押し入れの仙人



 押し入れに仙人がいる。
 そう鈴子が気付いたのは、初雪が降った日の朝だった。
 「おはよう」
 布団を入れるのに不精して、頭を突っ込んだ鈴子は、驚いた。
 小さな老人が、座布団の上にきっちり正座して、こっちを見ている。白い着物、白い髪、長い髭。ははあこれが押し入れの仙人だと、鈴子はすぐに了解した。十歳になった日に、祖母から押し入れの仙人の話をきいていたからだ。
子供部屋の押し入れには、仙人がいる。けれどその人の姿は、うちの家系の女の子で、しかも十歳になる子だけにしか見えない。それも雪の降る冬の間だけ。そんな話を、祖母の菊乃は神妙な顔つきで淡々と語った。鈴子も今年の冬は、よく注意して押し入れを覗いていてごらん。きっと仙人が話しかけてくるよ。小さいおじいさんでねえ。彼女は遠い目をした。
  「鈴子は先だって、十歳になったね」
 仙人は、抑揚のない声で静かに尋ねた。鈴子がはい、と答えると、満足そうに頷いて、彼女の目を見据えた。
 「十歳の時の菊乃とよく似ている。菊乃の子供は男ばかりだったから、わしは五十回の冬を、ただ黙って押し入れからながめていたのだ。五十年ぶりに、この家の者と口をきいた。やれやれ、やっと外に出られる」
 仙人は、のそのそと押し入れから這い出してきた。何と言ったものか迷いながら、鈴子は仙人に促されるまま、彼を肩の上に乗せた。
 「鈴子。しばらく厄介になる」
 こうして、鈴子と押し入れの仙人は友だちになった。

