶の引き出しが、においによって思いがけなく開かれることが多いような気がする。そして、自分の魂のあるべき場所に、近づけるような気がする。自分の誕生月があるから、特にそう感じるわけではないだろう。秋冬の冷たい空気の中には、においの粒子が、濁りなく飛び交う魔法があるのだ、きっと。



わらびもち事情・再び (2007/7/14)

               

 ついに、つかまえた。
 「悲しい方のわらびもちやさん」を、つかまえたのだ。
 「明るい方のわらびもちやさん」をつかまえて以来、実に5年の歳月が流れていた。
 当時のわらびもち事情については、ここに綴ったとおりである。
 再び、このことについてここに記すことになるとは、夢にも思わなかった。

 とある6月の夜のこと。
 子どもたちを寝かせつけ、外に出て花の水遣りをしていたら、あの耳慣れた、うら悲しいメロディーが近づいてきた。
 時に時刻は、21時30分。
 なぜ、こんな時刻に回ってくるのだろう。それは、この悲しい方のわらびもちやさんを今までつかまえられなかった、大きな理由でもあった。こんな時間に、わらびもちを買いにわざわざ外に出てくる人があるのだろうか。だいたい、音が聞こえても、どこを走っているのか皆目見当がつかないではないか。私にとってそれは、あのやるせないメロディーとともに、積年のナゾであった。
 見えかけたトラックに向かい、気付けば私はホースを投げだし、駆けだしていた。
 低速で走行中のトラックが止まった。
 トラックの荷台に数個のクーラーボックスが積まれており、運転席からはかすかに、これまたせつない短調の演歌が流れていた。
 急いでメニューの書かれた板をながめる。1人分300円、2人分500円、5人分千円、とある。なぜ、分かりやすいグラム表示でないのだろう。明るいわらびもちやさんもそうであったことを思うと、目分量で作っているのかもしれない。
 おもむろに運転席から降りてきたのは、少しくたびれた感じのおじさんであった。
 「あのー、2人分お願いします。今から、財布をとってきますので」
 そうおじさんに告げて、あわてて家に駆けもどる。5年前と、同じ金額のものを注文したとも知らずに。
 財布を手にしてトラックに戻ると、おじさんはクーラーボックスのひとつを開け、網杓子で中のものをすくいとっている最中だった。
 明るい方のおじさんは、これを、きなこ入りパックに直接落とし、ふたをしてシェイク!という激しいレシピを実行していたのであったが、このおじさんは違った。もうひとつの、きなこ入りらしいクーラーボックスを開け、そこにその網杓子にのったわらびもちを落とし、ざっくざっくときなこをまぶしていく。
 それをふたたび杓子ですくいあげ、透明なパックにつめてくれた。爪楊枝をさしてふたをして輪ゴムをかけ、「500円ね。」と私に差し出した。
 恐縮しながら受け取った私は500円玉を差し出し、「ありがとう!」とだけ告げて、一目散に帰宅した。トラックは、再びあの悲しいわらびもちソングとともに、遠ざかっていった。
 ああ、なぜ、こんな夜に回っているのか。
 なぜ、あんなにもせつない旋律を流しつづけるのか。
 明るいわらびもちやさんにもらった、おまけのおもちゃと同様、追いかけてもナゾ、追いついてもナゾ。わが町のわらびもち事情は、5年経ってもやはり、ナゾに満ちているのだ。
 それでも。
 あの頃、「まま、わらびーもち、きたね。また、かいにいこね。」と言った子どもの言葉に、5年越しに応えることができた喜び。そして、この5年のあいだに、わらびもちの食直後、カゼによる嘔吐に襲われたため、なんとわらびもち嫌い、きなこ嫌いになってしまっていた上の子が、翌日、このわらびもちにより、それを数年ぶりに撤回してくれたという喜びが重なったことで、この町を長年回りつづけているわらびもちやさんの偉業に恐れ入っている次第である。

