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随想ノート 6



雨の日にはカステラ (2003/5/19)

 雨の日には、カステラ。
 そんなことをもう20年以上思い続けている私がいる。雨が降る度に思うほど執着しているわけではないけれど、しとしとと静かに降り続く日には、ああ、こんな日にはカステラを焼かなきゃ・・・となぜだかぼんやり思うのである。
 ちょっと前に、整理していた料理雑誌から、カステラのレシピを見つけた。これを見て、今度こそ雨が降ったらカステラを焼こう・・・と思った。

 自分でもおかしくなる。なぜこうまで、雨の日にはカステラ、と思いこんでいるのか。
 それは10歳のクリスマスにもらった、ある児童書に出てくるエピソードなのだった。
 おはなしの中に出てくるリーサという少女が、雨の日に、あまりに退屈で何をしたらいいのか分からない、とお母さんに言う。それにお母さんがこう答える。
 「もしわたしがあなただったら、カステラを焼くわね。」と。
 まるで、リーサがカステラが焼けるものと、おもいこんでいるような調子であっさりと言ってのける。それまでカステラを焼いたことなんてなかったリーサはそれでも、教えられたとおりに材料を混ぜ、おいしいカステラを焼き上げて、兄ふたりとお隣の姉妹にごちそうするのだ。
 いちめん明るいキツネ色のカステラ、初めて焼き上げたリーサの喜び。このシーンが強く強く心に刻まれているのである。

 今しがた、その本と同じ年齢くらいのパウンド型で、私の初めてのカステラが焼きあがった。数十年ごしの、ちいさなあこがれ。胸をどきどきさせながらこのカステラを切り分けたら、リーサと同じように、カステラとジュースを、ふたりのちいさな兄弟にごちそうするのだ。
 リーサと同じ年齢だったのがいつのまにか、お母さんの方に近くなったのだけれど。






祖母のこと (2003/5/14)

 祖母が入院しているそうだ。
 実家から1ヶ月以上音沙汰がないので、オットが少し気にして電話をした。私は自分からまったく連絡をしてこない母に対する苛立ちもあり、しばらく電話をかけずにいたのだ。(端的に語ると、母と私はもともと折り合いが悪い)
 母の話によれば、祖母は1ヶ月ほど前に入院したのだそうだ。酸素ボンベを常にそばに置いて暮らしている祖母だが、ある時酸素の供給がうまくいかず、倒れたらしい。年齢が年齢なだけに、一時は危ないとまで言われた。一緒に暮らしている叔母が病院に通いつめ、主に面倒を見てくれているということだった。
 天井に花が咲いてみえるとか、シイタケの栽培用の木が倒れてくるとか、妄想かぼけかということを口走ったりしたそうだ。気丈で明るく、気持ちだけはしゃんしゃんした祖母がそんな状態になったとは、きいただけで胸が痛い。
 先に祖母は86歳と書いたが、これは間違いだった。実際は満87歳、数えでは88歳。今年、米寿を迎える。米寿の祝いに何が欲しいかと母と叔母が問うたら、「小林幸子が着るようなドレスが欲しい」と答えたそうな。明るい祖母の冗談かと思いきや、大真面目だったそうである。
 それをきいて涙目で大笑いした私は、愛すべき祖母に会いに帰りたいと強く思ったのだった。






掲示板考 (2003/5/11)

 ウェブ上で掲示板なるものを使い始めて、早2年半。
 基本的にはたいへん楽しい掲示板生活?を送ってきた。2、3の(もっと?)例外をのぞいて。
 人と人とのやりとりであるという点において、掲示板は生ものである。管理者と来訪者の、或いはやりとりする来訪者同士の、いろんなカラーが混在する空間であり、時と話題によってさまざまな色合いが生まれる。これが掲示板の醍醐味のひとつであり、やめられない理由のひとつでもあるのだと思っている。
 誰かの掲示板におじゃまする時も、大切なことはこれだと思っている。
 その掲示板には管理者の方の努力と楽しみがあり、来訪者の方々の楽しみもそこにあり、その織りなすカラーを邪魔せぬようにと気遣いながら、その管理者の方とお話をしたいと強く思う時に、書きこみをする。これは私の勝手な思いであるから、他の方が皆そうであると断言するわけでもないし、そうであれと願うわけでもない。そして、そんな私の書きこみが誰かを不快にさせていることだって、充分にあり得ることだ。
 (そう考えると、こんな文章を書く立場でもない気がするのだけれど。)

