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随想ノート 8



結膜炎のゆううつ (2004/7/9)

 流行性の結膜炎を、家族全員で患っている。
 性質の悪いもので、治りが悪く、完治に数週間を要するという。
 途中で治療をやめると、視力にも影響が出るらしい。
 それを各々が時間差でやっているものだから、たまらない。
 全員が腫れた目をして、なんともゆううつな毎日だ。

 先月末、子どもたちがそれぞれ違う夏かぜをひいたあと、長男は結膜炎、次男はとびひというおまけがついた。
 とびひのほうは、抗生剤を服用・塗布したことで、時間はかかったけれど、ようよう痕を残すのみとなった。
 ところが結膜炎のほうは、どこかで拾った別ものだったようで、いわゆる「はやり目」と呼ばれる、症状も感染力も非常に強い病気であった。特効薬はなく、対症療法で、炎症を抑えるしかないらしい。もらった薬を点眼しても、なかなか長男の目の腫れは引かなかった。
 そのうち、私の目に、アレルギーを起こした時のような不快感が現れた。こすったあとのような重み。あれれと思ううちに、目頭の内側が腫れ、全体が充血しはじめた。
 オットの背中に向かって、そんな症状を訴えたら、「俺もー」と、腫れたまぶたを指差し振り向いた。まるでのっぺらぼうの怪談のようである。
 翌日、私はまだ症状の出ていない次男を連れて、一昨日行ったばかりの眼科を受診した。
 「うつりましたー・・・」と言ったとたん、窓口の看護師さんに「あまりさわらないでくださいねー他の患者さんにうつりますから・・・」と返される。とても悲しい。
 ふたりで待合のすみっこで、持参した本を読む。
 もらった点眼薬を家に帰ってさしてみた。少しはすっきりする感じ。でもやはり、腫れぼったさは消えない。
 嫌がる次男にも、無理矢理点眼した。彼も軽い結膜炎と診断されたのだった。
 わたしは手を洗いまくり、タオルを分け、ひたすら洗濯をした。

 口内炎もできているし、抵抗力が落ちているのかも・・・と、早々に床に就いた夜。
 次男の大泣きで起こされた。時計を見たら、深夜2時である。
 悪い夢でも見たのか、半分寝ながら、尋常ではない泣き方をする。
 「めが〜。めぐすり、しない!いや〜うわあああ〜〜〜!!!」
 昼間の点眼薬がよほど気に入らなかったのか、それとも、目やにで目が開かなくて怖がっているのか…なだめてもお茶を飲ませても、とにかく号泣しつづける。
 その泣き声に目を覚ました長男坊、「冷たいアイス食べてみる?」など機嫌を取っているのを聞きつけ、自分もアイスを食べるとすすり泣く。
 深夜3時、目を真っ赤に腫らして憔悴しながら、力ない笑いがこみあげそうな私とオットであった。
 結膜炎騒動、まさに渦中。
 ゆううつの種は、まだしばらく続きそうである。



時を越えて (2004/6/10)

 買い物から帰ってポストをのぞいたら、中に一枚のはがきがぽつんと落ちていた。
 私宛の官製はがき。そのそっけなさと差出人の名前を見て、何かあったかな、と思った。事務的連絡かと思ったのだ。そのくらい、ひさしぶりのひとからだった。
 手にとって、裏返したら、無地のはがきいちめん、ぎっしりと文字がつまっている。
 「突然のおてがみ、何事かとおどろいた?」・・・はい、そのとおり。何があったかと思いました。
 「古い手紙を処分しようと見ていたところ…」私の書いた昔の手紙が、たくさん出てきたのだという。それがやっぱり、捨てられない。最近はメールばかりで、手紙を書かなくなったなあと思い、ひさしぶりに書いてみたのだという。
 旧姓の私に呼びかけてくれるそのひとからの手紙は、ふつふつと私の胸を打った。
 1年前、私を見かけたという情報も含まれていて驚く。1年経ってそれを聞くことの不思議さよ・・・。声をかけてくれたらよかったのにー。
 深い感慨のうちに、細かな文字でいっぱいに書かれた手紙を読み終えた。
 そこには、あの日の彼女、あの日の私、そして現在の彼女がいた。
 15年の時を越えて、私宛の、この一枚のはがきを書かせた、過去の手紙の中の私。
 あの頃、何の計算もなくただ書き送った手紙が、今、こうして彼女と私を結んだのだ。
 今では私自身も、めっきり手紙を書く機会が減っている。
 時折、そんな自分を反省して、写真はがきを作ってみたり、気に入ったレターセットを買ってみたりして、誰かに文字を届けようと心がけてはいるが。
 文字で伝えたものは、そのぬくもりごと、残るのだ。
 彼女に大量に書き送った手紙に、何を書いたのかは一切忘れたが、その時の思いはたぶん、今も文字の中に生きている。
 それをひもとき、何かしら感じて、手紙を書き送ってくれた彼女に感謝しつつ。
 さて、これから、返事を書くことにしよう。