 あの頃、まだ赤ちゃんだった下の子は、この春からピアノを習いはじめ、今、長調と短調の旋律の聞き分けを学んでいるところだ。
 「楽しいドレミ」と「悲しいドレミ」が分かるようになった。
 そんな彼が、「ままー。あのわらびもち、かなしいわらびもちやさんだね。」と、はっきり聞き分けたことに感慨を覚えながら。
 今夜もまた、聞こえるあのせつないわらびもちソング。
「わらびーもちー、わーらーびー、もちー。つめたーくて。おいし〜ぃ〜よ。わーらーびー、もちー」・・・・・
 私の耳の底にこびりついた、哀愁を帯びたチャルメラそっくりのそのメロディーは、確かに、F#m、fis moll、嬰ヘ短調なのであった。



イメージ (2007/2/9)

 自分が持っている、記憶や印象、イメージといったものは、自分以外の誰かと共有することが難しい。
 たとえ共に時を過ごした者同士でも、互いの心の持ちかたで、そのイメージの色あいが変わってくるものだ。もとより、個性が違うのだから、できごとなどの具体的なものはともかく、その周りを取り囲む光のようなもの、イメージの残像、は、皆それぞれに、異なったものを抱いているのだろう。
 記憶の、引き出しのなかに。

 今年の、お正月のこと。
 母がギターを習ってみたいという話を冗談半分?でするので、昔の母の実家、建て直す前の、土間のあった家の2階の祖父の部屋に、ギターがあったことを突然映像で思い出した。畳の大広間の片隅にある、短くて急な階段。子どもの頃は、上るのが怖かった。そこに続く、屋根裏のような部屋。青と白の縞模様をした、ビニールの長いすがあり、その傍らに、古いギターが置かれていた。確か、ナイロン弦だったから、フォークではなく、クラシックギターだったのだろう。
 「おじいちゃん、ギター弾いてたんちゃうの?昔、2階の部屋にあったで」
 「えー。そんなこと、よう覚えてるなあ。おじいちゃんギターなんか弾けへんでえ。Y(叔父)のちゃうかー?」
 「あのギターが、わたしが生まれて初めてさわったギターや…」

 そう。わたしの、ギターへの憧れは、あそこから始まっていた。
 その数年後、さだまさしのファンとなり、「精霊流し」という有名な歌を知り・・・あの歌の2番に出てくるギターのイメージは、おじいちゃんの部屋とギターだった。歌を聴くたび、目の前に浮かぶのは、その光景だった。いつもいつも。
 それは自分にとって当たり前のことだったから、今までわざわざ口にしたことがなかった。
 お正月の会話がきっかけで、数十年経って初めて、オットーにこの話をした。
 イメージというものは、本当に、個々の心の持ち物なのだ、と実感したできごとだった。



傘、一本 (2006/10/2)

 傘。一本。
 錆びて色あせ、修繕しても次のどこかが壊れるようになった、傘、一本。
 でも、捨てられない。身代わりも、見つからない。

 ただの古びた傘だけど、今まで、雨の日はずっと私のそばにいた。
 腕にかけられて、いろんな場所に立てかけられて、私と一緒に授業を聞き、電車に乗り、仕事に行き、いろんな傘立てで私を待った。いろんな私を見た。
 学生だった私が卒業し、夢を目指し、夢に破れ、思いがけぬ再会をし、結婚し、母となり、赤ちゃんだった子どもが大きくなり、その送り迎えをするところまで、ついてきてくれたのだ。
 心に映るあの日、あの場面。そこにちゃんと傘はいて、今、ここでも向かい合っている。
 私がちゃんと、生きてきた証拠なのだ。この傘は。
 私の大事な十数年が幻でなかったことの、生き証人。

 古びた傘、一本。



名前 (2006/10/2)

 名前で呼ばれることが、年齢とともに少なくなってきた。
 そんなことをある日、不意に実感する。
 今の私に与えられているのは、○○さん、という記号。
 未だにそれは宙ぶらりんで、わたしは○○さんじゃない、と心の内で思う日もある。
 名前、で私を呼ぶのは、実家の家族、実家の親戚、古い友達。
 今の家族は、すべての場面で「ママ」という一般名詞。
 それ以外で名前を示されるのは、○○△△さん、と社会的な場面で使われる場合のみである。つまり、○○さん、という宙ぶらりんな記号の、付随品。
 宙ぶらりんな組み合わせでしかない。

