赤い傘


 朝子は、傘をさすのが下手だ。
 雨の日は、左の肩先から、右肩にかけているバッグまでびしょぬれになる。
それは、どしゃぶりだって、こぬか雨だって、変わらない。ほんとうにいやになる。
 それから、だれかに傘をさしかけるのも下手くそだ。朝子より背の低い人の方が少ないから、
いつだって思いっきり手を高くのばして。傘を高くかかげなきゃ、と必死になる。
相手の肩がぬれているのを見ると、なおさらつらくなって必死になる。
そして、結局最後には相手がみかねて、
 「持ってあげるから。」
 と傘持ちを代わってくれる。朝子はそのたびに、急に高くなった自分の屋根にとまどい、
 「ごめん。」
 と小さな声で言っておろおろする。―――これは、いったい、私の傘なのかしら?
 今日は秋のしとしと雨。いつまで待ってもやみそうにない。
朝子は観念して、いつもの赤い傘をぱちっと開いた。お花みたい。朝子はいつもそう思う。
この瞬間と、閉じた後、傘からしずくがこぼれていくのをみるのが好き。
だから、さすのが下手なくせに、降りそうな日は朝から嬉々として、
わざわざおりたたみじゃないこの傘を選ぶ。

 「ねえねえ。」
 え?
 「いっしょに傘に入れて。」
 だれ?
 バス停からきゅっと曲がったところで、小さな声が聞こえる。
さっき朝子と一緒に、バスを降りた二、三人の人たちは、バス通りに沿ってまっすぐ行ってしまった。
朝子のほかには、だあれもいない。
 「ねえ。朝子ちゃん。」
 アサコチャン。名前を呼ばれて、朝子はどきっとした。どうしよう。
一、二の三、でダッシュ。これだ。へんなものに会ってしまったら、これにかぎる。
朝子は、深呼吸した。せえの。いち、にの…
 「ヒヨドリさまが、目に入らぬか。」
 さん。へんな声といっしょに、朝子の左肩に尾っぽの長い鳥がぽんととまった。
あまりにタイミングがよかったのと、わざと声色を変えたその言い回しに、
朝子はびっくりするより大笑いしてしまった。
 「はっはっは。なにそれ。」
 「ごらんのとおりヒヨドリです。」
 ヒヨドリは、まじめな顔をして言った。
 「前から、雨の日の赤い傘に入れてもらいたくて。今日は、勇気を出して参った次第です。」
 「赤い傘くらい、どこにでもあるのに。どうして、私のをご指名なの。」
 「赤いお花みたいだからね。」
 ヒヨドリは、やっぱり大まじめで言った。
 「あなたも、そう思う。」
 朝子の顔がぱあっと明るくなったので、ヒヨドリもうれしそうに顔を崩した。
 「朝子ちゃんが、そう思ってるのが、分かったよ。いつもね。
 だから、この赤い傘に、一度でいいから、入れてほしかったんだ。」
 朝子と、ヒヨドリは、しばらく顔を見合わせたまま、にやにや笑っていた。
二人とも、ほんとにうれしかったのだ。
 それから、朝子は、ご自慢の赤い傘をうやうやしくかかげて、
ヒヨドリを肩に乗っけたまま、ゆっくりと歩きだした。
ヒヨドリと朝子の背はいっしょくらい。いつもだれかにするみたいに、
傘をうんと高く持ち上げなくたって、二人はすっぽり傘に入る。
 「よかったねえ。」
 朝子も、ヒヨドリも、鼻歌まじりだ。いつだったか、朝子には好きなドラマがあって、
いまでもその主題歌を覚えていてよく歌う。もちろん、鼻歌だけれど。
ヒヨドリも、知ってるみたいで、いっしょに歌う。もちろん、鼻歌。
 ずんずん、二人は歩く。傘から、ぽたぽたしずくが落ちる。
 「朝子ちゃん、傘さすの上手だねえ」
 このヒヨドリの言葉が、お世辞だったのか、本当だったのか、分からない。
確かめようとした途端、肩がふっと軽くなったからだ。肩だけじゃない。
傘まで、一緒に軽くなった。雨の音も、消えた。
 「ヒヨドリちゃん?」
 何かがさらさらと傘に当たる音がする。白いものが、傘からすべりおりていく。
 雪だ。
 どうして。
 朝子は、足がぐらぐらした。えっと。今日は。十月、二十日。
ニュースで、秋雨前線、停滞、って。言ってたよな。
 「あーさこ、ちゃん。」
 へ。今度は、だれだ。