懺悔と後悔 (2004/5/9)

 懺悔ばかりの人生だ。

 今まで、周囲にあったひとたちは、本当に心あるひとばかりだった。
 屈曲したわたしの思いで、傷つけることばかり。

 それでもやはり、後悔ばかりを繰り返していくのだ。
 どこまでも、ごめんなさいを繰り返していく。
 そして、傷つけた事実は、消えない。
 そんな人生。

 突然そんなことを思い、とてつもなく悲しい気持ちになった。
 わたしにも、どうにもできないちからの流れがある。
 しばらく忘れていた、自分の存在すべてを消してしまいたい気持ちが押し寄せる。



雨の日の楽しみ (2004/4/14)

 雨の日の楽しみ。
 外に出なくていいこと。外に出る用事も、なかったことにできること。
 洗濯物を外に干さなくていいこと。布団を干さなくていいこと。
 掃除も簡単に。だけど、片付けには没頭できること。
 雨に濡れずに、窓から雨をながめること。
 用事が減るぶん、余裕でパン焼きができること。
 誰かに手紙を書いたり、おいしいお茶をゆっくりいれたり。
 誰にも会わずに、自分の好きな時間を過ごせること。
 この、「こもり感」が好き。

 だから、雨になる前の日は、いつにもましてあたふたと、必死で用事を片付ける。
まるで、もう二度と晴れる日がこないかのように、必要のない洗濯までしてしまったり。
 雨の日を、万全の体制で迎えるために。



十年前の今日 (2004/3/23)

 十年前の今日、長い長い学生生活を、いったん終えた。
 雨だった。
 修了式の合間にも、その後の謝恩会の出し物のことを打ち合わせていた。
 少ないゼミ仲間の結束は固かった。
 みんな知らなかったうたを、譜面とわたしのリコーダーだけで、即興でうたった。
 謝恩会の後、天王寺のごちそうビルで、謝恩会に出なかった留学生の友人と合流し、先生とみんなとでお茶を飲んだ。記念写真も撮った。
 昂揚したこころを抱えて帰宅した夜、玄関の戸を開けたら、そこにどんと大きなダンボールが置かれていた。
 それを見たとたん、昂揚したこころが、一気に音を立てて崩れた。
 こうやって半年、いや一年近く、立て直そうと戦ってきたというのに、こんなことで、それが一気に崩されてしまうのが悔しく、せつなかった。痛かった。
 その夜、疲れた体をおして、そのダンボールの中身を全部片付けた。
 もとあった場所へ、あるべき場所へと、黙々と押しこんでいった。
 ダンボールも、送り主の名も、見たくもなかった。
 ラベルをはがしたダンボールは、その夜のうちにつぶした。

 天気から、その日の空気から、行動からできごとから服装から気持ちの動きまで、はっきりとよみがえらせることができる。
 そんな十年前の今日。
 あの日から、今日まで。
 連なるひとすじの道は、あの日からは見えなかった。
 連ねて歩いた道のりを振り返る今日、ここからは確かにあの日までが見える。
 そしてあの日の登場人物たちは今も皆、変わらずわたしの道行きを支えてくれているのだ。



「好きな感じ」 (2004/3/16)

