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随想ノート 4



虹の向こうに(2002/8/17)



 およそ2年ぶりに京都を訪れた。
 京都は私にとって、特別な町である。それは今までの人生の、さまざまなできごとの舞台となってきたからなのだが、中でも忘れ難い、大切な思い出のひとつに、通信制大学のスクーリングがある。そこで出会った友人に、会いにでかけたのだった。実に、5年ぶりの再会であった。
 20代半ば、小学校の教諭免許取得のために、通信制大学の講座を2年間受講した。その2年目の、音楽のスクーリング(講義と実技)で彼女と出会った。
 もともと中学校の音楽教諭として迎えられるはずだった彼女は、何故か小学校の配属となり、その仕事の楽しさに、ずっと小学校を希望する決心をした。そのために、持っていなかった小学校教諭の一種免許を取得しようと、通信で勉強していたのだった。
 とにかく、衝撃的な出会いだった。何がきっかけだったのだろう?5日間にわたる、講義と実技とテスト。朝から夕方までキャンパスにこもり、講義を受け、ピアノを弾き、歌を歌った。そんな中で自然に、情報交換をする仲間ができる。そんなふうにみんな親しくなったのだけれど、殊に、彼女の純粋で、澄んだ人柄に強く強くひかれたことを覚えているばかりである。
 その夏、彼女が京都にいる間、お互い暇をみては町を散策したり、泳ぎにいったりした。その次の夏も、再びスクーリングに京都を訪れた彼女をたずね、二人でいろんな話をして歩いた。
 あれから5年。
 私は4年前に結婚し、関西を離れた。彼女は2年前に結婚し、今も変わらず地元で、小学校の先生をしている。この5年、細々と手紙のやりとりは続いていたけれど、生粋の道産子で、北海道に住む彼女に会える機会は、そうそう得られるはずがなかった。
 思いつきで書いた、一枚の暑中見舞いが流れを変えた。すぐに返ってきた、彼女からの手紙。そこには、新たな単位取得のために、再びあの大学でスクーリングを受講する旨が綴られていた。偶然にも、私の帰省日程と見事なまでに重なっていた。お互い明日出発、という日に届いたその手紙。不思議な糸に引かれて、としか言いようがない。

 「それって、すごくない?!」
 彼女の口ぐせを思い出しながら、これを書いている。
 これから5年に一度ずつ会えたとしても、死ぬまでに会う回数は、指折り数えられる。それでも、彼女が京都を訪れた時には、お互いの環境の変化をものともせず、ほぼ確実に再会を果たしている。彼女に言わせると、「すごい確率で会っている」ことになる。
 「それって、すごくない?!」
 この間会ってから、あなたは人数が4倍になってる、と感動する彼女と、京都の町を歩く。ぱらぱらと降るにわか雨が、空気を熱いアスファルトの匂いで満たして、去ってゆく。
 河原町を越え、四条大橋を渡る頃、ふと仰いだ青空にくっきりと、虹が見えた。
 私たちは手放しで喜んで、それが消えるまで空を見上げつづけた。
 あんなにはっきりと大きく、七色を見分けられるくらいに見えた虹は、初めてだったかもしれない。
 「にじのむこうに」という歌が、思わず口をついて出てきた。
  さがしに、ゆこう、ぼくらの、ゆめを。
 彼女と出会った頃。二人でたくさん、話をした時間。
  にじの、むこうに、なにが、あるんだろう。
 透きとおった夏の記憶。ただひたすら、夢に向かって生きた時代。
 あの時間を持てたこと、そして彼女と出会えたこと―――まわり道だらけの私の人生も、あながち無駄ばかりではなかったと思えたのである。



It's Paper!(2002/7/18)