 私が管理者として不快な思いをしているのは、どれも似たようなケースである。
 まず、宣伝。何度か経験したが、これは相手も薄利多売?目的なのか、一度きりのことがほとんど。いい気はしないがサイトへの執着がない分、対処は楽である。
 悩ましいのが以前にも雑記にちらっと書いた、一方的に自分の話ばかり書きこまれるケース。たいがいの場合、来訪者が自分の話をしていってくれることはうれしいことのはずなのに、・・・どう区別していいのだろう?線引きも曖昧で申し訳ないが、そこにはサイトと管理者である私への興味が感じられない、そしてとりたてて悪意も感じられない、という共通点があるように思う。
 そもそも掲示板とは、サイトあってのものであると私は考える。少なくとも、私の掲示板はそうである。時間をかけ、苦心して作ったサイトの一部なのである。掲示板で話をしたいと思うのは、サイトや管理者に共感したり、興味を持ったりするからではないのか?まったく興味のないサイトと人間相手に、何を書くことがあるのだろう?私にはこれが理解できない。
 しかし理解できないことはどんどん起こってくるのである。
 ある来訪者は一日に数十回のアクセスをくりかえしては、「キリ番」報告にいそしんだ。キリ番とも思われない数字を「これって何番?」「惜しい!あとひとつで・・・」など、くりかえし書きこんでいった。(オットは「何が惜しいねん!自分ちの電話番号なんかい!」とあきれていた。)
 ある来訪者は、掲示板のみをお気に入りに入れたか、直接アクセスしてはご丁寧に日付入りで自分の日記を書き綴りはじめた。何を答えていいものやら、悩みながらレスをつけると、またそのレス内容は無視でひたすら自分の話を続ける。おいおい、ここは語り部道場ではないぞ、と突っ込みながらも対処に頭を悩ませる。ただでさえ睡眠時間を大幅に削り、命がけで?維持している現状である。バカバカしい気分この上ない。最後には「ここを誰の掲示板だと思ってるんだ〜!!!!!」と絶叫したくなる。
 つまりは、だ。興味のないサイトと人間相手に、自分の話をきいてほしいだけの人たちなのだ。どこの掲示板でもいいのだ。自分の話に黙って耳を傾け、相槌を打ち、感想を述べてくれる管理者であれば、そこに寄生するというわけだ。

 ずいぶん辛口な文章を書いているなあと苦笑しつつ、キーを打つ手が止まらない。暴走である。これでも甘いぞ、と思いながら、どこかで私のレス自体が問題なのではないか、私には雰囲気のいい掲示板を維持する能力などありはしないのだ、辞めてしまえ、と自責する気持ちも少なからずある。そんなことを考えはじめると、サイト自体存続させる意義まで見出せなくなってきた。自分のために書くことは辞めないだろうが、ウェブ上でわざわざ公開するほどのものでもないように思えてくる。優秀なウェブ詩人の方たちは、他にたくさんいるのだもの。・・・・・とどのつまり、どつぼである。

 話を元に戻そう。
 CGI (Common Gateway Interface)とは何か。これは、WEBサーバーとブラウザ側で双方向のデータのやりとりができるプログラムのことである。 普通のホームページの内容は、見ている人には書き換えることはできない。しかし、掲示板は見ている人が自由に書きこみをして、内容を追加することができる・・・そしてその記録が残る。CGIとは、そういったプログラムのことを指すのである。 アクセスカウンタしかり。メールフォームしかり。チャットしかり。というわけで、ブラウザをとおして見ている人が利用するからこそ、動くプログラムなのである。

