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高松へ・讃岐うどんの旅 6/30 晴れた土曜日の午後。 「あー。讃岐うどん・・・食べたいなあ。」 「うーん。遠いけどなー。」 ・・・・・
新幹線からマリンライナーに乗り換え、気がついたら、瀬戸内海の落日をながめていました。
近所の「はなまるうどん」に行っておけば、よかった?(笑) 讃岐本店でございますよ。。(注・入ってません。) --------------------------------------------------------------------- 夜、宿泊先の浴場にて・・・ ほとんど貸切のような状態に、一緒に入っていたのが、 何らかの親戚関係にあるらしい、女性4人。 年配の女性ふたりに、小学校低学年くらいの女の子と、そのお母さん。 お母さんらしい女性は、年配の女性を「おばちゃん」と呼び、 「おばちゃん」は、もうひとりの年配の女性を「ねえちゃん」と呼ぶ。 「あー遠かったけど、来てよかったわぁ。ねえちゃんにも会えたしな」 「ほんまやねえ。」 「あー気持ちいい。さっぱりするなあ」 「ねえー。ほんまにねえ。」 「また来るわ。こんなええとこやったら、また来るわ。」 年配の女性ふたりはそんな会話を、湯船で延々と、くりかえす。 聞いていてほっとするような、涙が出そうな、そんな会話。 わたしまで、「遠かったけど、来てよかった」という気持ちにさせられた、そんな会話。 脱衣場に出ていったら、先に出ていた若い(といってもわたしと同じくらい?)お母さんが、 あとから出てきた「おばちゃん」に、お茶をすすめる。 「おばちゃんー?お茶入れたろか?このお茶、おーいしいでー。 よーう冷えてて、ほんまにおいしいでー。」 「じゃあ、もらおうかなー」 お茶を女の子から受け取った「おばちゃん」は、さらにあとから来た「ねえちゃん」に、 「今このお茶、けいこちゃんにもろたんよー。けいこちゃんが、もってきてくれたんよー。」 そう、いとおしそうに言う。 「あーおいしい。ほんま、おいしいお茶やわ」 「けいこちゃんも、たくさん遊んで、よかったな。また会おな。おばちゃん、 明日朝一番のバスで、帰るから。」 ・・・・・ この冷えた麦茶は、特別濃いわけでもなく、香り高いわけでもなく、 それ自体は特に「おいしい」と言えるものではなかった。 けれど、この女性が、本当に心をこめて「おいしい」と言っていることが伝わってきた。 自分が感じた「おいしさ」を、心をこめて、相手に伝えようとしていた。 そのことばこそが、麦茶の「おいしさ」だったのだろう。 麦茶だけでなく、ここに来てよかったということ、 「ねえちゃん」に会えてよかったということ、 「けいこちゃん」がお茶をくれてうれしかったということ、 その気持ちを、心をこめて、良いことばにして語っているこの女性たちに、 そしてそこでやりとりされたことばに、胸がいっぱいになった。 ことばは目に見えないけれど、こんなにも、人の心を動かすのだ。 良いことばを使おう、としみじみ思った。 この女性たちの会話に接することができて、幸せでした。 うどんのことなど、すっかり忘れて。 ものおもふ 6/24 気持ちの荒波にもまれて、迎えた週末。 雨・雨・雨、のいちにち。 大がかりな部屋の片付けをしていて、処分しようとした雑誌のなかに、 「どう生きてどう死ぬか、人は生きたようにしか死ねないから」ということばを見出し、愕然とする。 人は生きたようにしか死ねないから。 文字どおり、気持ちがひきしまる思いがした。 ならば、どう生きて、在るべきか。 今、この時間を、与えられたものを、たいせつに、せいいっぱい。 これに尽きるのだと、深い深い、心の底から、何かが突きあげてくる。 昨日はまた、「目に見えないものが、目に見える世界を支えているのだ」ということばに再会した。 『星の王子さま』でも出会った、この真実に、あらためてはっとする。 目に見える世界の裏で、下で、それを支えているものを見ようと、地下鉄で、目をこらした。 「想像力」を忘れた人間は、なんて不幸なのだろう。 平面でしか、ものが見えないのは、なんて寂しいことなのだろう。 深夜、子どもたちとオットの寝顔をながめ、こうして出会えたありがたさをしみじみかみしめる。 共に生きる、長いようで短い時間を充足させること。 わたしたちに生を与えてくれた両親、生を支えてくれた恩人たちに、元気なうちに孝行すること。 シンプルに、なめくじの心になって生きていけば、 大筋は間違わずに、この生をまっとうできる、きっと。 ものおもふ、夜。 かなしいきもち 6/21 今日、起こったかなしいできごと。 ・・・・・ 朝、かまきりをつかまえた。 中くらいの、若いかまきり。 坊たちに見せてから放そうと、ちいさな虫かごに入れ、そっと置いておいた。 …これが、事件の発端だったことには違いない。 幼稚園バスのお迎えをして、帰宅したとき、同じバスの年長さんがひとり、ついてきた。 小さい坊ちゃんと一緒に、かまきりを見つけたその女の子、 駆け戻って大きな声でみんなを呼びあつめ、年少さん4人と、そのお母さんたちを連れてきた。 暑いなか、正直、わたしはいつもどおりさっと帰りたかったのだけれど… 我が家のささやかな駐車場兼・庭で、虫かごを囲んで、6人の子どもたち。 その周囲には、お母さんたちのおしゃべりの輪。 「学習教材のミニトマト、どうなった?」とひとりのお母さんにきかれ、 「植え替えたよーあれだよー」と指さしながら、ミニトマトのちいさな苗をながめるわたし。 そこまではよかったのだけれど… 年少さん2人の男の子が、しゃべっているわたしたちの目の前で、 物入れの戸をバタバタ開け閉めしたり、10kgの土の袋を持ちあげたり、おふざけをはじめた。 それを軽くたしなめながら話を続けていたのだけれど・・・ その2人がトマトのプランターの脇を通ったあと、小さいほうのトマトの苗が、曲がっている。 あれっと思い、駆け寄ってみたらば…いちばん大きかったてっぺんの芽が、ぽっきり折れていた。 え・・・・・ 当の2人のお母さんたちは、気付いていない。見ていない。 「トマト、折れた・・・」 わたしの言葉にお母さんたちみな話をやめ、一斉にこっちを見た。 「さっきまで、まっすぐ立ってたのに・・・」 一緒にトマトの話をしながらそちらを向いていたお母さんだけが、わたしと真実を見ていた。 裂けた茎は、もとには戻らない。 わたしは無言ではさみを持ち出し、折れたトマトの芽を切った。 歩きまわっていた2人のうちの1人のお母さんが言った。 「もともと・・・じゃないんですか?」 「えっ・・・」 今、ここで、まっすぐ伸びていたのを見ながら、トマトの話をしてたんだよ。 2人が通ったあとに、折れて曲がってたんだよ。 茎が折れて、水が染みだしていた。 おかしいじゃない。 なんでもともと? というか・・・なんで?おかしくない?その質問。 頭が、ぐるぐる。 ・・・・・・ 楽しみに観察している大きい坊に、なんて説明したらいいんだろう。 そんなことを考えながら、プランターの前にしゃがみこんでうつむいていたら、 お母さんたちが口々に、「さあ、○○!帰るよ!」「帰ります!」と言いはじめ、 潮が引くように、さーっと散っていってしまった。 これにも、また唖然。 なんで? ここにかまきりを見に集まって、全員帰って、あとには、折れたトマトが残った… 大きい坊が、楽しみにしている、トマトが。 一緒にトマトの話をしていたお母さんは、びっくりしてそこに残っていた。 他のみんなと方向の違う、「もともと」発言のお母さんも。 わたしは、「もともと」でないことを説明し、 おたくのお子さんともうひとりのお子さんが当たったのだと説明した。 (犯人特定をしたかったわけでないけれど、「もともと」でないことを説明しなくてはならなかったから) そのお母さんは、 「よく見てなかったから・・・すみません」とうつむいた。 「『もともと』っていうのは、なぜそう思ったの?」ときくと、 「うちの子はやってないって思ったから・・・」と言う。 よく見てなかったのに、うちの子はやってないと思ったって、どういうことなんだろう。 ますます混乱した。 「どんなときでも、『うちの子がやったかもしれない、やるかもしれない』って気持ちでいることは、 すごく大事なことだと思うけど・・・」 わたしはあとで、他のお母さんたちにも、そう言った。 ------------------------------------------------------------ この事件について・・・思うところがありすぎて、書ききれない。 わたしが言いたかったのは、「トマトが折れたことを謝れ」「犯人は誰」ではない。 ほかの何かが壊れた、でも同じこと。 そこにみながいるあいだに、元気だったトマトが折れた。 しかしそのことについて誰もそれに言及せず、 わたしへの「さようなら」もなく、ましてや「かまきりを見せてもらってありがとう」のことばもなく、 そそくさと、「うちじゃないから」と逃げるように帰っていった、人間の誠意のなさに、がっかりしたのだ。 もう、本当に、心から。 もうちょっと、想像力があれば、うつむいているわたしに声もかけられただろう。 その場を、みんなで考えようという姿勢が生まれただろう。 折れたものは、仕方がないよ。そんなことは百も承知だ。 その事実にショックを受けているわたしに対しての、 あまりに誠意のない対応に、情けなさと、憤りがこみあげたのだ。 さらに、事実を見ていなかったお母さんの、 「うちの子はやってないから、もともとじゃないんですか?」という言葉が、 わたしの荒波のような気持ちに、追い討ちをかけたのだ。 