 時々、子どもの雑誌を買う。うちの場合、それはなぜか、「おかあさんといっしょ」の絵本限定である。深い意味はない。毎月買っている「こどものとも」と同様、単なる我々両親の趣味である。
 先日最新号を購入し、帰宅早々、子ども(オット?)に急かされるままにいそいそとページをめくった。毎号少しずつ内容を変えて、歌のページ、番組コーナーの再現ページ、などで構成されているのだが、いつも感心するのは、立体的に組みたてて遊ぶページである。これもまた、毎号毎号、違った作りで、本当に上手く作られているのだ。
 切り取ったキャラクターのカードを挿しこみ、出したり引っ込めたりして、「いないいない、ばあ!」ができるページ。まるいルーレットの紙を切り抜き、はめこんだら、それがぐるぐまわせるページ。たまにある閉じこみ付録になると、本から離れた別のおもちゃになる。動物のアコーディオンになったり、帽子になったり。
 ヒマさえ許すなら、そういった「組みたて手仕事」系大好きな私は、しばし没頭するのが常である。説明書きを読みながら、子どもそっちのけでひたすら職人と化す。そうして、出来上がる度に、「すごいなあ…」と感嘆のため息をもらすのである。
 いったい、どんな人がこのような展開図を思いつくのだろう。そして、作るのだろう。そういう専門家がいるのだろうか?ナゾは深まる。確かなことは、その人が、ものすごく頭のいい人だということだ。毎回たった一枚の紙から、こんなに簡単で、面白くて、しかも違ったモノを作れるなんて、もしかしたら、神様かもしれない。姿の見えない人について、私がそこまで崇拝してしまうのは何故か、学生時代の私の数学の成績を知っている友人なら、納得するだろう。
 折り紙、紙飛行機もまた然り、である。作り方を教えてもらって作るのは簡単だけれど、いろいろ工夫を凝らして新しいモノを作り出す人は、やはりすごい、素晴らしい。
 紙のおもちゃ。…子どもが遊ぶと割合すぐにこわれてしまうけれど、それでも、子どもの飽きる早さとそれは、つりあっている気がする。そしてそれが「元気」な間は、充分に子どもの楽しみを満たしていると思うのである。



思い出せない(2002/6/22)

 このところ連日、病院通いをしている。
 今日はいつもの内科・小児科だった。
 表は暑いなあ…混んでいるといやだなあ…などと思いつつ、発熱した子どもを放ってはおけないし、よいしょと準備してでかけた。
 病院はことのほかすいていて、ちょっとホッとする。
 絵本の相手をしながら、検温をしながら、待合室で目だけふと泳がせた時、「あ、この人」と思った。斜め前に、妊婦さんらしき女性が座っていたのである。
 淡いみずいろの、小花模様のパフ・スリーブ・ブラウス。ふわりとしたレンガ色のエプロンドレス。華奢で清楚で、優しい表情をしたこの人は、誰だったろう?
 確かに、私はこの人を知っている気がする。しかも、私はこの人をとても好きだった気がする。でも、それが大阪でだったかここでだったかも思い出せない。
 そのうち、ダンナさんらしき男性が入ってきて、ふたりで何か話している。ますます、カップルごと知っている気がしてきて、ちらちらそちらに目がいってしまう。でもどうしても、思い出せない。
 妊婦さんがわざわざ内科にくるというのも疑問だったのだが、どうもダンナさんの方が何かの検査で訪れていたらしかった。名前を呼ばれて、検査室に入って、また待合室に戻ってきて…その間じゅう、私は、誰だったろうかと必死で思いをめぐらしていた。でもどうしても、思い出せない。
 これはもう、分からないままかも…とあきらめ、単に昔の知り合いに似ているとか、そういうことだろうと自分を納得させようとした。そのうち、ふたりはとうとう最後の会計に呼ばれた。
 それをぼんやり見ていたのだが…なんとなく受付の看護婦さん、もとい、看護師さんたちと親しげな雰囲気。親しげというより…なんだか会話が…あれ???
 そうか!とそこでひらめいた。私服だからまったく気付かなかったけれど、この人はいつもここでお世話になっていた看護師さんだったのだ。ここの看護師さんたちはみんな感じのいい人ばかりなのだけれど、その中でも特に、私の好きだった看護師さんだった。
 おそらく、出産を控えて長期の休みに入っているか、辞めてしまったか、どちらかなのだろう。それにしても、カップルごと知っている気がするというのは、完全な錯覚だったのだけれど。
 「確かに知っている気がするのに、誰だか思い出せない…」
 こういうこと、たまにありませんか?



畳のにおい(2002/6/13)

