夏の夜のにおい 5/30 ふらふらと、閉店間際のスーパーに、買い物に出かけることがある。 この季節にしては涼しいけれど、夜の空気のにおいには、もう夏が混じっていて。 その中にまた混じっている、夕餉のにおい。 その空気を胸いっぱいに吸いこんだら、、、 おばあちゃんと行った、夏の縁日。 おばあちゃんの家の近くの路地。 二度と戻れない場所にワープしたような、不思議な感覚。 おばあちゃんももういないし、あの家も、もうない。 それでもこうして、一瞬でそこに行ける、気がする。 においの記憶は、どの時間も、また空間も、 すべて同時に存在することを、教えてくれる。 40000まで! 5/23 トップページのカウンタ、40000アクセスまで、 あと4人ですよっ。 HP開設から、11年半の月日を経ての数字です。 踏んだ方っ!ぜひ、感慨に浸ってくださいね。(笑) 日食観察中 5/21 金環食の日の朝。どんより曇り空。 ところが、最大食となる時間の少し前から、雲ひとつない快晴に。 奇跡的な天候の変化に、びっくり。 おかげで、最大食のあの不気味な薄暗さも、体験することができました。。 東から差しこむ朝陽が、畳の上に、隣にある蜜柑の木の影を映し出します。 いつもの朝の風景です。
今朝はなんと木漏れ日が、半月形!
めずらしく早起きのむーちゃん、日食グラスで太陽を観察中。 そんなむーのからだにも、半月の影がたくさん!
家族みんな、無事に日食を観賞。それぞれ感激して、出勤・登校した後。 静かになった部屋をふとのぞいたら、むーちゃん、まくらにのぼって寝てました。。 おつかれさま。むーも世紀の瞬間を、いっしょに見たかったのね。 「わが母の記」 5/16 何気なく見ていたテレビで流れた、たった30秒ほどの予告。 不意打ちにあったように、涙滂沱として止まらなかった。。 この映画を、観ないわけにはいきませんでした。 本日、レディース・デー。 周囲は、もうこの主人公と同じ経験をしたであろう、年齢の方が多い。 みんな、どんな思いで、見ているのでしょう。。 物語の始まりから、十年ほどの時の流れを追っていく構成。 人間関係などを理解しながらついていくのに、最初は必死でしたが。 中盤からは深く引きこまれていき、目が離せなくなりました。 また、いちばんの泣きどころがラストに来ないのが、憎かった。。 場内みんなが泣いたのが分かった、極みの場面でした。 役者さんもよかった。とても、よかった。 映像も、昭和のにおいの感じられる、少しセピアがかった色みが印象的でした。 見終えて、隣の二人連れのおばさんがやはり、 「うちもあんなふうに、徘徊して大変だったわ…」と過去形で話しておられて。 映画の後の、別の感慨をもらいました。 そして、わたしも、また。 中学一年の時、国語の教科書で、井上靖の「しろばんば」を読みました。 「洪作」という少年が、事情があって、土蔵で、 おぬいばあさんというおばあさんと一緒に暮らしている話でした。 映画では、「伊上洪作」は、もう60過ぎの、成功した作家として登場。 おぬいばあさんの、五十回忌を営んでいる場面もありました。 自分の時間の30年分と、作品時間の流れに、深い感慨を覚えました。 そして… 樹木希林演じる、母の姿。 「どうしたら、生きているうちに、息子に会えるのだか…」 「あなたは、息子さん…捨てられたんですよね?」 記憶のない母に、そわそわとたずねる息子の視線が泳ぐ。 そのことばが聞こえていないかのように、 離れて暮らす小さな息子が書いた、詩を諳んじる場面。 黄ばんだ古い一枚の紙を、手探りで取りだしながら。 わたしが詩を書きはじめた頃、 それを読んで「ませた詩書いてるの誰や!」と怒り、罵倒した母が、、、 もし映画のようになったら、わたしの詩を諳んじてくれているだろうか。 思春期のあいだ、わたしをほとんど無視してきたあの母も。 洪作が、「私は母に捨てられたのだ」と周囲の人に繰り返すたび、 小さい子どもが駄々をこねるような、その卑屈さに自分が重なり、切なくなった。 いつか、伊上洪作のように… 母との行き違いを、埋めることができる日が来るのだろうか。 母が記憶を失うのと、引きかえのように。 そんなことどもを考えながら、映画館をあとにしました。 隣のおばさんたちとは、また違う感慨を胸に。 春爛漫 5/14 例年より少し遅いようでも、季節の変化は、植物がいちばんよく知っている。 みるみるつぼみが上がってくるのを、毎日ながめるのが楽しみでした。