 「私はハグレチャッタムクドリ。」
 一羽のムクドリが、右肩にちょこんと乗っかった。でも、もう朝子も驚かない。
 「長い、名前ね。」
 「正しくは、はぐれちゃったムクドリ。冬には群れで移動するんだけれどね。
 はぐれちゃったの。傘に、入れてくれる?」
 「それはお気の毒さま。どうぞ。」
 朝子は、少し傾いていた傘をいそいでまっすぐに直しながら言った。
 「ところで、今は、いつなの。」
 「へんな質問だね。私がいるんだもん。もちろん冬ですよ。」
 ムクドリは、ちょっと自信ありげに答えた。
 「冬、ですか。」
 朝子は、それはそれで当たり前のような気がしてきた。
自分たちが、時計という精密機械を信じきっていることの方が、不思議なことのように思えた。
こよみは、こよみで、もしかしたら私たちの想像もできない摂理の上で廻っているのかもしれない。
 「雪、きれいね。」
 朝子は、ムクドリに話しかけた。
 「私ね。傘をさすのがとても下手なんだけど、雪だとね。
 ひとりでに、すべっていくから、ぬれなくて。下手だということを忘れてしまう。冬の間にね。」
 それで梅雨にまたいやんなるわけだ、と朝子は笑った。
ムクドリはキュルキュルのどを鳴らしてじっと聞いていたが、
 「朝子ちゃんの傘は、赤いお花みたいで、とってもすてきな傘だよ。」
 と言った。
 「あなたも、そう思う。」
 朝子はうれしくて、さっきの何倍も明るい笑顔になって言った。
 「さっき、ヒヨドリちゃんにも、ほめられたんだ。」
 「うん。知ってるよ。私もほんとにそう思うもの。だけどね。
 雪だと、時々はささない日があっても、いいかもしれないよ。」
 朝子は、不思議に思った。
 どうして?
 その途端、傘は、もっと軽くなった。相変わらず白いものはすべりおりているけれど。
傘が、軽い。雨よりも、雪よりも。
 日差しが、あたたかい。はらはらと、傘をすべるものが何であるかを、朝子は了解した。
 「赤いお花みたいな、すてきな傘だけど、桜の花びらに、さす必要は、ないんだよ。」
 振り返ると、朝子の恋人が笑っていた。
 「朝子は、いつもその赤い傘を大切に思っている。さすのが下手だけど、大切に思っている。
 だから、傘は赤いお花みたいにすてきに見えたし、ヒヨドリやムクドリもほめてくれた。」
 「今は、いつ。春でしょう。」
 「そう、春。桜の花は、眠らない花なんだ。眠らないで、じっと世界をみつめている。
 だから、こんなに早く散っていく。そんなふうに、一生懸命春を生きる花たちに、傘は要らない。」
 すてきな傘なんだけどさ、とつけたして彼は小さく笑った。
 「ふうん。そうなのかな。」
 朝子もくすっと笑った。
 「それにさ」
 朝子は、本当は傘をさすのがとても上手だよ、と彼が言ったような気がした。
 ヒヨドリちゃんと、おんなじこと言うのね。

 「ああ、待たせてごめん。でがけに電話がかかってきて。」
 小雨の降る中、走ってきた朝子の恋人が、すまなそうな顔をして、朝子の顔をのぞきこむ。
 「また、ぼんやりしてるな。おおい。」
 「うん。雨、降ってるね。」
 「降ってるよ。ずっと。」
 しかし、彼の傘がない。あわてて飛び出してきたので、傘は持ってこなかった、と言う。
 「ならば。ともにこの赤き傘をさしてゆかん。この道の、果つるまで。」
 朝子は、右手の赤い傘を、ぱちっと開く。おりから、秋のしとしと雨。
 「ねえ、今日、いつだっけ。」
 「何を申すか。余は何のために出向いてきたのか。
 今日は、十月、二十日。朝子の誕生日でしょう。」
 「うん。そうだった。」
 朝子は小さく答えて、ヒヨドリさまの、いたずらだあ。と忍び笑いをした。
 恋人は、不思議そうな顔をしたが、すぐふふん。と笑って、
朝子の肩の小さなあしあとに目をやった。
 ヒヨドリサマノ、イタズラダ。
 赤い傘は、どんどん小さくなっていく。
 秋の雨は、まだまだやみそうにない。





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