小さな宝箱 12/30 今月に入って、ついに、7年使った携帯を引退させた。 ガラケーのカメラでは大きなサイズの写真は撮れず、 できるだけデジタルカメラで記録してきた日々だったけれど、 それでも、どうしても撮っておきたい場面にカメラなしで出合った時、 また、誰かにメールで送りたいと思った時に、撮った写真が、本体に残っている。 それを7年分、少しずつ整理し、microSDに移動していて、ふと気づいた。 どうやらこのmicroSDは、携帯にカメラ機能が備わった2台目以降、 この5台目に至るまで、ずっと入れ替えて使いつづけてきたものだった、ということに。 写真を移動し終えて、PCで確認してみて、びっくり。 ほぼ容量いっぱいになったそれには、2004年の写真から、 さっき移し終えたばかりの2020年の写真まで、 携帯で撮影したもののほとんどが入っていた。 携帯を替える度に、こうして同じ作業をしていたのか… そんなこともすっかり忘れてしまうほどに、この携帯の時代が長かったのだろう。 数字を頼りに、古いフォルダから開いていくと、 まるで宝箱を開けたかのように、突然、十数年前の暮らしが現れた。 日常の何気ない風景が、色鮮やかに、まるで今、ここにあるかのように。 その時々にわたしが興味を向けたものがたくさん写っていて、 オットーもわたし自身もまだ若く、坊たちは小さくて、表情が豊か。 1400枚近いそれらを順にたどっていけば、文字どおり走馬灯のように、 過去から未来へと早回しの映画を観るようで、不思議な気持ちになった。
指先に乗るような、豆つぶよりも小さなmicroSD。 こんなものに、こんなにもたくさんの、わたしの時間がつまっていた。 「あなたが"失われた20年"だと思うものは、これですか」と言わんばかりに。 開いた瞬間に胸がいっぱいになった、小さな小さな宝箱。 大切に大切に、PCにコピーをとった。 神さまの目から 12/28 自分でテレビをつけることがあまりないので、 家族がチャンネルをあれこれ回している時に、 思いがけない番組に出合うことがあります。 昨日・今日と、そんな偶然に導かれて、続けて2つの番組を観ました。 「中村哲の声がきこえる」 「良心を束ねて河となす〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」 1つめは気づいた時に8分ほど経ってしまっていたので、ネットで再視聴したのですが、 ものすごい引力に、観たところもやめることができず、 結局最後まで観てしまいました。 2つめは録画しながらつけたらやっぱりやめられなくなり(笑)最後まで…。 中村哲さんがすごい人なのはもう当然で、それが、成し遂げた仕事はもとより、 あらゆる角度からいくつでもそう言えることが、またすごい。 「凄い」---表現が貧しいけれどこのひとことに集約するしかない、 そうわたしが思うのは、中村哲さんの淡々とした在り方からでした。 ただ己と向き合い、目の前の状況に自分にできることは何か、それだけを問いつづけ、 黙々と実践し続けるその姿が、本当に凄みを帯びていた。 日本から来た若者たちは間近にその姿を見て、否応なく変化していく。生き方を変えてゆく。 印象的だったことばがありました。 哲さんは、自分のもとにやってきた若者たちに、動機を問うこともなく、 能力の有無を評価することもなかったという。 誠実に任務と関わること、自分の先入観を克服して虚心になりうること、を求め、 日本人としてのまごころと心意気、素朴な人情を買ったのだという。 このことばに、わたし自身が救われたような気がしました。 もうひとつ、2つめの番組のなかで、長年共に働いていた看護師さんの話。 「中村先生はとても尊敬されていたけれど、(それでも)いいことばかりではなかった。 一緒に働いていた現地の仲間が不正をする、砂を投げつける、 先生の車を拿捕されるとか、わたしだったらすぐに怒ってしまうようなこともあった。 そんなことされるなら…もうやめたほうがいい、と思うことでも、先生はいつも、 なぜ自分が砂を投げられたか、というふうに、必ずその原因を知ろうとされる。 その裏にある理由を尊重し、じゃ、何が必要かっていうふうに… それを実行される方だったんですよね。」 一見、悪く見える行動の奥には、その人なりの理由が何かあって、 その根本を理解し、共感した先にしか解決はない、ということを、 あらためて教えられた気がした。 そして同時に、それが解っていても、実行に至るまでの難しさを思い、 どんなひとにも先入観なく寄り添い、時間をかけて向き合う姿勢に、ただ脱帽した。 心に深い印象を刻んだこれらの番組から、ふと、 HP20年を振り返った時に、"失われた20年"という思いに沈んでいたけれど、 現代社会の価値観に侵食された"かたちある何か"の積み重ねにとらわれるのでなく、 誠実に目の前のことに向きあえたか。 まごころをもって目の前のひととつきあえたか。 ひとつひとつをそのように生きてきたか、ということが指標ならば、 わたしはわたしなりに、ささやかながら、20年の人生を積み重ねてきたのだ、と、 過ぎた時間の重さを、感じることができたのでした。 初収穫 12/22 本日、白菜の初収穫をしました。品種名、「金将二号」。 体重測定したら、ビニール袋ごと・新聞紙込みで、4kg。 (調理前に室内にて撮影)
