カミーラの孤独 1/30 坊ちゃんたちがようやく学校に行って、ほっと床を見たら。
ウルトラマンのおにんぎょうが一体、寂しそうに転がってました…。 昨日、久しぶりに大量のおにんぎょうを出してきて、ごっこ遊びをしてたと思ったら… しまい忘れられてしまったのでしょう。 (「カミーラ」という、ウルトラマン型の怪獣?だったみたいです。) ぽつりと彼だけがいるのを見ていたら、「あそんで〜」と言われてるみたいで(笑) 仲間たちともはぐれ、坊ちゃんたちとも別れ、なんとも心細げに見えました。 坊ちゃんたちが帰ってきたら、あそんでもらおうね。
インフルエンザのおとしもの 1/26 あーもう1週間以上経ったのね。。 ちょこちょこ書こうと思ってたら、とつぜんインフルエンザがやってきました。 最初に倒れた坊が、今朝やっと登校。 次にうつった坊はまだ寝てます(←眠いだけ)。 インフルエンザ・ファミリー…(パパ以外) パパのいない、ある日の会話。 「晩どうする〜?お弁当でも買ってきて食べる〜?」 「あーいいね!」 「でも、誰が買いにいくの?」 「じゅんが行こうか?」 「『あなただってインフルエンザなのよ!いったい誰が買いにいけるっていうの?!』」 「『そうだおまえだってインフルエンザ・ファミリーの一員なんだぞ』」 ↑途中から、「OH!マイキー」(ブラックなマネキン・ドラマです)風に語ると、 子どもたち、面白がって喜んでました。(笑) 「おもちゃも病も こーかいこーかい」(=交代で使うの意) 十年近く前、子どもたちがまだ小さかった頃に、オットーが作ったいろはがるた。 そんな時代もあったなあ。。必ず、一緒にかかったなあ。 久々に思いだして、懐かしい気持ちにもなりました。 そんなインフルエンザのおとしもののひとつ。
11月に毛糸と編み針と製図を用意してから、 何度もほどいて編んでほどいて…練習なんだか本番なんだか分からない、 みじみじと作ってきたマフラーが、やっと完成! かぎ針でエコたわしより大きなものを編んだのは、初めて。 完成見本にほれこんだものの、これはいつ完成するのかと、危ぶまれていましたが。 よかったー寒いうちにできあがって。 色が次々とランダムに変わっていくのが楽しみで、編みつづけられたような気がします。 暗い色が交互に長々と続いたり、 明るい色が太陽にように突然ぱあっと出てきたり、 まるで人生の縮図のようでした。大げさ?(笑) 今は、モリゾーのショールになってます。
「完全生命体イフ」が教えてくれたもの 1/18 歴代ウルトラマンの名回(?)をランダムにピックアップして放送する、 子どもたちが毎週楽しみに見ている番組があります。 いつもはごはんを作っている時間なのですが、 たまたま今日は、そばにすわって一緒に見ていました。 今日のウルトラマンはマックス。 7年前にレギュラー放送していたシリーズのなかの、 『第3番惑星の奇跡』という回でした。 最初、ベタな設定やなーと編み物しながら横目で見ていたら、 後半、暴れまくる怪獣・イフをいさめていく過程が、なんとも深くて。 この怪獣は、 「敵からの攻撃を体に取り込み、自分の戦力にしてしまう。 攻撃を受ければ受けるほど、成長して強くなってしまう完全生命体」らしい。 なので、ダッシュの隊員たちが攻撃しても、ウルトラマンマックスが攻撃しても、 その攻撃の技を吸収し、返してくるのだから、たまったものじゃありません。(笑) 手の打ちようがなく途方に暮れていた隊員たちの目に映ったのは。 前半のストーリーで、目が見えなくなった少女がピッコロを吹く姿でした。 発表会の会場を壊され、逃げ場もなく、どうしようもないまま、 発表会で吹くはずだった曲を演奏し始めたのです。 ショパンの「別れの曲」が、美しい音色で流れます。 そのうち、怪獣イフがもだえはじめ…金色に輝きだしたその体から、 なんと同じ曲が、パイプオルガンの音色で流れ出したのです!! そして次第にイフの体が、トランペットなどさまざまな楽器の集合体に変化し、 音楽を演奏しながら、輝きながら、マックスに率いられ、宇宙に帰っていったのです。 怪獣をやっつけたものは、激しい戦いの技ではなく、なんとショパンだった…。 衝撃的なラストでした。 「攻撃には攻撃、 音楽には、音楽か…」 ダッシュの隊員のせりふが、胸に染みました。 最後まで誰も、このことに気付かなかったのです。 攻撃して倒すことしか、考えていなかったから。。 自分が発したものが、自分に返ってくる。 それはまさに、CMで有名になった金子みすゞの詩であり、 「自分がまいた種を刈り取る」という、厳然たる宇宙の法則でもあります。 ウルトラマン、なんたる深さ。 「世界は、美しい。 いつか、この世界が平和になって、ダッシュが解散する日が来るといいね。」 隊員たちの最後のせりふに、希望を見出したい気持ちになった、 そんなウルトラマン・ストーリーでした。 ぬくぬく 1/17 子どもたちが登校したあと、ふと見ると。
むーとモリゾーが、こたつに入っています。 夕べ、子どもたちが寝たところを見にいったら、 ふたりは彼らと一緒に、ふとんの中に埋もれてました。 ここまで、連れてこられて、入れてもらったのね。(笑)
あーまだ、眠いのね。 どうぞゆっくり、おやすみなさい。。 ピカ十? 1/14 あるとき、レジで出した十円玉を見て、そばにいた小さい坊ちゃんが叫んだ。 「あっ!ピカじゅう!」(笑) ポケモンじゃあるまいし…。 でも、思わず財布にひっこめて、違う十円に替えました。 それが、これです。↓