 それでも、社会で人々と交流する時、私は私の宙ぶらりんな姓名を名乗り、メールアドレスを交換したりする。少し面映い気持ちで。
 ママ友達のあいだでは、○○□□くんのお母さん、という記号で振り分けられることも多い。そこにはもう、わたしの「名前」すら存在しないのだ。

 最近、転勤してきたばかりの人と、子どもを通じて知り合いになった。
 マイペースでしっかり者らしいその人は、「私はメールアドレスは、(お母さんの)名前で入れてるから教えて」と言う。子どもを介して知り合った人たちは、そういえば、名前ってお互いに知らないこと多いよなあ、としみじみ思いながら、互いの名前とメールアドレスを交換した。
 その人の「名前」を見たとたん、「ああー。」と思った。
 その「名前」は、その人にぴったりの名前だったから。
 その人の容貌、声、しゃべり方…それらを統べる雰囲気が、見事に名前に現れていたから。
 そして、気付く。このところ、こういうかたちで相手の名前を聞くにつけ、「ああー。」と納得することが、とても多かったことに。
 皆、たいがい同世代か近い世代で、よくある名前、がほとんどで、それでも、その名前がとても似合っているのだ。
 「ゆき」さん、ときいて、ああー。と納得、「まさみ」さんときいて、ああー。と納得、「のりこ」さんときいて、ああー。と納得…。どの人も、全身から「名前の雰囲気」を振りまいている。
 不思議なものだ。「名は体を表す」とは、よく言ったものだ。
 そしてまた不思議なことに、同じ名前でも、子どもの場合には、名前がしっくりなじまないことも多いのだ。
 人は、自分の「名前」で呼ばれ、自分という人間をその「名前」で認識しつづけるうち、その名前に本質的に近づいていくのだろうか。「名は体を表す」は、年をとるずつ、顕著になっていくものなのだろうか。呼ばれる回数と、反比例するように。
 そんなことを思い、私もまた、この名前独特の雰囲気を振りまいているのだろうか、とぼんやり考えてみる。




爪みがき (2005/5/6)

 なぜか突然、思い出した。
 「爪みがき」のことを。

 中学一年の頃、女の子たちのあいだで、「爪みがき」が流行った。
 ピンク、黄色、水色、三色の細長いマットが入ったセットで、目の粗いマットから順にみがけば、つめがぴかぴかになるというものだった。
 おしゃれをしたいというよりは、つめがつやを持って光る、ということに憧れていたのだろう。それが欲しくて、隣町の駅のまだ向こうのファンシーショップ目指し、歩いて買いにいったことを、鮮明に思い出したのだ。
 風が強く、雨がばらばら降っていた。それでも、はやる気持ちが抑えられなかった。
 その風景に身を置いて、ああ、わたしのこういった性質は、昨日今日つくられたものではなかったと、妙に実感した。

 数時間後、そんなこともすっかり忘れた夜更けに、ハンドクリームを手にすりこんでいて、いつになくつめにもクリームをつけて大事にこすり、ながめ、また思い出した。つやつやと光るつめ。ああ、こんなふうに、抑えぎみに光るつめに憧れていたのだ、とまた思い出した。ぴかぴかとではなくて、少しマットに、でもつやのある光。
 そしてまた、思ったのだった。
 きらきらと眩しく光るものより、そんな柔らかい光のほうが好きなところも、やっぱり、今始まった性質ではないのだ。
 そんなことをぼんやり思い、どうしてだか、安心した。
 こうでしかなかった自分、という、あきらめの極地で。



立ち話から (2005/1/26)

 無防備にしゃべる人と話していると、なぜだか安心する。
 周りの目も気にせず、ただ私にだけ視線を置いて顔を輝かせ、一生懸命に話す人。
 せわしなく動く口元も、見開かれた目も、しゃべることにだけ集中して、きらきらして見える。うちで姉弟がひどいけんかをする話。そのようす。電車のおもちゃでこんなふうに遊ぶとか、パートに出はじめた友人が、覚えることが多くて大変そうだとか。
 たとえそこが、特売日のスーパーの、混雑している一角であろうとも。
 わたしはというと、カートをがんがん押してぶつけてくるおばさんや、それを避けてかごを持ったまま、脇の通路へ逸れていく人の視線が気になる。ちょろちょろする子どもが他のお客さんの邪魔をしないか、そうしてしゃべりながらまた、この人に失礼な言動をしていないか・・・。頭を巡らせすぎて、あとで疲れる。これは、わたしの性格全般のことで、その人と話しているからというわけではないのだけれど。
 しかし。
 そんな自分を感じるにつけ、まるでそんなようすを見せないその人が、とてもうらやましく、いとおしく見えてくる。こんなふうに無防備に、誰かと話をしてみたい。あっけらかんと楽しげに、自分の話をしてみたい。そして、大らかに笑ってみたい。
 無防備に無邪気に、自分を相手に放り出せる人を、わたしは実は、とても好きなのだと思う。あこがれにも似た気持ちで。