 子どもを連れてでかけた先で、気の遠くなるような昔のことを思い出した。
 きっかけは、新しい畳のにおいである。
 少し甘い、鼻をくすぐるような、なんとも言えない独特の香り。幼い頃、毎日遊んだ、敬老院のおばあちゃんの部屋と同じ香り。
 幸田のおばあちゃんは、敬老院併設の保育園で働く母の代わりに、私を毎日幼稚園まで迎えにきてくれていたひとだった。年長の1年しか幼稚園に行かなかったのだから、5才の時の記憶である。母の仕事が終わるまで、私は午後の時間のほとんどをそこで過ごした。おばあちゃんは3人部屋に入っていて、他のおばあちゃんたちにもよく可愛がってもらった。折り紙や、お手玉や、あやとりや、いろんな遊びを教えてもらったことを覚えている。
 小学校に入ってからも、おばあちゃんに手紙をよく書いた。おばあちゃんは、上手に書けないことを詫びながら、いつもできるかぎりの返事をくれた。「私には3人おばあちゃんがいる。いなかのおばあちゃん(母方)と、寝屋川のおばあちゃん(父方)と、幸田のおばあちゃん」幼い私のそのことばが、おばあちゃんには本当にうれしいものだった、と後になってきいた。
 最後に会ったのは、大学2年の時だった。病院で、小さく小さくなってしまったおばあちゃんに会って、涙が止まらなかった。その後亡くなったことを、私が問うまで、母は黙っていた。
 思うことはたくさんある。けれどひとつ強く思うのは、亡くなってしまったひとであっても、古い古い記憶であっても、こうしてふとしたきっかけでそのひとを思い出す。そのひとと過ごした情景が、走馬灯のようにくりかえし頭をめぐる。
 今はない敬老院。写真も残っていない、身寄りのなかったおばあちゃん。
 けれどおばあちゃんの部屋は私のこころの中にあり、おばあちゃんは今もそこで笑っている。
 生きるということ。誰かの記憶に生き続けるということ。
 あの日の自分に近付きつつある子どもを抱いて、せつないせつない想いがした。



ぷーぱー(2002/5/17)

 木曜日と日曜日の昼前になると、それはやってくる。
 私は「ぱーぷー」と思っていたが、子どもは「ぷーぱー」が来た、と言う。なるほど言われてみれば、その方が近いような気がする。なんとも言えない、微妙にずれたファとファのシャープなのである。
 と、ここまで書けば何がやってきたのか、ご想像がつくだろう。長いこと音を聞きながら、どこに来ているのか分からないし、間に合わないかもと思って、行ったことがなかったのだけれど、ふとしたことから、大家さんが詳しく教えてくれた。そこで初めて行ったのが、先々週の木曜日。それ以来、すっかりはまってしまったのだ。
 今日もぷーぱーがいつもの時間にやってきた。大急ぎでボウルと財布をつかみ、走っていく。そしてまた、家にかけもどる。「まま、ぷーぱーいった?おとうぷかってきた?」
 ボウルに水を張りながら、買ってきたよと答える。スーパーで売っているものよりもひとまわり大きい、真っ白なお豆腐が、ボウルいっぱいに泳いでいる。



『ガラス窓のある風景』回顧録(2002/5/11)

 サイトを立ち上げて以来、1年5ヶ月余を経て、ようやく「ガラス窓のある風景」全文を掲載することができた。これは1996年11月〜1997年5月にかけて書いた作品で、原稿用紙に換算すると、約250枚に相当する。以前雑記に書いた修士論文よりも長いというのが、我ながら苦笑ものなのだ。まだワープロを愛用していた時代で、フロッピーに小説全文が入っているのだが、もうそのワープロも壊れてしまい、全文復活させるには、コピーで残っているものを、再度入力しなおすしかなかった。それが、全文掲載にこれだけ時間がかかった理由である。
 この物語については・・・個人的に、人生激動の時代(大げさ?)に書いたものであり、また自分自身の物語も濃厚に閉じ込めたものであり、さらにディテイルの部分は自身の趣味の世界を展開させたものであり、なんともいとおしい作品である。上手い下手を問われれば黙るしかないのだけれど、読み返す度に、あの20代半ばの、生きる意味を求めてさまよった時代を、せつなく思い出す。つまりは、自分の生きた時間の記録、としての物語で、それこそ自己満足でしかないのだろうけれど、それ故に、純粋に作品として楽しんでいただければ、書いた者としてこれ以上の幸せはないと感じる。
 最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

 今ではもう、ただ淡々と毎日が繰り返され、あの頃のことは、本当に存在したのかどうかも疑わしく思えるくらいだ。「今」を通り過ぎた途端、すべては過去となり、その存在を「今」ほど実感できるものは、何ひとつ残されない。私は、そんな過去の時間に触れたいと思う時、この物語と当時の日記を読み返し、それを確認する。自分の生きた時間の軌跡を、書くということで残していくのは、すべてを跡形なく押し流していく時間への、ささやかな抵抗なのかもしれない。

 深夜、一度だけ鳴って切れる電話があった。そこから始まった物語。
 いたずら電話の主が誰であったのか、今では私だけが知っている。よもやこんな物語のきっかけになろうとは、思ってもいなかっただろう。彼の人は。



