かぼちゃのおろし煮 6/30 レシピの切りぬきや本もずいぶん整理して、 頭に浮かぶ範囲で管理できるように努力中。
手になじんだ古い料理本から、最近作っていないことに気付いて、 思い出したように懐かしいメニューを作ってみた。 これ、結婚した頃、よく作ったなあ。 大根おろしを半分煮て、半分のせる。さっぱりしておいしい。 近所のかたにいただいたなすを使って。 ごちそうさまでした! イスキアの集いへ 6/28 朝、カーテンを開けたら、ポトスのしずく。 今日は、遠くへでかけてきます。
今年は行かないつもりだったのに、昨年の参加がきっかけで、届いた案内状。 会場が、なじみ深い場所に変更になっていたこともあって、 懐かしくて、思わず申し込んだ。
あの頃毎日通った商店街を抜けて、大通りを越えて、会場へ向かう。 会場の前に咲いていた、くちなしの花。 その昔、仕事に通った道にも咲いていた。懐かしい、甘い香り。 今年93歳になる佐藤初女さんが、はるばる津軽から来られる"イスキアの集い"。 人生の集大成として取り組んでおられる、各地の講演会のひとつ。 93歳とは思えない、しっかりとした語り口で、 たいせつなことを訥々と、よどみなく語られて。 45分の講演の後、さらに「わかちあい」(質疑応答)が1時間。 短くも的確に、ていねいに応えてくださるのが胸に響いた。 昨年訪れた時は、自分の汚さ、弱さが許せなくて、 初女さんに質問を書くのも、苦しかった。 今年は不思議なめぐりあわせで、わたしの書いたものが最後の方で、 初女さんに読まれて、答えをいただいた。 昨年より、少し落ち着いた質問になったけれど、痛みはまだ残る。 その答えをもらうためにここまで来たのかな、とふと、思う。 終了後、待ち合わせていた友達と、20年前によく立ち寄った喫茶店へ。 「好きやったメニューがまだあるけど、もうこんなに食べられへんわ」と笑う。 一緒にケーキを食べて、お茶を飲んで。 友達と別れて、ひとり、実家に戻る。 わたしがひとりで帰るのは、おそらく十数年ぶり。 子どもの頃から眠った部屋で眠る安堵感。 ここは、わたしの場所。ここまでは、何も、誰も、襲ってこない。 そう安心したからか、ここ数年なかったような深い眠りに落ちた。 まだ帰る場所がある、ありがたさ。 しみじみと感じつつ。 あらせいとうの花 6/24 小さい坊ちゃんが突然、「はい。」と持ってきてくれたもの。 『やさしい花づくり』という、昔むかしに買ったムック本でした。 隣の木が切られてから、外回りをあれこれさわっているわたしに、 参考になると思って、二階から見つけてきたらしい。 手にとって、さくいんページをぼんやりながめていたら、 あ の項目に、「あらせいとう→ストック 97」と書かれていた。 ? あらせいとう。 ・・・ときいて、即座に思い浮かぶのは、 「あらせいとうの花のように」という、あの有名な詩の一フレーズ。 新川和江さんが「わたしを束ねないで」とたとえた、 あらせいとうの花って・・・ストックやったんかー!!! 驚いてしばらく、さくいんページの文字から、目を離せないでいました。 食い入るようにながめたあと、一応ひいてみた97ページには、 あのなじみぶかい、春の花が並んでいたのでした。 小さい坊ちゃんのちいさな気遣いから、大きな発見! でもそういえば、教科書の脚注に書いてあったような、気もしてきました。(笑) つまりあの頃は、ストックもどんなだか分からなかったんやろな。 ご帰還 6/24 ふたりそろって帰るなり、洗面所でなにやら大爆笑。 何がそんなに、可笑しいんだろうね…。 あまりに楽しそうで、カメラを向けたわたしも笑ってる。 他愛ない、しあわせなひととき。
手紙は、人生とともに 6/22 このごろようやく、家の中にエネルギーが向くようになってきた。 思えば、家のなかを片付けたいと思いながら、どうして外にばかり、 エネルギーを向けていたんだろう。。 まず、大量に保存されていたビデオテープを、半分以上廃棄処分にした。 どうしても捨てられない家族の記録ものなどは、とりあえず整理して戻す。 次に出てきたのは、大量の手紙と、映画、コンサートのパンフレット。 ・・・・・ ネットで調べてみると、古い手紙などを長く置いておくのはよくないらしい。 (年賀状はさらなり。) すでに段ボールからあふれている手紙、いよいよまとめて処分か!と開けてみたら。 嗚呼、なんと美しく、整理されていることよ…。 分類ごとに、ついつい開けて読んでしまった。 ああ…こんなことがあったな。 名前も忘れている、高校の時に、音楽の大会で一度だけ出会った人が、 好きなアーティストの歌の、手書き楽譜を送ってくれた手紙。 幼稚園の送り迎えをしてくれた、敬老院のおばあちゃん。 通信教育のスクーリング仲間たちからの、近況報告。 入院していた時の、担当だった先生からの年賀状。 