 「双方向のデータのやりとり」がこのプログラムの目的。設置して手を伸べ、プログラムを利用して手を伸べ、互いに伸ばしあった手が触れ合って初めて、CGIプログラムの意味が生まれる。
 CGIのひとつである掲示板。かたちだけでなく、その中身もやはり、「双方向のやりとり」ということが大切なのではないだろうか。一方的に話すだけではなく、相手の声にじっと耳を傾けてみる。そういう余裕が、思いやりが、互いに必要なのではないのだろうか。
 考えてみればそれは、人と人との交わりで、当たり前のように存在するものなのである。肉声の聞こえない、筆跡の見えない掲示板であろうと、人と人の交わる(しかも公共の)場であることには変わりない。
 しかし「思いやり」は強要するものではない。ならば、こちらへの思慮のないひとりつぶやきに対して、管理者としてどう対処していけばよいのか。
 未だ模索中である。






「きつかあない」 (2003/5/8)

 めくるめく暮らしの中で、追いつめられていくことが、少なからずある。
 口に出して誰かに話したら、ばかげていると笑われそうな、そんななんでもないようなふとしたきっかけで、つと出られない深い穴に落ちていく時がある。
 「きつかあない」
 そんな時、耳元で不意に祖母の声がする。
 「きつかあない、きつかあない」
 折に触れ、祖母はそう言った。転んだ時。困った時。迷った時。何か具合の悪い場面で、祖母自身に「だいじょうぶ?」ときくような時。
 母の田舎の言葉で、どういう意味かは未だに推測でしかない。
 けれども、忘れていた呪文のように、ある時思いがけず、戻ってくることがある。
 そんな懐かしい祖母の声を、最後に聞いたのはいつだったろうか。
 思うように動けなくなり、今は叔母と二人で静かに暮らしている祖母、86歳。しかし私に「きつかあない」と言ってくれる時の祖母の顔は、若いあの日のままなのである。






したたかに、しなやかに (2003/4/24)

 したたかさ。生来、私が持ち得ない性質である。
 「強か」と書く。一筋縄ではいかない・・・という意味を本来持つが、使う時には、少し異なるニュアンスも含むように思う。
 私の捉えるそれは・・・あるしなやかさ。
 場に応じて、人に応じて、物に応じて、臨機応変に、自分のテリトリィを守りつつ、その線引きがはっきりできること。時には、優しく。時には、ばっさりと切って捨てるように。
 周囲と自分との距離感を、きちんと自分で設定して、保てるということ。
 計算なしに、どころか、無意識のうちに、それができる「したたかな」ひとを、私は心からうらやましく思う。したたかさ、しなやかさ、そして的確な判断力、決断力。・・・憧れるが、私には何ひとつ備わらないものばかりだ。
 したたかになれなかったから、傷つけてばかりいた。
 しなやかに生きられなかったから、傷ついてばかりいた。
 的確に決断してこなかったから、ふらふら迷い道をのろのろ千鳥足で生きてきた。
 胸が痛くなってきた。
 痛いことばかりだったような気がする。そしてこれからもきっと。
 けれど、ぶきっちょに迷いながら歩いたからこそ出会えたものも、たくさんある。
 したたかに、しなやかに。永遠に憧れながら、私は今日も、危なっかしい足取りで生きている。






私の紅茶生活 (2003/4/17)

                

