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残春  2/27

心に咲く花は季節を選ばない
与えられしいのち かなしきもまたよろし

映画「サクラサク」の主題歌、「残春」を初めて聴いたとき、
この歌詩は「解夏」に書かれてなかったっけ、とオットーが言った。
確かに覚えがあるフレーズだけれど、小説「解夏」の中にはなかったような…


書棚からひっぱりだして見たとたん、ああ…ここに、帯にあったのか、と気づいた。
これは、短篇「サクラサク」で、
老人性痴呆症を患う主人公の父が、ノートに書き留めた言葉。
けれど、「解夏」はじめこの短篇集全体を流れる、テーマでもある、と思う。
「残春」…春のなごり。残り少なくなった、春。
昨秋のコンサートの話では、映画の予告編に流したいと監督に請われ、
急遽書いた、ときいたけれど、そんなふうに思えない、静かな名曲。

雨のいちにち。
いちばん古い友達と、数年ぶりに電話で話す機会を得た。
昨年結婚した彼女は、その前後のどたばたで、連絡がなかなか取れなくて…
ずっと彼女のお母さんを通じて、やりとりをしていた。
このお母さんの安定感はただものでなく、長きにわたってお世話になり、支えられたわたし。
彼女は、この人の娘だから、、、間違いなく、幸せになる。
そう確信している。

久しぶりだったのに、笑いつづけ、しゃべりつづけた2時間。
気兼ねなく、お互いに話したいことを話して、きいて、
つまらないことを想像しては大笑いして。
・・・あなたがそこまでなるのは、よほどのことやったんやろう、と、
長い長いお付き合いの友が言ってくれることの、ありがたさ。
子どもの頃からわたしの成長を支えてくれた、彼女の母しかり。
わたしという人間を底まできちんと知り、受け容れてくれる人がいる。
そのことがありがたくて、ありがたくて。
そうでない人もたくさんいる。でも、もういいのだ。
ちゃんとわたしを見て、きいてくれる人とだけ、つきあえばいい。
じょうずな嘘も、悪口も、言い訳も。自分を守るために、する人は、する。
でもわたしは、理由がどうあれ、そんなものいらない。
どんなに痛くても、真っ正直にしか生きられない。
わたしは、わたしのフィールドに、ちゃんと帰ってきた。
そう、深いところで感じて、うれしかったのか、ただ笑いすぎたのか、
分からない涙が、にじんだ。



推敲家族  2/25

大きい坊ちゃんが、卒業式の送辞を仰せつかってきました。
もうあと、10日もない!
そんな状況のなかで、坊ちゃん、メモ書きから本文を練りはじめました。
その下書きの文章を読んで、れいのごとくいじいじしたわたしは、
「うーん。ここは、こっちのほうがいい。これは、こういうふうには使わない。」
内容はともかく、修辞を、あれこれとさわる…

翌日。
学校で、先生に手入れしてもらった坊ちゃん。
ふたたびパソコンに向かって、書き直す。
「できた〜。これでまた、先生の意見で書き直す。とりあえず印刷。」
そんな第3稿?に、帰宅したオットーが何気なく目をとおす。
「・・・ペン貸して。」(笑)
オットー、坊ちゃんが寝てから、ひたすら赤を入れる。入れる。
真剣に、うなりながら、文章をひねりだしている。。

「なんかかんか、書くの好きな夫婦やな〜」(笑)

・・・そして第4稿?完成。
また明日、先生に見せる予定。



肖像  2/24

オットーが持ち帰ったもう一冊の本のあいだから、
思いがけない三葉の写真が出てきた。

その真ん中、二枚目に、21歳のわたしがいた。(日付から)
・・・・・
思いがけず向き合った過去の自分が、今のわたしの心を、つと支えた。
未来の自分なんて、想像もしないで、
ただ無邪気に笑っている、過去のわたしが。
確かにあった、ここまでの道ゆきを、証明してくれているようで。
突然、ぽかりと今に浮かんでいるわけではないことを、教えてくれたようで。
水墨画の、流木の上で眠る渡り鳥のような、
心もとない気持ちをすくいあげてくれた、床下の梅干しより、ずっと過去のわたし。