『華城』 (2004/12/8)

 一枚のはがきが届いた。
 遠い町に住む、大学時代の後輩からだ。
 近況報告を書き添えてある。懐かしい文字。
 新築と引越しの知らせだった。新築予定があることを一年ほど前に聞いていたので、ついに完成したんだなと、おめでとうの気持ちでいっぱいになった。

 大学時代、文芸部に所属していた。
 もの静かな先輩方に、にぎやかな同輩たち、そしてかわいい後輩たちに囲まれて、楽しいクラブ生活を送っていた。
 日常の話題には事欠かない。部員たちは、学校に来るとまず、またお昼ごはんを食べに、また授業が終わるなり、またさぼったり(!)と、とにかくよく部室に集まった。たいがいはお茶を飲みながらバカ話をして、次に発行する部誌の原稿を集めたり、編集したり(も)していた。(どっちが本分だか分からない。)
 その文芸部の、歴史を汲んだ部誌が『華城』といった。
 『華城』とは、大学の校歌の、歌詞のはじめに出てくることばなのだ、と先輩に教わった。
 春の卒業時と、秋の学祭時。年二回の発行を、わたしたちも受け継いだ。34号からの参加。ひとつ上の先輩に、手取り足取り、発行までの手順を教えてもらう。
 時は、ワープロ全盛期。PCなどは、まだまだ使われていない時代。手書き原稿を直接印刷所に持ちこみ、活字にしていた『華城』を、わたしたちの代になって、ワープロで原稿を作り、印刷所にまわすという画期的な改革?を成し遂げた。コスト削減、手描きイラストも入れられるようになり、一石二鳥。
 自分たちの作品が、印刷されて本になる…この喜び。締め切りをおそれながらも、みんな思い思いに作品を書き綴った。それぞれに読みあうのも、いとをかし。仲良くなった部員同士の交流として、コピー誌のミニコミも定期発行した。交代制の編集がまた、楽しい。編集者の個性あふれるそれらの冊子は、一冊ずつが尊重され、読みつくされ、大事に保管された。
 時は流れ、先輩方を送り、わたしたちも卒業の時を迎え、後輩たちも順々に卒業していく。文芸部と『華城』への思いいれの深さから、できるだけ、年の離れた後輩たちともつながるように務め、また、あつかましながら卒業後も『華城』に原稿を寄稿させてもらったりもした。
 やがて文芸部にもPCが導入されたようで、部のサイトができているのを知った時には、感激した。そこまでつないで、部を育ててくれた後輩たちに感謝をした。しかし時代の波に押され、サイトを作ってくれた後輩の代で、新入部員がゼロとなり、ついに廃部となったのである。
 最終の『華城』は、60号だった。

 わたしたちが入部した時、先輩方に見せてもらった、本棚いっぱいの古い『華城』。そこまでにもすでに、それと分かる変遷があった。そして、わたしたちが作ってきた『華城』、世代交代して作られてきた『華城』。幸か不幸か、わたしは最終号までを見届け、部のサイトの消滅も確認したのだった。
 部なき今、『華城』全号は、大学図書館の中にだけ、ひっそりと保管されていることと思う。紙面を彩る、代々の部員たちの青春を封じこめて。

 後輩の一枚のはがきから、筆跡から、彼女のすばらしい感性に裏打ちされた、美しいことばの数々がよみがえり、胸をうずかせながら、『華城』とそれをとりまく青春を思ったのである。
 いつか。
 あの頃の文芸部に出会えたら、と思うのだ。
 まぶたの裏にある文芸部は、今も、わたしの創作を支えてくれている。
 そうであるかぎり、わたしにとって、あの時代は、『華城』は、決して幻ではない。
 