朝夕水をやりながら、ああ、根をはってきたな、上を向いてきたな、と 楽しみにながめている、わたしに向かって。その言葉は、とても失礼だと思った。その時。 ------------------------------------------------------------- あとで話す機会を持ったのだけれど、みな一様に、 「うちはやってないからと思って・・・それで帰ってしまいました。すみません」と言った。 たまたまわたしは、当たった子を見ていたけれど、それが誰か分からなくても同じこと。 折れたトマトをみなで囲んで、認識して、なぜそうなったか考えさせないといけないでしょう。 「うちの子はやってないから」その場にいても、関係ない、謝る必要もないってこと? あなたたち、学校で、社会で、何を勉強してきたの?とききたい。 おしゃべりに夢中で、よく子どもをみていなかったのなら、 「うちがやったかもしれない。ごめんね」と思うのが普通だと思ったけど。 普通じゃなかったらしい。 「もともとじゃなかったんですか」 とっても傷つきました。 今もまだ、心は荒波のまま。 気持ちは伝えたけれど、これでよかったのか、迷ってもいる。 黙って、「いいやこれくらい」で終わっておくべきだったのか。 トマトの苗は、折れた茎を押しのけて、脇にあったちいさなちいさな芽が、 目に見えて上へ上へと大きく伸びはじめました。 トマトの強さ・・・見習いたい。 わたしも、まだまだです。 凛凛子の花 6/3 凛凛子ちゃん、みるみる大きくなりました。 そして、ひとつめの花が咲きました。 とっても元気よく茂っているので(左)、わき芽を摘んですっきりさせてみた(右)。
凛凛子の花。 そして、坊ちゃんの、ちいさなちいさなミニトマトの苗。 これはどこに定植するべきか…すごーく悩んでいます。(とまとだらけなんだもん!)
ふた冬を室内で越して、3回目の夏を迎えたアメリカン・ブルー。 そして、春に母にじょんぎりにされ、枯れたかのように見えていたルリマツリ(白)… あきらめかけた頃、ついに根元から、力強い新芽を吹きました。 植物の生きる力に、慰められるこの頃です。 運動会 6/2 思いのほか、風があり、雲が流れ、過ごしやすいいちにちであったけれど。。 やっぱり、陰のない運動場で半日立ちんぼ、は、かなり暑かったのでした。。
小さい坊ちゃん、いすがほしい〜と訴えるので、取りに帰ってあげた。 唯一のいすにすわって、王様になる坊ちゃん。 それから、太陽のまわりに出た虹。 一瞬で、消えてゆきました。 外の風、日の光の中に、懐かしい過去の風景を探し、感じて。 何もかも、分からなくなる時がきたら、それはそれで幸せなのかも…と思ったりしました。 日に当たってぐったり疲れ、帰ってからはうとうと寝たり、まんが読んだり。 このところ、心によみがえって、読みたくて仕方なかった「架空の森」(川原泉)というお話。 ひっぱりだしてきて、数年ぶりに読みながら、ほろほろと涙してしまいました。 近頃、活字に回帰中。 あじさい 6/1 ピンクのあじさい…昨年のひょろひょろが、ウソのように。 あざやかに、可憐に、力強く、咲き誇っています。 昨年の、買ってきたばかりの小さな鉢を覚えているかたも多く、 道行くひとがみな、「きれいね」「大きくなったね」「どうやって手入れしたの」と声をかけてくれます。 大小二十の、美しい花てまり。 4年目の青色あじさいが盗まれてショックを受けていただけに、 がんばって咲いてくれたピンクのあじさいに、手を合わせたい気持ち。 ありがとう。こんなにきれいに、咲いてくれて。
前夜、DVDで「かもめ食堂」を見たために、食べたい一心でシナモンロールを焼いた朝。 「本を返しに行っていい?」と、パン友達からメールが来る。 「いいよ〜ちょうどシナモンロール焼いてるから。一緒に成型しよう」 いいタイミングで訪れてくれて、DVDのパン作りシーンみながら、一緒に成型。 焼きあがる頃、近所のパン焼き友達に話が及んで、そこにそのひとから偶然、メールが。 お互い名前を知っているのに面識のない彼女たち。引き合わせようと、返信する。 そしてまた、もうひとりの近所の友達の名前が出て、彼女も呼ぶことに。 彼女は「かもめ食堂」をみた仲間なので、シナモンロール食べにくる?と誘う。 そしてなぜか3人のお母さん仲間、集合。にぎやかに、子どもパン教室の話に興じる。 (なんとみな、子どもたちを同じ単発パン教室に行かせることになっていた!偶然!) 奇遇な流れで、パン作りの好きなひとたちを結ぶきっかけになれて、とてもうれしかった日。
今日はゆっくりシナモンロール焼いて、恩師にはがきでも書こうと思っていたのだけど。 偶然が重なって、出会いにつながって、これはこれで、とても楽しかった。 |
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