昭和の遺物  2/24

先月末、さだまさしの番組で読まれたはがきの内容どおり、
オットーは月一ペースで実家の(自分の荷物の)片付けに。。
そして、懐かしいものをいろいろ持ち帰ってくるのだけれど、
昨日は、貸したままになっていたわたしの本をかばんに入れて、帰ってきた。
黄ばんだ文庫、細かい文字。
その心理ミステリーは、中学生の頃、
親戚のお姉さんの部屋で出会って、夢中になったシリーズものの一冊目。
(作家さんはすでになくなっていて、その本も一度絶版になり、
 数年前に復刊ドットコムで投票ののち、今は復刊されている。)
ざっと読んで、ああーこういう雰囲気、昔から好きやったんやなーと納得。。
梨木香歩さんの空気感に、どこかつながるような。
あらすじも犯人も忘れているから、もう一度読み返そう。

・・・先月は、変色甚だしい小学校の教科書を、
古いテレビ番組を納めたビデオテープを、
ダンボールにつめて、持ち帰ってきた。

わたしにとっても懐かしい、国語の教科書を開いてみたら、
ことばになる前の、感覚の記憶が不意に戻ってきて、
ふうっと心から力が抜ける気がした。

この教科書には入っていない、題名も忘れてしまった、
「木かげの風の涼しさ」を、肌で感じた物語があったこと。
そして、
忘れられないあの、「タクシーいっぱいに満ちた夏みかんのにおい」、
「きつねの子のひろったていきけん」のコロッケ、が鼻をくすぐり、
「チックとタックが食べたわさびのからさ」が鼻をつきぬけ、
「くじらぐも」の、校庭で体育をしている感覚を、からだが思い出す。

いま目の前に、本文がなくても。
教科書という薄い紙の束に、印刷されただけの文字から得ていた、
五感の記憶が、褪せることなく、鮮やかによみがえる。
そして、想像でしか見えない世界を全身で感じ取っていた、小学生の自分に出会う。
ことばとは、なんとすばらしいものなのだろう。

ことばとことばのすきまにある空気、
心でしか見えない世界、に支えられて在るわたしは、今もここにいる。



床下には愛がいっぱいつまっている  2/19

床下収納にお酒をしまおうと、開けてスペースを探していたら。
ビニール袋と新聞紙で、完全にくるまれたものがある。
梅酒かなにかかなとのぞいてみたら、小梅の梅干しでした。
一昨年のは食べきったから…去年のかな。
はて、塩分はいくつだったかな?
メモ入れてないかなー、と半ば期待せずにびんを取り出してみたら、
手元の向こう側に、ラベルが貼られていた。


ひっくり返してそれを見た瞬間、胸がいっぱいになった。
その手書きの筆跡、ていねいなメモ、が、
いま、ここにいるわたしに、無邪気に話しかけてきてくれた、気がしたから。。
おばあちゃんのような…過去の自分から届いた、あたたかいもの。
誰からももらわなくても、自分から自分へ手渡せる、たしかな想い。

あなたががんばったから、ここにこれがあります。
そして、いまのわたしをはげましてくれます。
ありがとう、きょねんのわたし。




静かなるダウト  2/17

先日出かけた幼稚園の同窓会で、
くまモントランプをおみやげにもらった小さい坊ちゃん。
「ダウトしようや〜」と、こたつにいた3人で始めました。
「1」「2」「3」「4」「5」
・・・・・・・・
「11」「12」「13」「1」
・・・・・・・・
だれも、「ダウト」って言わないの。(笑)
静かに、カードを出すのみ。
「これじゃ、だれもダウトって言わへんまま、終わってまう…」(爆笑)

えんえんとぐるぐるループが続き、うずたかくトランプが積まれた頃、
わたしが出した最後から2番目の札に、大きい坊ちゃんがついに
「ダウト!!!」
「(にやっ)」
「くそー。」
そう…正しい数だったのです。

大量のカードを手にした坊ちゃん、広げきれないままに続ける。
2周目、わたしは、最後の一枚を出す!
「ダウト!!!」
大きい坊ちゃんが再び叫び、それを開くと…
「(にやっ)」
なんとそれも、正しい数だったのです。(爆笑)
「やったーほほほー!」

たまたま、回ってきた数字のカードが、ちゃんと手元にあったのです。
すばらしい〜。
静かなるダウトの、幸運な?幕切れでした。



メロンパン!  2/17

ってエッセイ、もう13年くらい前に、書いてありました。
あれ以来、いくつかのレシピで、何度も焼いたメロンパン。
男チームの熱いラブコールにより、
しばらく、本当にしばらくぶりに、焼いてみました。
(坊たちの記憶にないって…そんなに?)