 近頃のこの町で、すっかりおなじみになった移動メロンパンやさん。
 曜日と場所違いで、いくつかのお店がある。
 火曜日、定休のパスタやさん前に来るのは、関西本部のお店らしい。ちょっとごつい感じのおじさんがパンを並べ、自然発酵で焼いている。表面のクッキーがばりばりっと割れそうに固く、厚く、バターがぷんぷん香るメロンパンだ。
 「おいしいよ〜。クッキーぱりぱりが好きな人は、いいと思う」
 そんな話をきいて、クッキーぱりぱりに憧れるわたしは、早速買いにいったのだけれど、実際食べてみると、ちょっとクッキーがごつすぎる。豪快すぎる。ぱりぱりというより、ばりばりという食感。バターの香りもくどくて気になる。
 おいしいのだけど…これなら、自分で焼いたメロンパンのほうが好き。
 なんて思っていた。(あつかましい話だ!)
 金曜日、最寄り薬局の駐車場にやってくるのは、愛想の良い兄さんとおばさんがふたりでやっているお店。以前から見かけていたのを、先週、やっと買うタイミングに恵まれた。
 ここのメロンパンは、きれいな卵色で、見た感じ、あったかみのあるパン。うっすら茶色っぽく、しっかり焼かれていた、先のメロンパンとは少し違う。「あ、これ好み」と、見た瞬間に思った。
 うちに帰って、子どもたちと早速ほおばる。「中はふわふわ、外側はぱりっ」の売りコトバどおりのパン。クッキーはぱりぱりしているのだけれど、厚すぎない。中のパンも、かみごたえがあるタイプではなくて、ふんわりした歯ごたえ。
 メロンパンをかじりながら、「好きな感じ」ということを考えた。
 自分の「好きな感じ」のひとは、作るものもまた、自分の「好きな感じ」に当てはまる。
 このふたつのお店の店員?さんをくらべると、明らかに、後者のお店のほうがわたしの好みだった。売られているメロンパンも、予想に違わず、わたし好みのものだった。
 そう思うと、いろんなことがそんなふうに見えてきた。
 先日、お隣のお嬢さんが焼いたお菓子をいただいたのだが、これがまた、細やかに行き届いた「作品」なのである。とてもていねいに作られていることが良く分かる。そして、そこにセンスも感じられる。わたしの作るものなど、粗雑で恥ずかしいくらいである。
 お嬢さん自身、とても清楚で、きちんとしていて、何より、雰囲気が美しい。わたしの「好きな感じ」のひとだ。
 「ひと」と「なり」は、そのひとの作ったものに、ちゃんと現れる。
 「好きな感じ」のひとが作ったものは、やっぱり、わたしの「好きな感じ」のものなのだ。

 メロンパンごときでこんなことを延々と考えるわたしは、相当きているのかもしれない。
 そうそう。逆に言えば、わたしの作ったものはわたしを表すのか。
 ・・・・・。



不器用 (2004/3/14)

 他人の不器用を目の当たりにした時、もどかしくも、とても愛しく思う。
 なのに、自分の不器用は、なぜに許せないんだろう。
 思うようにならない、心の枷を背負って。
 そしてそれも、わたしの不器用のひとつなのだと、自虐的な思いが胸を突く。



母のお弁当 (2004/3/13)

 子どもが園外保育で動物園に行くと言う。
 ここの幼稚園はオール給食、お弁当には縁がない毎日だ。
 そんな中、珍しく「もちもの」の中に、「弁当(おにぎり2個、大きさを調整してください)」とある。おにぎり2個、そのほかは水筒のお茶と、敷物と、おしぼり。そして「おかず、おやつ、果物などは持たせないでください」と注意書き。
 この決まりは全園児共通のようで、おにぎり2個で、いくら年少といっても足りるのか?と疑問が沸く。(いわんや、年長をや、である。)
 大きさといっても、そんな巨大なものを持たせるわけにはいかないし。
 当日。たかがおにぎり2個、されどおにぎり2個。しばらくお弁当作りから遠のいていた私は多少の緊張を抱きつつ、子どもが食べやすいようにと、ぎゅっぎゅっとしっかりおむすびを握る。握りながら、子どもはこれをひとりで食べる時、何を思って食べるだろうな、作った母のことを思い出しはしないのかしらん、などと、いろいろ想像してみる。
 そして突然。子どもの目になってしまったのである。