日中、風もなく、少し気温が上がったので、助かりました。 さらに、斜向かいの方に根っこを切ってもらうのを手伝っていただき、 とても助かりました。(白菜の根っこはとんでもなく固い!) 昨年は虫にやられて収穫できなかったので、採れただけよかったのですが、 レース状になった葉先がぱりぱりと破れていくのがなんとも悲しい…。 それにしても、見た目はボロボロなのに、おけに浮かべるとゆうゆうと泳ぎ、 のんびりどっしり、王さまのような、いやトトロかモリゾーのような…。 虫食いなんて意に介さず…といったふう。 残りの4株は、ボロボロの葉っぱの脇に隠れて、 小さめの株をいくつも作っていて、それにもびっくり。 中心の芽を食べられても、「そっちがだめならこっちから!」という勢いが、 白菜の意思のようで、いたずらっ子みたいで思わず笑ってしまいました。 あちこちに小さな「子白菜」ができているのを確認したら、 虫食いのがっかりから、収穫がちょっと楽しみに変わりました。(笑) 追記、 3年前の同じ日の写真を発見。
「バケツにブラシ」に氷張る。(笑) これ、11時過ぎの撮影みたいだけど… ゆうに1cmはある厚みに驚きました。 相当、冷えこんだな。。
冬至の大会合 12/21 日が暮れて薄明が終わる頃、オペラグラス(双眼鏡が見つからず)とカメラ、 携帯(スカイマップが入っている)を持って、外に出ました。 高いビルやマンションが立ち並ぶせいで、なかなか見えないけれど、 昨日見つけた場所にて観察。 肉眼では光がにじんで、なんとなく2星が分かれているな…という程度でしたが、 オペラグラスでのぞくと、はっきり2星が分かれて見えました。
光学30倍カメラの本領発揮。(笑) オペラグラスで見えた状態に近く撮れました。 携帯のスカイマップを使って星を探すと、なんと月の下に、フォーマルハウトが! さらには火星の左側に、天王星が! いつも読んでいる石井ゆかりさんのことばを思い返しながら、 観察したい夜に晴天に恵まれた幸運を思い、ありがたい気持ちになりました。 少しでも雲が出たり、時間がずれたりしたら、見られなかったもの。 それは確かに、"人生の宝物"のひとつなのだと思えたのでした。 木星・土星・月 12/17 今日、今年最後のチェロレッスンを終えて車を出そうとして、 目を動かした先にこれを見つけて、はっとした。 2020年12月17日 細い月と木星、土星が接近 - アストロアーツ (astroarts.co.jp) それも建物と建物のすきま、低い空が開けたわずかな場所に、偶然。 この記事は知っていたけれど、時間も天候も限られるので、 見られないだろうな…と勝手に思いこみ、忘れていた。 我が家的には、「ちょっとかたちの崩れたアハハッ」。(笑) 先日の流星群といい、ニュースを目にしながら忘れていたりあきらめていたりしても、 こうして思いがけず見せてもらえることが、あるんだなあ…と、ひとり興奮しながら帰宅した。 もうずいぶん前から、2020/12/22に木星と土星が重なること、 二十年に一度の"グレート・コンジャクション"が話題になっているけれど、 今回は数百年に一度の節目も重なっているそうで、大きな時代の変わり目ともいわれている。 確かに今年は、年初からそんな風潮だった。 12月上旬から、徐々に近づいていく2星を夕暮れ時の西の空に見つけては、 ああもうすぐだなあ…と思っているこの頃。 わたしの星座では、愛の時間の始まり、なのだそうだ。 そのせいかどうかは分からないけれど、 このところある演奏をくりかえし聴いていて、ふと気づいた。 その曲の題名が「Tema D'amore」…愛のテーマだったということに。 これもまた、不思議な偶然。 今年聴いたなかでいちばん心を打たれた、たった1分20秒の演奏。 30年もの昔から聴きなじんだその曲が、演奏家の人柄と音楽性をもって、 心の深いところに染みてくる。 【追悼エンニオ・モリコーネ】ヨーヨー・マ 「ニュー・シネマ・パラダイス〜愛のテーマ」追悼演奏映像公開 流れ星 12/13 ニュースで何度か目にとまった、ふたご座流星群の極大日が、14日午前でした。 太陽が昇ってからは見えないので、日本では前夜か翌夕方が観測好機とありました。 