なつやすみの、まんなかで

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 七月最後の、日曜の夕方である。
 今年は空梅雨で、まだ梅雨明けしないうちから雨はほとんど降らず、カンカン照りの真夏日が、うんざりするくらい続いていた。
 新宿の歩行者天国は、しかし、人の波であふれかえっている。灼けるようなアスファルトの照り返しと、夕刻を迎えてなお強い日差しとの間で、喘ぐように、それでもどこか足どりを浮き立たせて、人々はゆく。テキ屋の並べる露台。古びたラジカセから流れる音の割れた音楽。道路の両脇の店々から時折漏れてくる冷気。五感の働きが鈍っていく。こめかみから首筋へ流れる汗を拭いながら、佐和子は人をかきわけるようにして待ち合わせの大型書店を探していた。
 東京は二年前に一度、訪れたことがある。曖昧な記憶を辿りつつ、とにかくデパートを目指せば、左手に見えるはずだと、重いカバンを肩にかけ直した。コインロッカーに入れ損ねた傘と、濃紺のスーツのジャケットが邪魔だ。
 すでに時計は五時五分を指していた。焦りながら道の片隅で地図をそっと開いてみる。道を間違えてはいない。間違うはずもない、歩行者天国の大通りなのだから。佐和子は地図を隠すようにカバンの中に埋め、再び来た道を引き返す。
 「三階の、美術書コーナーで、五時に」
 昨夜の奈美の声を、耳の奥で反芻する。―――昔の奈美ちゃんは、勝気で闊達で、おませでそのうえ口が立って。新しいものは何でも私より早く知っていて。いつだって圧倒される思いだった。佐和子はそんな奈美に微かな憧れをもって、彼女の背中ばかり見ていた気がする。けれど数年振りに聞いた、電話越しのその声は、あの頃の奈美とは違う何かを伝えていた。それは、あの絵葉書から感じられたものと、同じ何かだった。手紙から電話へと、それは確信に変わりゆき、数十分後の再会に向けて、それは確実な磁力へと変化しつつある。それを感じながら佐和子は、やっと見つけた書店のエスカレーターへと足を進めた。

 人でごった返すメインの売り場を抜けて、案内表示にそって見つけた美術書コーナーの一角は、入り組んだところにあった。そこだけが図書館のような、専門書コーナー独特の、密でひっそりとした空気が漂う。静かに本を広げる人たち。その一番奥の書棚の、大きな西洋美術全集の前に、奈美の背中があった。
 「あ、佐和ちゃん」
 佐和子が声をかけるよりも先に、振り返った奈美が嬉しそうな顔をした。
 濃い橙色をした、交ぜ織り模様の、涼しげなワンピース。オフホワイトのレース編みカーディガンを羽織り、真っ黒な髪を肩口でひとつに束ねて、ゆるく三つ編みにしている。
 「久しぶり…元気だった?あ、試験どうだった?」
 昔と変わらない、黒く大きな瞳が、佐和子の目をまっすぐのぞきこむ。
 「うん。なんとか終わったよ…こればっかりは、結果オーライだから」
  ちょっと照れくさくなって、佐和子は腕に持ったままの、しわだらけの濃紺のジャケットに目を落とした。試験のために、一応上下揃えて持ってきたのだった。
 「それ、あっつそうー。ずっと着てたの?」
 「さっき駅で、コインロッカーに入れ忘れちゃった。結局、手に持ってただけ」
 真っ白な半袖シャツに濃紺のタイトスカート、黒のローヒール。暑苦しく窮屈なこのリクルートスタイルを、佐和子は内心早く脱ぎ捨てたかった。真新しい腕時計のベルトの赤だけが、くっきりと目に映る。
 「佐和ちゃん、おなかすかない?中村屋のカレー、食べにいこうよ」
 奈美は手にしていた小さな本をぱたりと閉じ、書棚の隅に戻した。背表紙の「オーブリー・ピアズレー」の文字が目に焼きついた。
 「うん。案内してね」
 奈美は任せて、と笑い、話したいこと、いっぱいあるんだ、と下りの階段へ私を誘った。

 「ああ喉が渇いた」
 奈美ちゃんはグラスの氷をからからいわせながら、水を一杯、ひと息に飲みほし、勢いよく、
 「今さ、美術の専門学校に通ってるの」
と言った。
 「奈美ちゃんが?」
 もちろんよ、と奈美は笑った。他に誰が通うのよ。奈美はふふふと笑った。笑うと左頬にできるえくぼが懐かしい。
 「奈美ちゃんが絵に興味あったなんて、初めてきいた。描く方なんでしょ?」
 「観るのも好きだよ。そうだなあ…佐和ちゃんとは、観にいったこと、なかったっけ。いつから会ってなかったんだっけ。もう、ずいぶんになるよね」
 「そうだね…もしかしたら、中学以来かも」
 奈美との記憶の糸を、一年一年戻していったら、中学三年生の私たちに辿りついた。一緒に行った、初めての東京ディズニーランド。夜更けまでいろんな話をしながら、奈美の部屋で聴いた、チェッカーズと松田聖子。あふれるような、カセットテープの山。
 「えっそんなに会ってなかったっけ?中学生じゃあ、まだまだ、絵よりもチェッカーズだったわ」
 奈美はおどけたように笑ってみせた。
 「佐和ちゃん、子どもの頃と全然変わらないんだもの。十年も会ってなかったなんて」
 信じられない?と問うと、そうだよ、それから、佐和ちゃんが先生っていうのもね、と奈美は付け足した。
 「佐和ちゃん、おとなしいから。先生目指すなんて、夢にも思わなかった。手紙もらって、びっくりしたよ。そうだ、佐緒里ちゃんは、どうしてるの?」
 「ああ…短大生だよ。被服科の二年。もう就職も決まってる」
 「そうか、信之と一緒だったよね。五つ下だもんね。あの佐緒里ちゃんが短大生か。会ってみたいよ」
 「信ちゃん、結婚したんだっけ。お母さんから、聞いたわ」
 「びっくりするよね。若いのにさあ。お嫁さん、高校卒業したてだったんだよ。もう一年になるかな。二人とも元気で仕事してるよ」
 「奈美ちゃんも信ちゃんも、それぞれなんだね」
 「ほんとにね」
 奈美はスプーンに手を伸ばし、いただきまあす、と言ってカレーを食べ始めた。
 佐和子は少し照れくさい、どこか眩しいような思いで奈美を見つめた。何年振りに会っても、やっぱり奈美ちゃんは奈美ちゃんだ、と思った。純粋に相手を受け容れる目は、あの頃とちっとも変わっていない。そして奈美もまた、佐和子の昔と変わらない穏やかさに、どこかホッとしていた。
 クーラーのよくきいた店内で、一度ひいた汗をまたかきながら、二人はおなかいっぱいカレーを食べた。キャンプで一緒に食べたカレーを思い出す、と佐和子は笑い、それを聞いた奈美が、何かを思い出したように笑いころげた。おばさんたちに秘密で、料理ごっこしたよね。お湯を沸かしてさ、そこにマヨネーズやケチャップやソースを入れて、ごちゃ混ぜにしてさ。
 「そうだったそうだったー」
 佐和子も一緒になって笑いだした。お腹を抱えて笑いころげる二人を、ホール係の店員が不思議そうに見ている。人目も気にせず、二人はさんざん笑って涙をこぼした。
 「こんなに笑ったの、久しぶりだわ」
 「私も」
 何がおかしい、という訳でなく、ただ、共有する夏の記憶が二人を昂揚させたのだ。佐和子も奈美も、それがただ、嬉しかった。


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