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随想ノート 1



お気に入り(2001/6/3)

  新発売のペットボトル紅茶がある。キリンの「午後の紅茶b」。350ml入り、味は2種類、ももストレートティーとりんごミルクティー。ボトルの大きさもさながら、パッケージが可愛くて、ピンク(りんご)と水色(もも)のラベルがきれい。「b」というのは、「baby leaf」のことだそうで、茶葉の新芽を100%使っていますよということらしい。最近知ったこの紅茶が、今、ちょっとお気に入りなのである。
 パッケージのイメージどおり、そしてそこに書かれている「やわらか紅茶」の言葉どおり、味もやわらかく、すっきりしていて、とてもおいしい。香りも強すぎない。紅茶好きの私としては、こういう新商品の紅茶飲料を味わうのも大きな楽しみなのだが、これはなかなかのヒット商品だ。
 最近では、新発売の製品と出会う機会も少なく、知らない商品がどんどん並んでいるのをたまに見かけて、へええと感心するのが関の山。こういう情報は、オットの方がいち早く仕入れてきて、私に教えてくれたり、買ってきてくれたりする。この商品もそうだった。
 おいしいなー、可愛いなー、と思いながら、ふと、5〜6年前に書いたノートのことを思い出して出してきてみた。これは私の「お気に入り帳」である。
 当時はこの続きをどんどん書きこんでいこう!と思っていて、項目別に余白をとってあるのだが、実際はほとんど当時のままで止まっている。しかしこれを読みかえすと、とても懐かしく、また、今もお気に入りのものがたくさん入っていることに笑ってしまうのだ。
 たとえば「HOKUO」のメロンパン。名古屋にはHOKUOがないので余計に思うのかもしれないけれど、あの焼きたての、ぱりぱりのビスケット皮の、メロンパンを今すぐにでも食べたい!!
  それから「キリン午後の紅茶」。「エステート」という商品が当時あった(らしい)。サントリーの紅茶ピコーはあまり見かけなくなってしまったなあ。そしてキリン「シャッセ」。炭酸飲料で、果汁30%という濃さがとてもおいしかったのを覚えている。これも今はない。
 あと、あの頃新発売だったグリコ「マーブルポッキー」。これは今も定番商品になって、いろんな味が出ている。そして修士論文を書きながら、何箱も開けた「つぶつぶいちごポッキー」。「つぶつぶいちごのおまじない・・・」(CM覚えてます?)で修了できたのかも・・・。
 ステラおばさんのクッキーで、「コーンフレーク」と「バナナ」。あの頃好きだったなあ。名駅にお店があるけれど、もう何年も食べていない。その他、京都の和菓子屋・満月の「阿闇梨(あじゃり)餅」、駿河屋の「知草(しりぐさ)」などのイロモノも入っている。
 懐かしい、そしてその味がよみがえってくる。
 あゝ、「my favorite things」!それらは実は、食べ物ばかり、お菓子ばかり、なのだった・・・。
 ただいま第2子妊娠中、悲しいかな体重増加厳戒令が敷かれている毎日で、これらは夢のような食べ物だ。今は「お菓子は買わない!置かない!食べない!」の3原則にのっとり、日々精進している私なのだった。

 ちなみに、「午後の紅茶b」のボトル2種類は、捨てられないまま手元にあります、はい。



心もとなき季節(2001/4/18)

 四月。心もとない季節。
 ふと、懐かしい、たくさんの「四月」を思い出した。

 中学生・高校生だった頃、新しい制服、新しい体操服、新しい教科書や、新しい教室に、落ち着きのない気持ちで過ごした。それは、「新しい」=「知らない」何かに囲まれた、どこか不安な毎日。未知の希望や期待をも含んだものという場合もあるだろうが、慣れた環境を愛する私にとってそれは、「心もとない」という言葉が一番似合った日々なのだった。それらを自分のテリトリィに組みこんでいくまでの数ヶ月を、そんなたどたどしい思いで過ごした。
 長い学生生活を終え、講師生活に入ってからも、四月は、少しよそよそしい不安に満ちた季節だった。駅から学校までの長い道のりを歩きながら、やっていけるのかと自問自答した。学生たちの顔、顔、顔、名簿に並んだたくさんの名前。新しい季節。出欠をとって授業をする。学生の頃と変わらず、心もとなく、たどたどしく、始める授業。何年も続けていた塾も同じ。学年が変わる度に、新しいカリキュラムにどこか緊張しながら(しかしそれは、前年度と特に変わらないものなのに)、この季節をやり過ごすのだ。
 そうして秋ごろになって、出席簿を見返した時、四月の日付を見て、決まってその心もとなさを思い出す。なんとかやり過ごして、連休を迎えて一息、ほっとすることも。