 私は紅茶大好き。
 いつからこんなにはまってしまったのか・・・記憶が正しければそれは多分、学生時代のこと。いや、「邪道な飲み方」でならそれはもう、遥か彼方、小学生の頃からだと言えるかもしれません・・・・・。
 昔々その昔、私はレモンティが大好きでした。
 レモンの輪切りを入れて、スプーンできゅっとしぼって、砂糖をどっさり入れた、某社の粉末レモンティも真っ青の、甘ーいレモンティが。
 それがすっかり砂糖なしのミルクティ派に変わったのは、やはり学生時代でしょうか。
 バイトしていた病院の理学療法士の先生が、ある紅茶やさんを教えてくれたのです。
 そこは「紅茶の草分け」と呼ばれるほど有名な、紅茶の御元締め的存在でした。
 お茶を楽しむため、「できるだけ」禁煙を勧める店内、当時はまだそんなにメジャーでなかったリーフのポットサービス、そしてスコーンなどのお茶の友が私の心をつかみました。
 というか、美味しかったんですね。理屈ぬきで。
 これが紅茶の美味しさなのかと感動して以来、ここのお茶を愛飲しました。
 病院の先生がプレゼントしてくれた、このお店オリジナルのティーポット、ティーメジャー、ティーカップ、ミルクジャグ。未だ愛用中です。
 そうしてあれから十○年。今では全国展開している有名紅茶店も多く、それらの茶葉をいただいたり、自ら求めたりして飲むこともありますが、私の中ではあの懐かしのお店が不動の地位を保っています。
 地元を離れ、そのお店に足を運ぶことができなくなって数年。すっかりその味からも離れ、日々スーパーで求めた量産茶葉を飲んでいましたが、ある日突然、その味気なさに耐えられなくなりました。最近ではポットで入れているのに、マグで1杯飲んだらもう終わり。なぜか残してしまうのです。
 ほんとのミルクティは・・・もっと深い香り。牛乳に負けないコク。強いボディ。そして、美しい水色。
 気付けばその店の電話番号を調べあげ、記憶の糸を頼りに茶葉名を挙げて注文している自分がいました・・・・・。恐るべし。紅茶魔です。
 そのお店、もとは古いビルの地下にあったのですが、数年前、そのビルの閉鎖とともに、閉店となりかけた危機がありました。それを救ったのは、常連のひとたちの運動だったそうです。如何にそのお店が紅茶好きのひとたちに愛されているか・・・推して知るべし、だなあと思いました。
 そして2日後、届いた懐かしいパッケージ。涙が出そうでした。
 あのお店が、今も残っていてくれて、良かった。
 ふうっと地元時代に心が戻る気がしました。
 早速お湯を沸かし、茶葉をポットに量り、蒸らすこと数分。マグに注がれた紅茶は、紛れもなく、本物の「紅茶」でした。漂う独特の深い香気。濃い水色。これでなければ、牛乳を入れた途端、「牛乳紅茶」になってしまうミルクティ。スーパー茶葉でも美味しいものがあるし、バカにしたものでないのだけれど、やっぱり違うのです。何かが。

 そんなわけで、ほくほくと、紅茶時間の幸せを味わっている今日この頃なのです。






ひなかざり (2003/3/3)

 子どもの通うリズム体操のクラスで、ひなまつりの飾りを作った。
 簡単な折り紙細工。千代紙と色紙を使って三角、三角、三角・・・と折ってゆき、着物のかさねのようにして組み合わせる。そして色画用紙を台紙にして、折りびなを貼りつけていく。わいわいと走りまわる子どもたちをおいて、お母さんたちが思い思いに飾り付けている。
 それぞれ個性とアイデアあふれるおひなさまが出来上がった。
 見ていて、とても楽しい。
 前の黒板にずらりと貼られたそのおひなさまたちをゆっくり見てまわる。
 つと、脳裏に微かな記憶のかけらがころがりはじめた。

 おひなさまの扇に、色鉛筆で七色のふさを描いてあるものがあった。
 ―――華やかな七色の糸に見とれた幼い日。指先に触れたあの感覚。

 ぼんぼりを黒の色紙で作って貼ってあるものがあった。
 ―――ぼんやりと明るい橙色の光を、毎夜灯した。雛壇の端っこぎりぎりにあったぼんぼりの台。

 三色の折り紙を切って、縞模様に貼って、台座にしてあるものがあった。
 ―――おひなさまとお内裏さまが座る前の、あの畳の目。緋毛氈のすそと同じ、台座の模様の鮮やかさ。

 ピンク、白、緑の色紙で作られたひし餅があった。
 ―――三人官女の間に飾られたひし餅の色。三つの段々、木の質感。裏返せば木の色が中央に残っている。

 そして、おひなさまとお内裏さまの顔を作って描いてあるものがあった―――白い二人の顔、静かな表情、冠を載せる時の頼りなさ。手にとった時の、あの思いがけない軽さ。

 それはもう、20年近く実家の押入れで眠っている、私の、私たち三姉妹の、ひなかざりだった。狭い床の間から突き出すように飾られた、七段のひなかざり。長い間、思い出すこともなく、思い出せもしなかったものが、骨組みから緋毛氈から、人形・小間物すべてにわたり、突如目の前に現れたようにくっきりとはっきりと、見えたのである。