一昨年のピアノの発表会でいただいたガーベラが、 地上部は全部枯れてしまっていたのに、なんと、つぼみが8つも上がってきた!! (昨春は、葉っぱばかりで咲きませんでした。他のふた鉢は、捨ててしまった。涙) 3年目の母の日カーネーションも、なんとかクロウリハムシが出る前に、咲きはじめました。 昨春植えたレモンゼラニウムも、気付けばぽつぽつと咲きはじめ。 春先に刈り込んだラベンダーが、すくすくと新しいつぼみを伸ばしています。 そして、ジャスミン。
花芽の先の方は枯れてしまっていたけど、残った芽がちゃんとあったみたいで、 いつもほどではないけれど、がんばって咲いてくれました。甘い香りに、感激。
それと、寒さに負けずにがんばってくれたいちご。 ランナーを取って子株を植え替えた昨秋。今年は、実りました! これも、3年選手。品種は、あきひめです。
うれしい収穫。つやつやのいちご、なめくじに襲われないうちに! 「死の直前に後悔する5つのこと」 5/14
2月にニュースで広まったこの記事のことを、 ふと思い出す機会があったので、記しておきます。 緩和ケアに携わった、オーストラリアの看護師さんの話。 人生の最後の数週間をお世話した患者さんたちが、 死に際して口にすることが共通していた、というもの。 それを記録していたブログが注目され、内容が書籍化されたらしいです。 そのタイトルが、「The Top Five Regrets of the Dying」。 その5つが挙げられていたのを、たまたまオットーがラジオで聞いたらしく、 うろ覚えで教えてくれたのを、探して見つけたのがこの新聞記事でした。 1.自分に正直な人生を生きる勇気を持つべきだった。 他の誰かが自分に期待する人生ではなく。 最も共通して表される後悔。 人生がもうすぐ終わると知って、叶えられなかった夢の多さに気がつく。 2.あんなに働くんじゃなかった。 Wareさんが看護したすべての男性が口にしてきた。 子どもたちの成長や、伴侶とのパートナーシップを、もっと大切にすればよかった。 3.自分の感情を表現する勇気を持つべきだった。 多くの人が、周囲とうまくやっていくために自分の本当の思いを抑え込んでいる。 結果、本当はなれたであろう存在になれないまま終わる。 4.友達と連絡を絶やすべきではなかった。 死を目前にして古い友人のありがたみに気づくが、 もはや探し出して会えるとは限らない。 5.もっと幸せになるべきだった。 これはびっくりするほど、共通する後悔だ。 多くの人は、最期の時まで、幸福とは選べるものだということに気付かない。 古い慣習にとどまり、慣れ親しんだ快適さから外れる感情は、 変化への怖れから切り捨てられ、満ち足りていると勘違いしてしまう。 多くの方が引用している訳に少し付け加えてみましたが、 ニュアンスがうまく伝わるかどうか。。原文を読まれるなら、 その看護師さんのブログ→こちら トップページの下の方に、書かれています。 読んだ時に、書いておきたいなと思いながら、そのままになっていました。 この後悔は、ベニシアさんの講演とも共通していました。 「人生があと1週間しかない、と言われたらどうするの?」 「散歩したい。空を見たい。海を見たい。家族とごはんを食べたい。旅をしたい。 みんな、ほとんどは、変わったことでなく、当たり前のことを言うのね。」 「どうして、その時まで待つの?それは、今でもできます。」 今、できるのに、忙しいからと先延ばしにしたり、慣性で何も感じずやっていたり… 見えない明日という日から数えれば、誰もがみな、同い年なんだ、とは、 新聞で読んだ、玄侑宗久さんのことば。 ひとつひとつ、「今、ここ」を感じながら、自分の心の動きを観ていきたい。 あらためて思いました。 |
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