 遠足、運動会。母が働いていたため、小学校高学年になるなり早々に、お弁当は自分で作るようになった私が、唯一、お弁当作りから逃れられるのは、こういった行事の時だった。(ちなみに、まだ給食が普及していなかった地域で育ったため、給食は未経験である)
 母の作る行事お弁当には、殻つきのエビの煮物が必ず入っていた。それがいちばん、特別な感じのするおかずだった。お弁当箱のふたを開ける時の、「何が入っているだろう」という期待感。(自分以外の誰かが作ってくれるお弁当は、なんてわくわくするのだろう!)開けた時にぷんと香る、おしょうゆとエビのにおい。そして、お弁当と別に添えられたりんごやみかんなどの果物。それが私の、母のお弁当の記憶のすべてである。
 自分以外の人が作った、というだけで充分スペシャル弁当なのだけれど、あのお弁当を食べる時、いつも無意識に、エビを煮たり、おかずをつめたりしていた母の背中を思っていた。そうして食べるお弁当からは、母のにおいがしていた。本当に。
 母のお弁当は、義務教育を終えてから、食べたことがない。
 高校以降、お弁当作りは、すっかり妹との交代制になってしまったから。
 もう幻となったそれを、子どもの頃の、無意識の目とともに引き寄せたことに驚く。

 子どものおにぎり2個をお弁当箱につめながら、母もまた、何を思って私たち姉妹のお弁当を作っていたのだろう、と思いを馳せる。
 そしてあらためて――わが子の中に、小さくでいいから、「母のお弁当」を刻んでやりたい、と思った。わずかなそれでも、こうして数十年を経て、心の糧になるのなら。
 おにぎり2個。握る手に、力がこもった。





                          *

 3姉妹の上ふたりには相当に手厳しかった母。私たちには作ってくれなかったお弁当を、今は年の離れた末娘(社会人)に、毎日持たせている(!)。



夕餉の匂い (2004/2/12)

 いつもいつも、子どもの頃の夕暮れを、懐かしく思うのは、夕餉の匂い。
 それは、おしょうゆで何かを煮こむ匂い。
 あのどこまでも郷愁に満ちた香りは、わたしにとって、夕餉の匂いのすべて。
 どこかのおうちの窓から、あの匂いが流れてきたら、いてもたってもいられない。
 夕暮れた空を見上げ、早くおうちに帰ろ、と思うのです。

 最近、気付いたこと。我が家の洗面室の窓を開けると、お隣のおうちのお料理の匂いが流れてくる。休日の朝のホットケーキだったり、晩ごはんの焼き魚だったり、炒め物だったり。
 そして、思う。我が家の強力な換気扇から、外に向かって流れ出る夕餉の匂いは、どんなだろうと。
 気付けば、特別料理が上手でもないくせに、和風の煮物が多い、わたし。
 ああ、わたしもあの、おしょうゆの煮える香りを流しているのだろうか、と、それならどんなに幸せだろう、と、そうであってほしい、と。
 誰かをわたしのような気持ちにさせたくなるのです。
 こころだけ外へ出て、わたしの流す夕餉の匂いをかぐ、わたし。
 早く、おうちに、帰ろ。



パンを焼く! (2004/2/2)

 「パンを焼く!」。私の「お気に入り」にあるフォルダ名のひとつである。

 小児科で見た雑誌のパン特集がきっかけで、20年ぶりにパンを焼き、やがてホームベーカリーを購入し、パン作りの楽しさに目覚めて、早2年半。その過程は、折々、この雑記でも語ってきた。雑誌で見た、簡単なパン作りから入って、ホームベーカリーのすばらしさを実感し、さまざまなサイトのパン作りを読み歩き、より専門性の高いパン作りを学びたくて、ついにパン教室の戸をたたいた。パン教室に通って初めて知る、さまざまな知識と技術。ちょっとしたことで、パンの出来が、表情が、大きく変わってくる。毎回、新鮮な感動に目をくるくるさせる。そして、自分が作ったパンを、心待ちにしている家族の顔を思い浮べては、にんまりしている私なのである。
 そうやって作るパン、ひとつひとつが、その日その日でまた、表情が違う。ある日は上出来、ある日は固かったり、ある日はふくらみが今ひとつだったり。教室のように、完全に温度管理された環境でさえ、私の手作業の差によって、出来が違ってくるのである。もとより、人の手が違えば、パンの出来上がりもまったく違う。教室でずらりと並んだ同じ種類のパンに、はっきり現れる「その人らしさ」もまた、一興だ。小学校の図工の時間を、思い出したりもして。