 記憶とは生き物・・・と何度かこの雑記にも書いてきたが、またしてもそれを実感したのだった。もうとっくに忘れ去って、忘れていることさえ忘れた頃に、あの頃と同じ顔をして突然に現れ、私をうろたえさせる。記憶の引き出しの中にはまだまだ、こんな記憶が数多く眠っているのだろう。それらとまたいつか、出会う機会もあるかもしれない。ないかもしれない。そうこうしている間にもまた、次々と記憶を引き出しに収めつづけているのだ。

 子どもたちが手に手に手作りの笏と扇を持って、折り紙細工のひなかざりの前に並んだ。賑やかな記念撮影の風景をながめながら、私は懐かしい私のひなかざりを、ひさしぶりに心に抱いたのだった。






私のパソコン生活・終章 (2003/3/1)

 新天地は、www5eサーバである。
 いつの間にかオットの5bサーバの半分量を占めていた私のサイトをそっくり引き払い、CGIファイルのすべてを書き換えた。(このプロバイダはCGIサーバが別なのです。だからファイルの書き換えが大変。最初にカウンタを動かせなかったのも、これが原因と後に気付いた)
 二年間大切に育ててきたサイトを閉じるかたちで、そこにはここへのリンクを置かずに引っ越した。ひそかな常連さんがおられたとしたら・・・申し訳ない、と思いながら、自分が汚点をさらしたようで情けなくて、やはり心機一転はじめたい気持ちの方が強かったのだ。

 サイト名は脳ミソを絞って考えた。(←この言い方は怖くてキライだけれど、まさにそういう感じ)HNは旧姓名と次男坊の名前を切り貼りした。しかしこれらを変えたことは最終的に正解で、今は「風つむぎ」というサイト名に自分で癒されている。のんびりいこう、と思えるのだ。
 カウンタをリセットするか否かも悩んだ。しかしどうしても、あのカウンタ設置への道のりが忘れられず、あつかましながらそのまま引き継ぐことにした。
 引っ越し完了後、何となく失速したまま、ひと月ほどネット友達に連絡できずにいたが、昨年末にやっと連絡。こうしてぼちぼちと、「風つむぎ」と「あずみ」さんは歩き出したのであった。

                           *

 オットは言う。
 「俺がちょっと教えたことを、ようここまで極めたなあ」
 極めたどころか、私にできることはせいぜいこの程度、なのはよく分かっているが、「リンクって、何?」とオットにきいたあの夏から考えれば、確かによくここまでやってきたなあと感心する。自己満足の骨頂である。実生活で何の足しにもならないことばかりだということに、苦笑しつつ。
 思えば「リンクって、何?」どころではない。「この赤いランプ何〜ついてていいの〜」という段階から、まる4年。そう考えると、よくぞここまで・・・と涙が出そうだ。

                           *

 実は、ジオシティーズに、初めてアップしたサイトをそのまま温存している。
 誰も来ない、静かな場所。私の訪れる回数だけを淡々とカウントしているサイト。「はじめまして」と管理人が書いたきり、誰も書きこまない掲示板。
 ここでオットとともに違うサイトを作ろうという計画もないではない。しかし、初心を思い出す大切な場所を、このままにしておきたいと気持ちもある。
 時折訪れては、ながめる。拙い拙い、私のはじめの一歩を。
 これがあったから、今がある。
 下手っぴいなりに、分からないなりに、懸命だったあの気持ちを忘れないでいよう。

                           *

 そんなわけで、この春、パソコン生活も5年目突入です。
 もっともっと、パソコンとよりよい付き合い方をしていけたらと思います。
 それにしても、こんなに長い話になるとは思わなかった。
 最後まで読んでくださった根気強いみなさん、ありがとうございました。

                   草野あずみ 拝


                         ・・・おわり。






私のパソコン生活・後編 (2003/2/28)

 その暮らしサイトの美しさにまず、私は目を見張った。
 まったく素材を使用せず、簡単なテーブルと管理者撮影の写真のみでシンプルに作られたサイトだったが、管理者のセンスが良いのだろう。とにかく美しい。見やすい。私は釘づけになった。そして、隅から隅までサイト内を見てまわったのである。よくよく見れば、そこはオープン半年ほどで数万ヒットという人気サイトなのだということも分かった。
 料理やパン作りがメインだったこともあり、毎日毎日そこを訪れては読みふけった。そしてレシピを教えてもらうべく、ついに管理者にメールを送った。親切なお返事が3日ほどで返ってきた。あんな人気サイトの管理者がメールをくれるなんて、と、感激したことを覚えている。