 そんなふうに過ごした、たくさんの四月たち。
 今思い返してみて、それが私の四月のイメージそのものになっていることに気付く。
 そうして、そんな心もとない季節から、遠く離れた今の自分を思う。
 それと同時に、あの頃のような、「今、確かにこの状況は目の前にあり、これをこなしていくのだ」という、能動的な思い、そしてそれらを選び取るカンのようなもの、鋭敏な何かが、今では失われていることにも気付く。
 変化なく過ぎていく毎日を、淡々と過ごしている今の自分に、どこか寂しさを覚える。
 心もとない、けれど某かの緊張感を伴ったあの季節、あの頃は嫌いだった四月を、もう一度過ごしてみたい気持ちにとらわれる。



弘法さんの日(2001/4/14)

今日は弘法さんの日だった。
 これは、弘法大師の誕生日か何かなのだろうか?とにかく私の住んでいる地域では、弘法さんをおまつりしているお寺やお堂やおうちで、お供え物のお菓子のお下がりを、次々袋を持って訪れる子どもたちに配る、という習慣がある。
 2年くらい前から、お世話になっている大家さんのお姉さん(ややこしいが、大家さん本人は遠方に住んでいて、管理は不動産屋、そして掃除はこの方がやってくれている)から、よくこの「弘法さんの日」の話をきいていた。「みんなあちこちまわってねえ。うちの孫も行くんだわ。行ってみたらいいよ」――たまたま今日、3年目の正直で、掃除に来たこの方からまた勧められたので、初めて行ってみることにしたのだ。
 午前10時過ぎ、「どんなんやろう」と言いながら、すぐ近所にあるお堂に行ってみた。
 いつもは閉まっている、小さなお堂が開いていて、おばあさんたちがにこにこしながらビニール袋に駄菓子を詰めて待っている。見ていると、来る来る、自転車や徒歩で、たくさんの子どもたちが、手に手にスーパーの袋を持って(しかもその中はすでにお菓子でいっぱい!)、現われる。そうして、お賽銭をお盆に置いて、お菓子をもらっていくのだ。
 私たちは感動しながら、同じようにお賽銭を置き、お菓子をもらった。おばあさんたちは、袋を持っていない私たちに、「袋ないの?」と、スーパーの袋を探してきてくれた。そしてそこに、「3人で参ってくれたから、3つ入れとこうね」と言って、お菓子の袋を3つ入れてくれた。子どもがもらうものだから、親の私たちまでもらってしまうのは気が引けたが、嬉しかったのは言うまでもない。(しかもオットは駄菓子の大ファンなのである)
 その後、大家さんのお姉さんからきいていたおうち一軒、そして近くの保育園(お寺に併設)をまわった。弘法さんを信仰しているのか?というと、そうではない私たちだから、最初は遠慮がちだったのだけれど、地域のいろんな人たちが子ども連れで、また子どもたちだけで、ぞろぞろ裏通りを歩いているのを見て、次第に気持ちがほぐれてきた。「ええもんやなあー」としみじみ話しながら、散歩がてら歩いた。
 ハロウィンさながらのこの行事、こんなのは初めて見たけれど、なんだか小学生の頃を思い出して、不思議な、楽しい気分になった。袋にいっぱいのお菓子を持って歩く子どもたち。「ようお参りしてくれたねえ」と待っているおばさん、おばあさんたち。のんびりしたいなかの地域社会の一端を見たようで、ほのぼのとした日だった。



イソジンくんを悼む(2001/3/27)