今夜だなあと思いながら、寒いなかで待つことを思ってなんとなく気がのらず、 まあちょっとでも雲が出ていたら見えないし…と、ぼんやり過ごしていた午後10時半。 「ふたご座流星群見にいこうや」 思いがけず、大きい坊ちゃんがオットーとわたしを外へ誘います。 声をかけられて、一緒に行ってくれる人があるならと、門灯を消して表に立ちました。 家の隣の駐車場で空を見上げてみれば、東の空高くにふたご座が。 同じくらいの高さで少し南にオリオン座があり、ベテルギウスの赤い輝きから、 大三角をたどれば、シリウスがいっとう低く、ゆっくりとのぼってきているところでした。 天頂にはぎょしゃ座の一等星カペラが明るく輝いています。 冬の夜空は美しいなあ… 久しぶりに観たそのきらめきに心を動かされ、 しばらく星をちゃんと見ていなかったことに気づきました。 (木星と土星が至近距離でこんがらがるように沈んでいくのを、夕暮れ時に気にしていたくらい) だんだん目が慣れてきて、ふたご座がくっきり見えはじめた頃、 オットーが、「さようなら。。」と家に帰っていきました。(爆笑) 5分で一名脱落。(笑) 残った二人でカストルとポルックスをにらんでいたら、 視界の右端、オリオン座の上をすーっと白く明るいひとすじが!! わたし 「あーーっ流れた!あっち!」 大きい坊 「えっ見逃した!」 わたし 「けっこう長かったで!」 興奮しながらまた空を見上げて… わたし 「あれ飛行機か。まぎらわしいな。(笑)」 ・・・・・・ 大きい坊 「あっ見えた!あっち!」 わたし 「えっそっち全然見てなかった…。」 それはオリオン座からずいぶん離れたぎょしゃ座の北側、ほとんど天頂付近でした。 どうやらふたご座と言いながら、天頂を中心に東寄りの全天を見るつもりでいないと、 どこを流れるか分からないようだと、二人で気づく。 しかも、流れる向きはばらばら。 全体をみわたす感じで視界を広くして見ていたら、またひとつ。 わたし 「あっ見えた!」 大きい坊 「えっどこ?」(←また見落とし) 3つめは、カストルの上をかすめるように、黄色い光が短く流れました。 (やっとふたご座の上…) その後、4つめをオリオンより高い位置で、やっと一緒に見ることができました。 そのままなんとなく探しつづけて、次に白く短い光を東の高い空で確認。 しゅっと流れたその星を見終えて、二人同時に「帰ろっ」と引きあげました。(笑) 見上げることおよそ30分。コートだけではさすがに冷えてきました。 「けっこう見えたよな!」と、大きい坊は満足そう。 「な!」と、わたしも大満足。 この町なかで、30分で5つは、大豊作?です。 もっと暗い場所に行けば、文字どおり星が降るように見えるんだろうな。。と、 想像するだけで、心が洗われるようでした。 そんなことから思い出したのは、2001年11月に観た、しし座流星群のこと。 ここよりは少し暗かったとはいえ、丁が違うだけの同じ町で、 降るような状態に近い星空を観た、夢のような時間だった。 その時書いた随筆を思い出し、あの時、まだ小さかった坊ちゃんが、 今は星を観るためにわたしを外へ誘ってくれる。 そのことが不思議で、嬉しくて、ありがたくて。 流星群極大の夜に、雲がなく晴れた空が広がっていたこともまた、ありがたくて。 翌朝起きた時、いつもあるおなかの重い感じが消えて楽になっていたのは、 そんな想いを持てたからかなあ…と、少し心が明るくなったのでした。
夕暮れ畑 12/ 11 長かった初冬の、最後の小春日和。 寒波到来に備えて、手入れをしに畑へ行きました。
あとは年度末まで、収穫と水やり、草取り程度の手入れだけになった畑。 寒くなると野菜も(雑草も)成長しなくなるので、畑に行くのも1週間に1回くらいになります。 おけにためられた水はすでにとんでもなく冷たく、道具や野菜を洗うのが辛いくらい。 (もうすぐ氷がはる!)
葉物野菜は虫に食べられつつ、なんとか成長しています。 虫がつかないレタスは毎年優秀で、夏の青じそと同じくらい活躍してくれて、助かります。 小松菜とチンゲン菜は虫に好かれて。。(てんてんてん…) 今年初めて植えたカリフラワーが、きれいに育っていて感激。 ブロッコリーも今年は元気に成長していて、昨年のアブラムシまみれを思い、感涙。
ネットを二重がけにしていたにもかかわらず、 白菜は10月からダイコンサルハムシにやられていて、ボロボロです。 何百匹とピンセットで取りましたが、しんどくなってやめました。 収穫したらこれを洗って虫取りするのが苦痛…。 ・・・・・。 早い日暮れに追われるように、収穫と土寄せ・水やり(ストチュー入り)を済ませて、 夕暮れの写真を撮ってから、帰路につきました。
駐車場の脇の木の足もとで、なぜか今、咲いていた水仙と、夕焼け。 |