 とにかく、そのサイトと出会い、私は自分のサイトの見直しを余儀なくされたのだった。素材をなるべく使わないで、シンプルにまとめる方が性に合っているということや、自分の持つテーマでたくさんの人とお話しする楽しみをもっと持ちたいと思っていることなど、そこからの自分の方向性を考えさせられたのである。
 友人のみが見てくれているサイトとして、のんびりゆっくり、途中で二人目妊娠・出産も乗り越え、1年間続けてきた。日々の生活の中で感じたことを書く場として、ちっぽけながらも大切にしてきた。しかしそれゆえに、手応えが欲しくなっていた。友人たちは気を遣ってか、掲示板でも率直な感想とまではいかず、たまに日常の話をする程度。それはそれで楽し、なのだけれど、やはり作品の読後感想も欲しい。どんなものでもいいから。そんな思いがどんどんつのっていった。
 少しずつ、サイトの改装を始めた。それまでも面白がって撮っていた写真をもっと撮るようになり、それを使ってサイトを構成しようと試みた。先のサイトの影響大である。そして5月、ついに、というには大げさだが、サイト公開に踏みきったのである。サイト立ち上げから、実に1年半後のことだった。

 こうして私のネット生活が始まった。
 最初に遊びに来てくれたのは同じプロバイダのお友達だった。よくぞあのような内輪の掲示板に書きこんでくれたと今でも感謝、である。作品を発表する場として、作品市場を紹介してくれたのも彼女である。始まったばかりのネット生活をぐんと広げてくれた方だった。彼女を通してまたたくさんのお友達と知り合い、交流が始まった。

 そうして数ヶ月、ただただサイト作りと交流に没頭した。興味と好奇心と知識欲でタグ講座をのぞくようになり、いろんなタグをコピーペーストしては改造した。それはそれは楽しかった。思いどおりにサイトが作られていく快感。それが昂じて再びCGIに手を出した。今度は掲示板である。たまたま見つけたapeskinの掲示板をどうしても使いたくて、岩をも通す?執念で設置した。CGIが初めて動いた時のあの感動は忘れられない。
 こんなことを繰り返すうちに、自然とHTMLが頭に入ってくるようになり、徐々にタグがさわれるようになっていった。スタイルシートをはじめ、テーブルなどはソフトを使うより、タグをコピーペーストした方が早いということに気付いた。見ただけでいわゆるゴミタグも分かるようになり、立ち上げ当初のファイルの汚さに愕然としたりもした。
 短期間の知識の習得に、子育て中の身としては膨大な時間をかけた。何度も徹夜し、体もこわした。それでもやめられなかった。何かに憑かれたようにパソコンに向かい続ける私なのだった。

 そんな中、あるふたつの転機が訪れた。
 アップしたある作品を見た、立ち上げ当初からの相談役だった友人が、いきなり「著作権侵害」とのお叱りメールを送ってきたのである。これについてここで多くは語らないが、双方の作品への見解が大きく食い違っていたことだけ記しておく。しばらくまったく連絡もなかったのに、そのメールだけが事務文面でがん、と送られてきたことにショックも受けた。もともとの友人にサイトを見てもらうことに異存はない。けれど、素の私とサイトの始まりからを知っている友人にしたら、この展開は面白くなかったのかもしれない。私は見張られているような息苦しさを感じはじめた。
 同時に、掲示板に謎の人物が現れた。ひそかに恐れていたことが起こったのである。よその掲示板づたいに入ってきた人が、一日に何度もやってきては、書きこんでいく。それはそれでよいのだが、私が返事を書く間を与えず、ひたすら書きこみ続けていく。自分の書きこみにまでレスレスレス・・・と続け、他の書きこみにも横レスしていく。管理人である私の書く隙間がない。返事を書けばまたそこにレス。返事。レス。と、延々つまらない会話が消滅せずに続くのだ。私は憔悴した。毎日掲示板をのぞく度、その人物の名前の長いスレッドが一番上に上がっていることに、恐怖を感じた。ストーカーのようだと思ったのである。
 その人物にしてみれば、気に入ったサイトを何度も訪れているくらいの気持ちだったに違いない。けれど私は、その人物の書きこみ方や書かれた内容から、管理者や他の閲覧者への思いやりを微塵も感じ取ることができなかった。「会話する」時には、最低限、相手を思いやる姿勢が必要なのではないのだろうか。ましてや掲示板は管理者だけの場所ではない。それを強要するのはおかしいのだろうか。どんな訪問者も受け容れることが出来ない人間に、管理者の資格はないのだろうか?などと深く悩んだ。一方的に延々と投げかけられる会話に憔悴する日々が続いた。最終的に、耐えきれなくなった私から、メールで終止符を打つことになったのである。