パンのなかには、レーズンも入っています。
その酸味も手伝って、市販品ほどくどくない、ほどよい甘さのメロンパン。
模様は浅くつける!とメモされていたけど、
移動メロンパンみたいな豪快な見た目に。

焼きたては絶品!!
かりっかりさくさくの、ふわふわ!(形容詞ナシ!)
「めろんぱんの、いつつの、めろんぱん…」(注・原文ママ)
いつだったか、大きい坊ちゃんがたどたどしく、回らない舌で歌っていた
「メロンパンのうた」をまねして歌いながら、しあわせなおやつの時間でした。
なつかしや。



バレンタインの奇跡  2/14

雪のバレンタインデー。

夕方、子どもたちの「おやつ!」コールで、クリームを泡立てる。
なぜか4枚のお皿を出して並べながら、
「このタイミングで、パパが帰ってきたらなあー。」と話していたら、なんと!
ガトーショコラを冷蔵庫から出したタイミングで、オットーが一時帰宅。
(たまたま移動のためで、それも時間がなければ寄らない、と言っていたのに!)
みんなで一緒に、ケーキを食べることができました。
なんてすばらしい。

ガトーショコラを食べ終わった頃、ぴんぽーんとインターホンが鳴った。
だれ?とモニターをのぞいたら、女の子の顔。
「いじゅやろ〜」(全員)
小さい坊を玄関へ送り出し、にやにやしていたら。
小さい坊、すぐに戻ってきて、「じゅんやで〜」(笑)
大きい坊ちゃんの、生徒会仲間の女の子たちだったのです。
聞こえてくる声に、楽しそうにしゃべってるなーと思っていたら、
もうひとりの男の子の家を案内してくるわーと言って、出ていきました。

しばらくして帰ってきた坊ちゃん、訪ねた男の子の話をひとしきりしてから、
しみじみと「執行部、やっててよかったわー。」と言う。
学年をこえて、楽しく活動しているのだそう。
そんな場と仲間を持つことができて、ほんとによかったね。。
すすめてくれた先生に、心から、感謝しているわたしです。

バレンタインの奇跡が、たくさん。


昨日、ガトーショコラのあと、これもお久しぶりのブラウニーを焼きました。
袋づめしたあと、ふと思いついて、
小さい坊ちゃんにおりがみのハートを頼むと、七色で折ってくれました。
ハートつきブラウニーを並べてみたら、
きれいだったので、記念にパチリ。
ヨガのお仲間や先生に、わたすことができました。



豆乳にも…  2/14


やっぱり、話しかけられているわたしなのでした。。



福袋  2/13

BLTサンドをほくほく食べていたら、ぴんぽんと郵便やさんがやってきた。


なんだかめでたい福袋。
差出人は、末の妹。(= 十歳下)


みんなに配るために大量に焼いたというクッキーを、わざわざ送ってくれた。
・・・・・
ちゃんと、袋の横まで、テープで留めてるやーん。
ちゃんと、割れないようにラッピングしてるやーん。
ちゃんと、ラベル書けてるやーん。

・・・未だ小さな子どもの仕事みたいに感心してしまう、わたしでした。
妹、ありがとう。


わたしも、家族のために、何年ぶりかのガトーショコラを焼きました。

誰にも、なんの気兼ねもなく台所を使って、
思いたった時にお菓子やパンが焼ける、同時進行でごはんも作れる。
そんな自由のありがたさをふと感じて、
実家でタイミングを見計らってお菓子を作っていた、懐かしい感覚を思い出しました。



ベーコンにまで…  2/13

お昼、ベーコンを焼こうとフライパンに並べて、はっとした。


突然、ベーコン(のパック)に告白されてしまいました。。
びっくり。

・・・ってことは、朝、おべんとうに使ったパックにも…。
(↑あわてて見てない)
資源ごみをあさってみた。


トマトの水煮だけでなく、ベーコンにまで励まされるわたし。
・・・・・。


ありがとね。ベーコン。


あなたのおかげで、おいしいBLT(+E)サンドができました。



レターパックのおくりもの  2/6

ショコラーシカ姉妹に、おうちができました。


3人とも、なんとなくそわそわ、喜んでいるみたい。
よかったね。。

おうちをプレゼントしてくれた友達から、一緒に送られてきたもの。


半年前の新聞見開き。
デビュー40周年記念、と、ソロコンサート・4000回達成の記事。
10周年の前からすでに30余年、ずっとわたしの人生を伴走してくれたひと。
そのことば、こちらこそ、そのまんま捧げたい。
車に乗るたびに、20周年、30周年、と、
膨大な枚数のライブアルバムを聴きつづけている、今日この頃。