もう4年以上は経っていそうなのに、カメラが映りこむほど、ぴかぴか。 ううむ、確かにこれは、ピカ十…。
坊ちゃんは、わたしが集めている、ギザ十↑の話に引っかかったのに違いないのです。 でも、新しい十円を「ピカ十」とは、うまいこと言うなあ…。 感心しきりでした。 もうひとつ。 我が家の鏡餅は、最近よく売っている、切りもち入りの、プラスチック餅です。 ひっくり返すと、底にフィルムのふたがあり、そこを開けるようになっています。 家族がそろった日、みんなで「鏡開き」をして、おぜんざいを食べた時のこと。 小さい坊 「パパ?パパの浜松の鏡餅は、もうひらいた?」(爆笑) オットーは今、単身赴任中で、その部屋にも、 同じタイプの小さい鏡餅を置いたそうなんです。 「鏡餅っていうのはー、本当は餅を重ねていて、固くなってるけど、それを切って、 食べるのを鏡開きって言うねんでー」 プラ餅の底のフィルムを開くことを、「鏡を開く」とは思っていなかったでしょうが、 一応、大人から説明は加えておきました。(笑) なんというか、小さい坊のことばのセンスは、おもしろくて笑えます。
最後に、新旧揃って、記念撮影。 十円玉も、年代が幅広いです。みんな、長生きしてね。(?) 空の魔法 1/9 でかけた帰り道、スーパーの駐車場で見た空。
上に向かって、天使のはしごがのびています。 全天のほとんどが、ぼんやりとした雲に覆われ。 夕陽の近くのわずかなすきまで、それをスクリーンにして映る、光の道。
これは、その2日後に見た空。 ふと差した光に、空を仰ぐと、 マンションの高さよりもずっとずっと高く、天に昇る光の道ができていました。 冬の空は、美しい。 朝陽に染まる赤い雲や、沈むのが遅い大きな白い月、そして、きらきら光る冬の大三角。 朝も、昼も、夜も、 冷たい風のなか、ふと見上げると、励ますようにただ、そこにある。 夜回り先生 1/7 水谷修さんの講演会に行ってきました。 行けないなと、二度ほどあきらめながら、何か見えない後押しがあって、 導かれるように、行ってきました。 メモをとる間もなく、流れる水のように、たっぷりとお話を聴かせてくださいました。 本や新聞の連載コラムは読んでいたけれど、 実際に話をされるのを目にするのは、初めて。 数多くの体験談は、つらい話も多かったけれど、 わたしが感じていたことと一致して、嬉しくなりました。 子どもたちには、口先のことばで教えるのはいちばんだめ、 教えたいことを実践する姿を見せなければ、伝わらない、ということや、 自己肯定感を持たせることが、生きていく一番のちからになる、ということや、 自分自身のために学んだことが、 子育てにそのまま通用するのだ、ということの確認になりました。 子育ては、特別な何かや、技術、心構えなどではなくて、 親である自分を育てることで、子どもはそこから、自分で学んでいくのだ、と。 それと同時に、講演の中では出てこなかったけれど、 親である自分自身がまず、自己肯定感を持つことが大切だとも思った。 交流分析の基本的構えでも、「I'm OK」からすべてが始まるそうです。 ことばにならない、感情にもまだ結晶していない、もやもやしたもの。 胸の底の方で溜まっている、その「澱」のようなものにかたちを与えてみると、 実は、罪悪感だったり、劣等感に伴う嫉妬だったり、無力感だったりする。 一歩ずつだけれど、そんな思いに気付いて、受け容れていきたい。 そうすることで、自分以外の人をも、受け容れられるようになりたい。 そんなふうに思った、講演会でした。 ゆく人・くる人・そばにいる人 1/5 あけまして、おめでとうございます。 帰省、年賀状… 日常では会わない、会えない、過去を共に過ごしたひとたちとの、再会の場。 会えるつもりが会えなかった人、8年ぶりに会えた人、 出さなかった人、来なかった人、思いがけない報せが返ってきた人… いろいろなことを、考えたお正月でした。 時空が曲がってしまったようで、戻ってしばらく、木偶の坊でした。 ひとの宇宙は不思議で、それぞれの成長に合わせて、 出会う時期がちゃんと、決まっているように思う。 人生が交差して、濃密に関わる時期があっても、 ある時を過ぎると、それが嘘のように、他人行儀になってしまう。 それぞれに、学ぶことが異なってくると、すいっとすり抜けてしまうというか。 そして、いつかまた、関わる日もあるかもしれない。 ないかもしれない。 そんなふうに、ひととひとは、お互いの成長のために、出会っては、別れていくのだろう、と。 そんなことを考えていました。 けれど。 長いようで短い、目まぐるしい人生のなかで、 まるで伴走するかのように関わりつづける、そんなひとたちも、いる。 物理的な時間・空間を隔てていても、遠くにいる気がしない、不思議なひとたち。 自分の人生の中で、特別な存在のそのひとたちは、 精神的な家族と言ってもおかしくない。 共に、成長していく仲間。 交差し離れていく寂しさもあり、再会できる喜びもあり。 さまざまな感慨とともに…今年もまた、ゆっくり歩んでいきます。 |
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