 この同時期に起こった二つの事件は、サイト公開から半年、ただただ走り続けてきた私を立ち止まらせた。事件にショックを受けた、というだけでなく、昂じて昂じて昂じたものに歯止めがかかった、という感があった。
 ネット上の人付き合いに疲弊した私は、そんなことにエネルギーをすり減らすなんてバカバカしい、というオットのたしなめと教えのもと、サイトの引っ越しを考えはじめた。サーバの容量も倍以上になっていた。掲示板の一件で自己嫌悪の塊と化した私は、それまでのHNも汚れたような思いがしていた。すべて変えて、引っ越そう。新天地を求めた瞬間であった。


                            ・・・まだつづく。






私のパソコン生活・中編 (2003/2/27)

 オットの助けを借り、またパソコンに詳しい友人に相談しつつ、私はなんとかサイトを立ち上げた。
 「リンクって、何〜?」のレベルからの立ち上げである。オットが使用していたフロントページ・エクスプレスではなく、ホームページ・ビルダーを使用したことも苦難の道だった。マニュアルをどんなに読んでも、実際使ってみなければ使いこなせない。未だに、使う機能以外は理解どころかあることさえ知らないというのが現状。HTMLというものをソフトが書いてくれるのだということも、HTMLが何故、ブラウザに反映されるとあのようなかたちになるのか、ということも、そして当然、HTML言語についても、まるで分かっていなかった時代だった。

 サイト名、HNは、頭をしぼったけれどいいのが思いつかなくて、結局高校時代に出版?したコピー詩集と同じタイトル、PNを使うことにした。
 サーバスペースについても悩んだ。最初取得していたジオシティーズでは広告が入るのがどうしても嫌で、いろいろ思案した挙句、オットのサイトのサーバの片隅を借りて始めるかたちとなった。(このあたりの話は、最初の頃の雑記に書いてあります)

 しかし、作ったはいいが、臆病な私はサイトにいろんな人が入ってくるというのが、どうにも怖かった。「荒らし」などという言葉も何となく知っていた。でも、掲示板はどうしても置きたい。作品の感想が欲しい。作品を読んでもらって意見交換したいというのが、一番の目的だったから・・・。そうしてまずは、友人たちだけを対象としたサイトが、「お試し期間」として走り出したのだった。

 次なるハードルは、カウンタの設置だった。オットがプロバイダ提供のものを使用していたので、どうしても別に設置するか、レンタルするかということになる。(掲示板はいくつでも作れたので、それを使えたのですが、カウンタは当然、ひとつだけ。)これが初めての、CGIとの格闘だった。何度も徹夜した。しかし設置は叶わず、1ヶ月後にあきらめた。その後1年間、カウンタなしで続けたがやはり未練は断ち切れず、最後の頼み綱?であるオットの友人(彼はプログラマー)に頼んで設置してもらった。彼にはそんなことは、朝メシ前なのだった・・・(あの時は、大変お世話になりました)。

 カウンタを設置して浮かれていた矢先、突如大事故がパソコンを襲った。
 年賀状印刷の最中に、パソコン本体にミルクティーを、トトロの特大マグカップからぶちまけてしまったのだった。
 これは私のパソコン生活最大の汚点である。今思い出しても胸が痛む。
 こうしてパソコンはハードディスクから交換、データはすべて失われるという悲惨な末路を辿った。
 しかもしかも、それまでの我が家にはバックアップをとる機械も、習慣もなかったのである。残ったものは、これだけはと会社のMOを借りてとっておいた、ここ2年にわたる子どもの写真だけだった。いや、これだけは残ったことを、幸いとしなければならない。また、HPの膨大なデータは、アップされている分だけはサーバからダウンロードすることにより、復活させることができた。数ヶ月かけて入力した住所録すべてと、HPの元データに関しては、泣く泣くあきらめるしかなかった。
 その後私は紅茶を飲みながらパソコンをすることをやめ、オットはCDR-Wを購入した。パソコン専用台も買い、パソコンを食卓の一角に置くのをやめた。今思えば、こんな危険この上ない状況で、2年間何も起こらなかったことが不思議だ・・・。(←いいわけ)