二周年によせて (2004/12/8)

 ひさびさのノオト、そして更新である。
 何をしていたと説明するほどのことはない。ただ、日常に埋没していたのである。
 押し寄せる数々の現実問題の前に屈し、頭でそれらを箇条書きにし、時には混乱しながら、どう片付けていくかをずっと考えていた。そして一方で、片隅にこびりついて離れない「更新しなければ」の焦り。かなり苦しい月日であった。いくらマイペース運営とはいっても、見てくださる方のことを考えないわけではなかったから。

 さて、「風つむぎ」として出発して、先月末に二周年を迎えた。
 ここでの最初の志はなんだったろう。
 そこよりさかのぼること二年、初めてのサイトを開設した折のその目論見は、「日常の慌しさに埋もれることなく、書き続けること」――これに尽きた。
 出産・家事育児を乗り越え、二年間運転したそのサイトを閉じ、新たに「風つむぎ」として歩きはじめた時、そこにさらに、誰からも干渉されることなく自由に、自分らしく、折々の風をつむいで、ということが加わったように思う。
 その風とは、季節の風であり、日々の暮らしの風であり、また、わたしの中にひそむ感情の風であり、わたしが感じる世界そのものである。
 自らを確認し、自分が自分らしくいられる場所、そして、書くことを忘れないための場所――苦心して創りあげた大切な場所から、心離れたように見えたこの一年は、現実での新生活への適応が迫られた一年であった。
 昨秋の引越し以来、今までになかった、苦手な「ひととのかかわり」というものをこなさねばならなくなった。引っ越した距離はそこからそこだというのに、微妙に生活圏も、人間関係も変わった。幼稚園バスの運行時間のせいで、生活サイクルまで変わった。
 他の誰とも深く関わらず、ただ自分の世界を展開していられたあの家での暮らしが、胸が痛むほどに懐かしい。けれど、子どもたちも大きくなり、世界を広げていく。それに追随して、親同士の有無を言わさぬ付き合いというものも生まれる。それが苦痛でたまらなく、どうにも書くことへの意欲が失われたままだった。近所との関わりの中で、家にいても常に、ひとりではない、誰かに見られている、という意識がふくらみ、苦しんでもいた。
 これらは今も、まったく解決されたわけではない。この状態や気持ちからも得るものがあり、いずれ書くことの糧にもなっていくのだろうが、まだその域には達せていないのが現状だ。ここから離れて、自分の針をゼロに戻す時間が欲しい。もう少し、「自分らしい」あり方を取り戻す時間、場所が欲しい。今のわたしの、切実な願いである。
 そう思うにつけ、前ほど手をかけることはできなくなったけれど、「風つむぎ」の存在に感謝せずにはいられないのだ。疲れた時、ぼんやりとサイトのあちこちを散歩する。そして、いろんな風景や、風や、思い出に出会う。見る人をがっかりさせるくらいならと、閉鎖も頭を何度もよぎったけれど、やはり、何より自分のために、ここを存在させておきたいと思うのだ。ひっそりとで、いいから。
 そんなわけで、走り出して三年目、この一年を受けた不安もはらみつつ、新しい一年はどんな風をつむげるのだろうと、ひそかな楽しみでもある。
 願わくば、たとえ一歩でも、自分の理想と自分らしさが歩み寄った姿でありたい。
 自己の位置を再確認しながら、無理なく、進んでいきたいと思うのだ。
 「風つむぎ」のあゆみは、わたし自身のあゆみ、といえるように。

 そして今また、夜更かししないかぎり、書きごととサイト更新はできないということも、再確認した思いである。



はったりのない美しさ (2004/9/18)