 手軽なドライイーストのパン作りでも、焼き上がりまでにおよそ3〜4時間を要する。
 パン作りに欠かせない、「発酵」という過程があるからだ。
 小麦粉をこね、グルテンを引き出し、あの美しいグルテンの膜を作ったなら、ゆっくりと生地をまとめ、あとはしばらくイーストにパンを任せる。
 手の中でまとまったかわいい、愛しい生地は、イーストの力でふんわりと、しかし力強く、ふくらんでゆく。一次発酵を終え、すんなりとした生地は、いくつかの手作業ののち、再び発酵に入る。手作業でいったんしぼんだ生地は、今度はできあがりのかたちに向かって、ぐんぐんと大きくふくらみ、高温のオーブンの中で、「釜伸び」と呼ばれる最後の膨張に至る。子どもの頃から憧れた、本に出てくる「きつねいろのパン」は、こうして出来上がるのだ。
 焼き上がったパンを、オーブンから出す時の幸福感。また、パンを見た子どもたちの喜ぶ顔。これがあるから、パン作りはやめられない、と思う。
 「ジャムおじさんは、誰かを幸せにしたいって気持ちでパンを焼いているんだよ。だからあんなにおいしいパンが作れるんだ」
 「アンパンマン」に出てきた、このセリフが忘れられずにいる。ジャムおじさんの気持ちをなぞるように、私は今夜もパンを焼く。

 そして――また、思う。自分の手で、ちからで、触れる、関わる時間、何かに、誰かにすべてを委ね、そのちからを信じる時間、ちょうどいい頃合を見極めるタイミング、予想外の状態に、状況に、的確に対応する柔軟さ。――たった3時間のドラマは、私の、私たちの人生をもなぞる、壮大なドラマでもある、と。
 小さな小さな物語だけれど、ひとつひとつが異なる、いとおしい、物語。
 どれもが、誰かの手の中で大切にあたためられ、ちからを信じられ、最良を見極められてきた、最善の物語である、と。

 では、今夜の焼きたてパン、ブレッチェンをどうぞ。
 ふわふわっともちもちっとした、焼きたての、たまらない歯ごたえ。
 あつあつのパンを大事にちぎる。キッチンの片隅の、スタンドカフェで。



靴のかかと (2004/1/19)

 靴のかかとは、踏まない主義だ。
 それはもう、ずっと昔から。

 正月帰省した折、帰り際、最後に私が靴を履いた。
 「靴のかかとを踏むの、やめなさいよ」
 三和土に降りてみんなを見送っていた母が、少しつぶれている私の靴のかかとを見て、耳打ちするようにそう言った。
 違う、私は靴のかかとは踏まない――そう言いたかったのだが、なんとなく言いそびれて、そのまま帰途に着いた。
 あれ以来、靴を履くたびに、母のあのことばが耳元でよみがえり、その度に、私はかかとは踏まないのだ、とくりかえし心で呟く。踏まない理由はただひとつ、「気持ち悪い」。それだけである。
 それでも私のスニーカーのかかとがつぶれているのは、やむにやまれず、かかとを浮かせながら、苦し紛れに「踏む」ことが、往々にしてあるからなのだ。
 それは唯一、子どものことで、抜き差しならない状況の時である。
 子どもたちは、大人の状況なんて待ってはいられない。いつも、自分たちが行動の中心にあり、退屈な「待ち」なんてもってのほか。「はやくくつはかせて」の次は、「はやくいこう」。それが叶わなければ、ぐずぐずと言ったり、小さい方なんかは泣いて訴えたりする。こちらも気が急いて、自分の靴のかかとを片足ずつ、片手でひっぱりあげる余裕すらなかったりする。かかとを浮かせたまま走り出て、すきをみてかかとを靴に押しこむ、というのが常なのだ。
 靴のかかとなんてつぶしたことはなかった私の靴が、今もぺたぺたと踏んでいる訳ではない靴のかかとが、なぜぐんにゃりしているのか、その理由を母に説明できないままなのが、ひどく悔しい。私の靴の癖を忘れているようなのも、妙に寂しい。
ばかばかしいくらい、些細なことなのだけれど。
 「靴のかかとを踏むの、やめなさいよ」
 ええ、わざとは踏んでいませんとも。

 今朝、子どもふたりを連れて病院へ行った帰りのこと。処方箋待ちの時間を退屈して、ひとりだけ先にオットと下の薬局へ降りていった。当然、残ったひとりも「いく」と泣く。仕方がないので、慌てて子どもを抱きかかえ、靴をつっかけて、階段を駆けおりる。
 その時、「靴のかかとを踏むの、やめなさいよ」と耳元で聞こえた気がして、くううっと思った。

 私は、踏まないのだ。絶対に。



年賀状 (2004/1/14)