 そして新しい出発をしたパソコン。当時購入を検討中だった食器洗い乾燥機の情報を求めてネットサーフィンをするうち、私はとある暮らしサイトと出会うことになる。これが私のパソコン生活と、私のサイトの運命を変えた。


                              ・・・まだまだつづく。






私のパソコン生活・前編 (2003/2/26)

 気付けば、この春でパソコンをさわりはじめて5年目になる。
 しみじみとこの4年を思い返す機会があり、それらをとりとめなく書きとめてみたくなった。

 4年前の3月。
 我が家にノートパソコンがやってきた。
 「メールは便利やし、ホームページやったら、好きなことできるでえ。」
 そんなオットの言葉に、ほんまかいな、そんなことできるんかいなと思いながら、恐る恐るさわりはじめたあの頃。
 最初の使い道はもちろん、友達とのメール。
 当時流行り始めていたポストぺットのソフトを入れ、仲のいい友達数人とまず、メールを始めた。仕事で使っているオットはともかく、まったくの初心者だった私は、電源を切ってもついている赤いランプに怯えたり(充電ランプやってば!)、キーボードを叩く練習ソフトを使ってみたりした。(ワープロは長らく使っていたけれど、手元を見ながら、かな変換で打っていたのです)
 「好きこそものの上手なれ」。
 ソフトで何度練習しても上達しなかったものが、伝えたい思いひとつで、ここまで上達した(しかもローマ字変換)。えらいものである。
 メールも慣れるとかなり頻繁にやりとりするようになり、メールチェックをするのが楽しみな日々だった。(当時はまだダイアルアップ接続でした)パソコン購入とほぼ同時にマタニティライフに入った私は、毎日毎日、その変化をメールに書いて友達に送った。

 次にはまったものは、「マインスイーパ」(ご存知でしょうが、爆弾ゲームです)。オットがヒマな時にカチカチカチカチやっているのが気になって、「何それ?!」と非難していたのが、いつの間にやら自分がはまってしまい、抜け出せなくなった。「ミイラとりがミイラになった」と、オットは鼻で笑った。
 マタニティライフ前半〜中盤はこうして、メールとマインスイーパで暮れていったのである。今思えば、もっと建設的なことはできなかったのかと笑えてくる。しかしその頃は「パソコンなんて分からない!」と頭から思いこんで、メールとマインスイーパ以外の使い道を思いつきもしなかった。

 やがて長男を出産。里帰りから戻ってパソコンライフに復帰した私は再び、育児メールにはまっていった。当時、妊娠中からお付き合いが復活した講師時代の仲間二人と、それはそれは熱心で頻繁なやりとりをしていた。三人とも同じ時期に妊娠・出産・育児の時間を得たので、互いにそれらについて毎日のように、長く、数多いメールを交換していた。ほとんどチャットに近い感覚のやりとりだった。
 それがひずみを帯びてきたのは、長男1才の誕生日を迎える頃だった。
 夏ごろからオットが自分のサイトを作り始め、そばで見ていて自分もやりたいと思いはじめたことがひとつの原因。だが、メール仲間一人のゆきすぎた発言に、私ともう一人の友達が疲れてきていたことも原因のひとつだった。二人で穏便にメールの数を減らそうとしたが、そのことが癇に障ったのか、その人はものすごい攻撃的なメールを私たちに送りつづけ、最後はケンカ別れのようになって終わったのだった。
 メールでの人付き合いに疲弊した私は、そんなことにエネルギーをすり減らすなんてバカバカしい、というオットのたしなめと教えのもと、初めてのサイトを立ち上げた。パソコンを始めて2年目の秋。長らくの夢が叶った。感無量だった。


                                     ・・・つづく。