The Wind of Life(2002/5/8)



30年をともに生きました

 きりきりと毎日を過ごしていたある日の深夜、突然ピアノを弾きたくなった。
 その存在すら、長いこと忘れていた。
 貪るように楽譜を押し入れから引っ張り出し、椅子の上に山積みになっていた本をばさばさとどけて、カバーをはねのけた。実家からここへ運んだ時にサイレント機能をつけたので、真夜中でもとりあえず、弾ける。(キーはかたかたいうけれど)
 数曲弾いてみる。指が見事に動かない。が、何度か繰り返し弾くうちに、感覚が戻ってくる。小一時間も弾くと、「少し熱をもって、十本の指がそれぞれ意志を持っているような」何ともいえない感触が指先に残る。
 驚いたのは、弾き始めた時、そのやわらかな音に心がすっと解け出したことだった。
 本当にびっくりした。そして、深く癒される思いがしたのである。
 涙が出そうだった。
 何も考えず、ただ音の中にいられることが幸せだった。
 何のしがらみもなく、私はたった一人でいられた。
 うまく言葉にできない。
 ただ、自分のために。



「真筆」(2002/3/31)



 夕方届いた、重く大きな封筒の封を切った。
 その中には、8年前の私の論文が入っていた。
 恩師の退官により、大学図書館で保管できなくなったものを、廃棄か、返却か、意志を問われ、私は未練がましく返却を希望した。コピーのものが一部、このうちの書棚にも入っているというのに。
 「真筆をお返しすることになります」と、退官記念の会で先生がおっしゃった。
 真筆。
 ブルーブラックの万年筆の文字がまぶたの裏によみがえる。
 廃棄、と即座に言いきっていた後輩も、それをきいて、やっぱり、返却、と笑った。

 この会に出席するため、急遽帰阪の予定をつめた。
 前日まで迷った帰阪だった。
 往きの道を車で迷い、不必要に入りこんだ高速道路は、確かに8年前、論文提出日の早朝、徹夜でコピーを手伝ってくれた父が、私と迷った道だった。
 コピーをした親戚の事務所からの帰り道、眠さのあまり、父が道を間違えたのだ。
 延々と続くオレンジのライトを見上げながら、あの朝もこうだった、とたそがれの薄暗闇に思った。
 あの時、明けてゆく真冬の空もこんな色だった。今年の卒業はもう見送りかも、と、半分あきらめたような、すがすがしいような、不思議な気持ちだったことも思い出していた。

 そうしてどうにか出席した会で、思いがけず、あの論文の返却の是非を問われたのだった。
 高速道路のオレンジのライトが脳裏をかすめ、私は迷いなく「返却」にまるをつけた。

 真筆。
 その重さを今、封筒を開けてかみしめている。
 あの日、苦しみながらこれを書いた私は、確かにここにいる。



しゃぼんだま、とんだ(2002/3/19)

 このごろ、シャボン液を作るのに凝っている。
 今日も洗濯物を干しながら、庭に洗剤、せんたくのり、はちみつ、砂糖などなど持ち出して、空いたペットボトルに配合を変えて、作ってみた。まず、500mlのものにいっぱい、基本の液。湯冷ましを使ったのだが、まだ冷めきっていなかったせいで、ちょっとシャボン玉ののびが悪い感じがした。完全に冷めたら大丈夫かな・・・。これにははちみつを入れてみた。シャボン玉の色をきれいにするためだ。前にやったグラニュー糖の方が、きれいな気がしたのだけれど、これも湯冷ましの温度のせいかな?
 次は300mlのものに、巨大シャボン玉用、または夏場に使う配合で作ってみた。かなり濃いので、シャボン玉が消える時に、ぷしゅん、と白いふわふわが残るのが面白い。子どもも私も、頭に白いふわふわのちぢんだのをくっつけながら、競って大きいのを吹いた。直径が15cmくらいのができると、虹色の中に、干した洗濯物と庭の柘植の木がくっきり映る。それがふわふわと2階の屋根まで上がり、ぷしゅん、とまた白いふわふわを落とす。なんともいえないすがすがしさで胸がいっぱいになる。
 ようよう「しゃぼんだま」の歌をひとりで歌えるようになり、歌いながら吹いていた子どもも、最後には眠たくなって、「まま、おっちいの、できない!できない!」と怒り出したので、今日はここまで。今度またいっぱい、大きいのを吹こう。