 今年は喪中だったので、引越し後早々に喪中葉書を作り、珍しく宛名まで印刷にして、ざざっと送ってしまった。
 (親しい人にはその後あらためて、写真いりのクリスマスカード兼転居通知を、手書きで送ったのだが。)
 毎年欠かさない、「宛名だけは」手書きをして、「ひとこと」書き添える、という作業をパスしたせいか、自分の中でも、誰かから年賀状をもらう期待感がなかった。住所録の中の大勢の人たちが、遠く感じられた。これを機に、多すぎる年賀状の付き合いを減らそう、とぼんやり目論んでいた。
 3日夕、今年初めて開けたポストには、やはり年賀状は、ほとんど入っていなかった。
 ところが新聞によると、これはこの地区の郵便局の不手際であったようだ。
 7日になって、旧・新住所宛てともにまとめられ、例年どおりでこそないが、かなりの数の年賀状が届いた。

 誰からだろうと一枚ずつ葉書をめくる。中学・高校時代の同級生の名前があった。ここ数年、やりとりしていなかった友達だ。住所と近況に驚く。ずいぶん長い間、海外で勉強していた彼女には、実家経由で年賀状を送っていたものだ。それが、日本の住所になっていた。しかも、帰省の折に偶然見かけた、ある大学に勤務しているという。
 しばらく引き出しにしまわれていた、彼女との記憶をひとつひとつ辿る。大学を卒業して、すぐ結婚して、アメリカに渡って。アメリカでの住所も転々としながら、大学院で学んでいた。そうだ、一度、帰国の折に出会ったことがあった。それももう、7年以上も前のことだ。そんな彼女の来し方を思い、私が知り得ない、彼女のここ数年の日々に思いをはせた。
 ふと思い出して、メールアドレスを記した、この年賀状を送ってくれたのだろうか。
 懐かしい友達と、距離や時間を越えてつながっていることに、胸がふうっと温かくなる。

 めくっていった葉書の最後に、宛名も本文も印刷になっている年賀状を見つけた。
 姓の異なる男女の連名になっているその葉書は、学習塾で一緒に講師をしていた、私より十あまり年上の先生たちからである。今はふたりで、マンションで小さな学習塾を営んでいる。
 当時――ふたりは、ただの講師仲間だった。私と同じ国語の担当だったN先生とは、よく話をした。既婚者で、男の子がひとり。話から、何不自由ないお嬢さんだったらしいことが伺えた。そして、何の問題もない結婚生活を送っているように見えた。Y先生は数学・物理の講師で、離婚歴ありの独身だった。中学生のお嬢さんがいるらしかった。個性が強く、女の子にすぐ声をかけるY先生が私は苦手で、N先生に話したところ、「あら、Y先生は、楽しい方よ」とあっけらかんと返され、拍子抜けしたのを覚えている。
 やがてN先生は、何でも自由にさせてくれる夫への不満を打ち明けるようになり、しばらくして、本当に離婚してしまった。旧姓に戻り、なぜか違う路線のY先生が、N先生と同じ方向に帰るようになった。
 あらら…と思っていたら、私が辞める頃、ふたりとも同じように辞め、一緒に小さな塾の経営を始めたようだった。
 その後一度だけ、同じ学習塾の事務員だった友達と一緒に、ふたりをたずねたことがある。偶然にも、彼らの住まいは、私の婚家のすぐ近くだったから。
 ふたりはまず驚いた顔をし、次に「ひさしぶり」と笑った。そして、私たちふたりがそれぞれ連れていた赤ちゃんをあやし、また会いにおいで、と言った。あれから4年。彼らは今も、同じように暮らしている。N先生の、ひとり息子とともに。
 そんな人生の流れをも、たった一枚の、印刷の年賀葉書から垣間見たのだった。

 たかが年賀状、されど。
 その一枚ずつに、近況だけでなく、そのひとと過ごした時間を探す私は、感傷的すぎるだろうか。
 そうして身も心も寄り添ってゆく。その時間に。
 長い間本を読んだ後のような、たくさんの世界を見た後のような、ある種の疲労感を覚えながら、数ばかり多い「年賀状だけの付き合い」を、切ろうに切れない自分の性質を思い知る。
 こんな性格だから。
 自嘲しつつ、自重しつつ。
 また夜更かしをして、丁重な寒中見舞いを作ってしまうのだ。

 長くなってしまいました。