たどたどしい文字の、いとこからのお見舞い状。 看護師になった幼なじみが、ハワイでしばらく働いていたときにもらったカード。 いとこと文通していた小学校時分の、子どもらしい楽しいやりとり。 学校を出てからの、達筆の彼とトリ師匠の彼女(現在夫婦)との、頻繁なやりとり。 ・・・・・ 古い手紙は、念がこもっているから、捨てたほうがいいという。 けれど。 自己信頼を一時完全に失って、ぼろぼろになっているわたしには、 これが少なくとも、自分のエネルギーを奪っているとは思えない。 手紙の差出人と内容とは、確かにわたしの人生をなぞって続いていて、 これらのひとつひとつから、道ゆきを支えてくれた人とのつながりを思い出し、 外側に振り回されて力尽きた心を、自分の人生という軸へ戻してくれる。 一度は捨てようと決心したけれど、やっぱり、もう少し。 自分に力が戻ってくるまで。 無邪気にやさしく語りかけてくれる手紙たちを、置いておくことにした。 翌日。 いつもより早く、一緒に帰宅した子どもたち。 「これ…ママが、ちょっとうれしいもの?」と、小さい坊ちゃんが手にしていた封筒。 ポストから取ってきてくれたその手紙は、 昨日、箱から出して一番上に置いたままの、ハワイからのカードと同じ、差出人。 19日に出したはがきの返事。 何十年経っても…こうして、やりとりできるしあわせ。 メールではなく、手紙をくれるありがたさ。 しみじみと、かみしめる。
向い風 6/19 朝、新聞を取りに出て気付いた、お食事中のアオムシくん。
目みたいな紋様(眼状紋というらしい)のある背中は殻?みたいなもので、 実はそのてっぺんから、小さな頭を出してもしゃもしゃ食べてます。 (それを撮りたくて、気持ち悪いとおもいつつ、横からアップで撮影。) 葉脈に沿って、新しい葉をとてもきれいに、さくさく食べていきます。 みかんの木も亡き今、密かに期待していた山椒の実は、もう望むべくもありません。(涙) お天気がよかったので、ようやく書いた手紙を出してから、 一ヶ月に一度の心療内科へ行き、 川沿いの紫陽花の群生を愛でながら、図書館へ。 開け放った窓からさわやかな風が吹きこみ、やわらかな日差しが落ちる。 ここは古くて、子どもの頃通った図書館のにおいがする。だから、いつ来てもほっとする。 帰りみちの川風と木かげが優しく、濃くなった緑と鳥たちから、元気をもらう。 夜。 坊ちゃんがかけてくれたベストアルバムから、ふと流れた「向い風」。 イントロを聴いただけで、心は中2の秋にワープする。 当時のラジオで、発売前のアルバムから、初めてかかった曲。 録音テープを何度も止めながら聴いて、レポート用紙に歌詩を写して。 次の日、学校へ持っていって、友達に見せたっけ。 漢字が違うかも、とか言いながら… そんなことを懐かしく思い出して、あれから30年が経っても、 まだこの歌を聴けるしあわせ、を、あらためておもう。 今も歌を聴くだけで、あの記憶のなかに帰っていける、しあわせ。 歌詩を見せてあれこれ話した友達も、今もやっぱり友達でいてくれている。 ずっとずっと、聴きつづけてきて、よかったなあ。 人生の3/4を、さだまさしとともに歩んだ。 歩いた道をつらぬく彼の声が、現在という藪に埋もれそうになるわたしの心を、呼び戻す。 和音のなかで 6/17 めまぐるしい一日の終わりに、ふと選んで流した、"琴弦集"の一枚。 ジャズアレンジのさだまさしメロディが、夜のこころにやさしく染みとおる。 ゆるやかなピアノが、聴こえてこない歌詩と一緒に、流れこんでくる。 「道の途中で」「風の篝火」「とてもちいさなまち」「距離」「ひき潮」「虹の木」・・・ ピアノの音と、さだまさしの旋律とが、わたしをいちばん緩めると、あらためておもう。 ピアノもさわれなくなった今、ただこのコード進行と和音のなかに、埋もれてしまいたい。 ただまっしろになって、やわらかい音のなかに、帰りたい。 目を閉じて、三度の和音の動くすきまにもぐりこむわたし。 美しくやはらかな音の流れのなかで、しばしのやすらぎ。 さよなら柿の木 6/12 10年半のあいだ、我が家の借景となっていた隣地の草木がなくなった。 人の手で、たった45分間で、何十年ぶんかのいのちが失われる痛み。 もうこおろぎが鳴くことも、蝶が舞うことも、鳥が来ることもない。 昨秋の柿が最後の柿と知っていたけれど、あの実りを思い出し、胸が痛んだ。 そうなることも自然の流れと、わたしたちの計り知れないものと、知りつつ。 在りし日を偲び、数多の恵みに感謝。
梅の香りに満ち満ちて 6/10 思いがけずやってきた、みずみずしい梅の実。 今年は梅酒を漬けるつもりはなかったので、黄熟するのを待つ日々。 あたりに漂う、甘い梅の香り。これも、季節の恵み。
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