もうひとつ、わたしたちにとって大きな記事が入っていた。
友もわたしも愛する紅茶専門喫茶店の、閉店のお知らせ。
「堂島から紅茶を伝えて40年」というような言葉を覚えているから、
通い始めたのは、ちょうど20年ほど前だったのでしょう。
エッセイ「私の紅茶生活」にも書きましたが、
わたしの紅茶人生はムジカとともに、だったので、なんとも寂しいお知らせでした。
調べてみたら、その後、芦屋に茶葉の販売店舗を構えられたらしく、
そのドアは、あの堂島地下センターにあった頃からのものらしい。
…いつかぜひ、訪れたい場所のひとつになりました。
あゝそしていつか…あの頃のムジカを物語に書いて、記憶にとどめたい。

そんなふうに、次々と脳裏に浮かび、巡る想いもまた、彼女からのおくりもの。
ありがとう。



救世主?  2/5

晩ごはんを食べながら、大きい坊ちゃんが、
友達が祝日にお伊勢さんに参るんやって、と話しだした。
「むかしー、伊勢で、みんなが『ええじゃないか』って歌ったんやろ?」
「ああー…江戸の終わりになあ。時代の変わり目やったからやったっけな…。」
そんな話から、ふと、
わたし 「そういえば、1999年にノストラダムスの予言が当たって、世界の終わりが来たら、
     ええじゃないか踊るわーって、二十くらいの時にパパに言ったことあるねん。
     パパが、今でもそれを笑い話にするねん。」
大きい坊 「それで、結局、1999年の予言は外れたわけやな。」
わたし 「そうやねん、それで、世界が滅亡せんと、じゅんが生まれた。」(爆笑)
自分で言いながら、大爆笑してしまったわたし。
そうだった。この子は、ノストラダムスの予言の年に生まれたんだった。

そんな、過去の思いと未来からの目とのあいだで感慨に浸っていたら、
大きい坊 「じゅんが生まれた年は、千年の区切りの年ちゃう?すごいよなあ。
       千年の始まりって、鎌倉とか、そんな時代やろ?」
わたし   「そうやで!千年紀の最後やで。正確には、2000年が区切りやけど…」
大きい坊 「いじゅは、次の千年の最初に生まれてるし。いじゅも、区切りの年やなあ!」
わたし   「ほんまやなあ。二十世紀に生まれた子と、二十一世紀生まれの子が兄弟、
       っていうのもすごいし、千年紀をまたいでる兄弟、っていうのは、もっとすごい!
       じゅんは、世界の滅亡の代わりに生まれた救世主ちゃうん?!」
そんな話をしていたら、本当に、そんな気がしてきた。
次の千年紀が始まって、新しい世界を作っていく、そんなちからを持って、
この子たち(同じ時代の子どもたちみんな)は、生まれてきているんじゃなかろうか、と。
千年という、とてつもない大河を超えて、人類が、より明るいほうへと進むために。



固めの盃  2/3

我が家に、ゆきだるまくんの弟ぶんがやってきました。


「にいさん。これから、よろしくお願いします!」
「おとうとよ。さっそく、固めの盃を交わそう!さあ、ぼうしをとって!」


「やっぱり、飛騨の酒が一番ですね、にいさん。」
「そうだな、おとうとよ。」
・・・・・
かくして、きょうだいのちぎりの盃が交わされたのでした。



春近し  2/1

数日差で、わたしの再会とリンクするように、
オットーもまた、大切な友人と16年ぶりの再会。
なんと、わたしたちの結婚式以来!
なぜこれだけの年数会えなかったのか、会わなかったのか、
どう考えても不思議で…
とても自然で、あたたかいご家族、おうちに、心癒された。
導かれるようにして出会えたことに、深く感謝。
やはり、これからもっと会えたらいいね、と…話したのでした。


旅先の夜の散歩で出会った、鬼たち。
春は、もうすぐ。