 その冬、押し入れの仙人は、いつも鈴子の肩の上にいた。そこから、さも愉快そうに鈴子の世界を眺めていた。時折、耳元で独り言を言ったりもしたが、大抵は足をぶらぶらさせながら、鈴子の周りの様子をじっと見つめていた。目をまんまるにして。
 鈴子にとって、それは特に不快なことではなかった。それどころか、押し入れから「おはよう」の挨拶を聞いて始まる朝に、奇妙な安心感さえ覚えるようになっていた。学校で苦手な算数のテストがある時も、五段の跳び箱を跳ばなければならない時も、なんとなく勇気が二人分になるのだ。別段仙人が何をする訳でもないのだが、鈴子は、これが仙術なのかもしれない、とぼんやり思っていた。
 ところがある日、仙人が鈴子の肩からひらりと飛び降りて、言ったのだ。
 「鈴子。仙術を使う時が来た。お前もわしを手伝って、雪虫と戦うのだ」
 「雪虫?」
 「空を見てごらん。重く湿っているだろう。これからこの冬一番の大雪に乗って、雪虫たちがやってくる。雪虫は大群になると、いろんなものを傷つける。ひどい時は壊してしまうのだ。もうすぐはじけるネコヤナギの芽や、鈴子の鉢のチューリップの小さな芽や、他にもいろいろある。だから、大群にならないように、彼らを溶かしたり、散らしたりしなけりゃならんのだ。鈴子も、わしと一緒に戦えるな?」
 あ、まただ、と鈴子は思った。勇気が二人分。うん、と大きく頷いた鈴子に、仙人はにっこりした。
 「よろしい。やはり菊乃の孫だ。五十年前、菊乃も快く請け負ってくれ た」
 仙人は、自分の身の丈程の長さの杖を、鈴子の前に差し出した。
 「これを持ってごらん」
 鈴子がしゃがんで手にした途端、杖はぐんぐん伸びて、鈴子の背丈と同じ位になった。ずっしりと重い。よろよろしながら、あっけにとられている鈴子に、仙人は仙術の使い方を話し始めた。
 「その杖を風の吹く方向に傾けて、杖の先で円を描くのだ。重いだろう。容易ではないぞ。そうすると、雪虫の大群が何処にいるのか、円の中に見える。そいつに向かって、杖の頭を大きく振り下ろすのだ。いいか。杖の先と、頭。間違えんようにするのだぞ」
 「仙人はどうするの」
 「わしは鈴子の肩で、杖に念をこめる。つまり、わしと鈴子の共同作業という訳だ。わしの身の丈で振り回すより、確実で効率的なのだ。但し、大切なことだが」
 仙人は低い声でゆっくりと言った。
 「戦いの間は、わしも鈴子も口をきいてはいかんのだ。きいたら最後、あっと言う間に雪虫に居場所を悟られてしまうからの。―――さあ、風が強くなってきた。鈴子、わしを肩に乗せてくれ。気持ちの準備はできたか」
 少し西寄りの北風が、鈴子の耳を真っ赤にしている。ひゅう、とひとつの風に乗って、雪のかけらが舞った。ひとひら、ふたひら。どんどん増える。仙人が鈴子の頬をつついた。合図だ。口を真一文字に結んだ鈴子は、杖を北に向け、それから少し西に傾ける。そして重い杖を逆さまにし、その先でぐるりと大きな円を描いた。
 その瞬間、鈴子は思わず声を上げそうになった。杖の先が、空を、空気を、薄い膜のように切り取っていくのだ。そして、切り取られた円の向こうに、確かに雪虫の大群が見えた。白いふわふわとした塊。間違いない。杖をもう一度逆さまにして、頭を振り下ろす。ひゅん。吸い込まれるような音がして、ふわふわの白い塊が散る。円が消える。後には、当たり前の雪のかけらが北風に舞っているだけである。
 仙人が鈴子の頬をつついた。鈴子は再び杖を持ち上げ、傾ける。逆さまにして、空と空気を丸く切り取る。たくさんの雪虫たち。白くぽこぽこと膨らんでいる。無数の塊。杖の頭を振り下ろす。散る。ただの雪景色。
 幾度繰り返しただろう。鈴子は耳だけでなく頬まで真っ赤にし、それでも声は出さずに、白い息を吐き続けた。腕が鉛のように重くなり、杖なのか自分の腕なのか分からなくなる頃、ようやく雪は小降りになった。
 「鈴子。よく頑張った。もう大丈夫だ」
 仙人が鈴子の頬をぽんぽんとたたいた。そして、杖に手を触れた。するすると杖は縮み、仙人の身の丈程の長さに戻った。
 鈴子はふうと息をつき、仙人と向き合った。
 「ネコヤナギも、チューリップも助かった?」
 「助かったとも」
 二人は互いの顔を見つめ、にんまりした。

 その晩、鈴子は夢を見た。
 仙人が、まだ雪をかぶっている鈴子のチューリップの鉢と、庭の隅っこの土を、あの杖でとん、とん、とたたいているのだ。何しているの、ときくと、鈴子はよく頑張ったからの。ごほうびだ。と笑っていた。ふうん、と鈴子も笑った。
 次の日から、押し入れの仙人はいなくなった。「おはよう」が聞こえなくなった。鈴子は押し入れの隅々まで、頭を突っ込んで探したけれど、もう何処にもいなかった。
 「仙人、いなくなっちゃったよ」
 寂しくて胸がすうすうするので、鈴子は祖母のところへ行って、そう告げた。
 「おや。鈴子はやっぱり、仙人に会ったんだね。雪虫退治は、もう済んだの」
 こくんと頷いた鈴子の目が潤んでいた。菊乃は笑って、
 「鈴ちゃん、表に出ておいで。庭の隅っこに何か出てないかねえ」
 と言った。鈴子は、夕べの仙人の夢を思い出して、庭に出た。
 鈴子のチューリップの芽が、ひとまわり大きくなっている。あ、と思って鈴子は庭の隅っこに駆け寄った。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。夕べ仙人がたたいた数だけ、雪の中からふきのとうがのぞいていた。仙人のごほうびは、これだったのか。
 押し入れの仙人が何者であったのか、鈴子はこの時初めて知ったのである。


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