 はったりのない美しさを持つひとに、心から憧れる。
 透きとおったその美しさは、どこまでも高く、青い空のようだ。
 そのひとと接しているあいだ、その色にこちらも染まっていく。
 包容力のある、力強い美しさ。澄んだ魂。
 たまたま…そんなひとふたりと、偶然、続けて電話で話した。
 過去、同じ目的を目指して、濃厚な数週間を過ごした友達は、今もあの日のままに、透明で明るい空を抱いている。
 いつもいつも、そのひとの紡ぎだす世界を、ため息まじりでながめるばかりだったのが、はじめて、そのひと自身に触れた。
 やはりその世界そのままの、あたたかで、優しい空に出会った。
 天を突き抜けるような、きっぱりとした青。
 はったりのない、そんな美しさに、心から憧れる。
 自分には絶対に持てないもの。いつもいつも、見上げるばかりだけれど、その美しさを見つけられた自分のことを、信じてもやりたいのだ。



人生は (2004/8/25)

 ゆらゆらと波に乗りながら波をかわしながら、最後に行きつくまで、思い煩うことなど、実は何もないのかもしれない。
 やってくる大波小波と目を合わせて対峙してしまうから、失敗するのだ。
 やってくるものはやってくるもので、視界の端のほうで見ていればいい。
 のまれたらのまれたで、のまれていればいい。
 自分が大切だと思うものから、目を離さなければ。
 思い煩うことは何もなく、最後にたどりつけるのかもしれない。
 そう思いながら、それができないのは。
 まだまだ、修行のまっただなかである。



マスエさんのこと (2004/7/25)

 「今年は空梅雨で、まだ梅雨明けしないうちから雨はほとんど降らず、カンカン照りの真夏日が、うんざりするくらい続いていた。」
 あのフレーズが、梅雨のさなかから頭でぐるぐるとまわっていた。
 そんな物思いにふけっていて、思い出したのは祖母とつくった浴衣のことだ。
 あの夏、わたしは濃紺の、あさがおの柄の反物を抱え、祖母のところに泊まりにいった。
 今では寝たきりになっている祖母だが、その頃はまだ元気で、リュウマチ持ちの手でもなんとか、運針することができた。
 つくり方を教えてもらおうと勢いこんで行ったのはいいが、和裁の基礎などまるで分かっていないわたしには、きいてもちんぷんかんぷんのことばばかり。まず、指示される尺寸が分からない。続けて、「くける」って何?この道具何?と分からないことだらけで、結局のところ、あの浴衣は祖母とマスエさんがつくったというべきだろう。
 あの時、手の不自由な自分ひとりではと、祖母が呼び寄せたのが、近所の「マスエさん」だった。
 このひとは、祖母がお嫁入りの世話をしたくらい、親子に近い年の差がありながら、祖母の気持ちを汲んでくれる、親しい友達だったらしい。
 マスエさんはどっさり和裁の道具を抱えて現れ、田舎のおばさんらしく、てきぱきと針を動かし、こてを使い、すいすいと浴衣を縫いあげていった。浴衣の前を、両側の端から祖母とふたりで「くけて」いってくれた。
 最後には、余った布でちいさな巾着まで作ってくれた。わたしはただ、ふたりの手つきをほおおと感心してながめ、またおたおたと、言われるままに「くける」手伝いをしたくらいだったのである。
 つくり方をノートにとっておこうと思ったのに、それができないくらいに、ふたりはさっさと作業を進めていったのだった。
 実家に置いたままのあの浴衣に、最後に袖を通したのは4年前、祖母が危篤に陥った時のことだ。写真を撮って、病院まで母に持っていってもらった。
 その後祖母は奇跡的に持ち直し、ずいぶん弱ったとはいえ、今も気だけは達者で、叔母と静かなふたり暮らしをしている。
 マスエさんはというと、やはり4年ほど前に、病気で亡くなってしまった。自分よりずっと年下のひとが、自分より先に逝ってしまったことを、祖母はとてもせつながり、悲しんだ。
 浴衣を思い、祖母を思い、マスエさんを思い、時の流れを思った。
 先日、突然思い立って、ワンピースを縫いはじめてから、ずっとずっと、そんなことを考えていた。ワンピースは、古くさい、花柄でなければならなかった。できあがった小花柄のワンピースを手にしたら、わたしは書かなければならない、と強く思った。あの日の浴衣や、祖母や、マスエさんのことが、鮮やかによみがえってきたのだ。
 今年はこれを書かなければ、と、何かが降りてきたかのように、感じている。
 わたしの中で生きつづけるなつやすみを、支えてくれたひとたちのために。