在りし日のイソジンくん


 昨日、イソジンくんが割れた。こっぱみじんだった。一瞬のことであまりにあっけなく、ぼんやりその残骸をかきあつめた。信じられない思いだ。

 イソジンくんは、4年前の3月23日、私たちのもとにやってきた。まだ独身だった頃、主人の誕生日に私が贈ったものだった。それは写真のように、ブルーの花模様の鉢に植えられ、猫らしきキャラクターふたりが座っている、フィカス・プミラなのだった。
 当時ひとり暮らしをしていた主人には、「ただいまを言う相手もいない・・・」ので、この鉢がおかえりぃ!」と迎えてくれるということになり、それはあのカバくんのCMにちなんで、「イソジンくん」と命名された。そうして、イソジンくんとの日々が始まったのである。
 翌年、結婚して名古屋に移り住んでからも、結婚のお祝いにもらったフラワースタンドの上にのっかり、我が家では一番愛され、ちやほやされた。
 そして3年がたち、私たちのもとで4回目の春を迎えたイソジンくん。途中、私の里帰りのために枯れてしまい、プミラは二代目になってしまったけれど、それからも元気で頑張っていたイソジンくん。それが、4回目の主人の誕生日が過ぎるのを待っていたかのように、あっけなく鉢を拭いていた私の手からすべりおち、粉々に割れてしまった。ショックだった。
 とりあえずプミラは素焼きの鉢に植えかえられたが、「イソジンくん」としての彼らは、もう戻らない。プミラ、鉢、そして猫ふたりの見事なチームワークがあったからこそ、イソジンくんたりえたのだから。
 とても悲しい。そして寂しい。イソジンくん、いつか君が私たちのもとに復活する日は来るのだろうか。



ちいさなしあわせ―「ミルメーク」とチョコベビーの顔―(2001/3/20)

 先週のことだ。夕方のニュースを見ていたら、「ミルメーク」なる商品が紹介されていた。たまに行く、「八事のジャスコ」の食料品売り場で売っているというので、ついつい目を奪われて真剣に見てしまった。それは、町を行くどんな年代の人にきいても、誰もが「懐かしい!」と叫ぶモノであるらしい。実際、そのスーパーでは、お客さんの要望でその商品を置きはじめたという。その正体は、給食の牛乳に入れて、コーヒー味にするという粉末なのであった。
 その番組では、その工場まで行って取材をしていた。工場の人によれば、給食が脱脂粉乳から牛乳に切り替わった昭和40年代、日本人の食生活では摂取しにくいカルシウムがさらにとりにくくなったことで、それに代わるものをという、栄養士たちの要望から生まれた商品だという。学校給食で、牛乳の飲み残しが増える秋から冬が1年で一番忙しい時期なのだそうだ。それをつけると、その日の牛乳の飲み残しはゼロ。そして今では、8種類もの味があるらしい。
 私はこの「ミルメーク」が頭から離れなかった。私の住んでいた市では、学校給食の普及が遅かったため、私は給食未体験人間なのである。給食体験のあるオットなら知っているかもと、帰ってすぐにきいてみたが、彼もそんな商品は知らないという。名古屋の学校だけにあるのだろうか。
 ナゾは深まり、次の日、三好のジャスコに出向いて、ミルメークを探した。あったあった。早速コーヒー味を購入し、試してみた。
 おいしい!!私は感激した。風味をつける粉末というものの先入観から、たいして味に期待は持たなかったのだが、市販のコーヒー牛乳よりもあっさりと、甘味が後を引かず、コーヒーの香りも強すぎない。ホットにしたら甘すぎるかもと思いながら試したら、これもまたあっさりとおいしい。
 とにかく優しい味なのである。私はとてもしあわせな気分になった。
 そして、しばらくミルメークにはまるであろうことを予感した。次はココア味かな・・・。
 オットは抹茶きなこ味に興味があるそうだ。

  これもまた、先週のこと。ホワイトデーだからと、オットがスーパーで私の「好きそうな」ものをいろいろ買ってきてくれた。その中に、あの明治のお菓子「チョコベビー」があった。特にふだんチョコベビーを食べるわけではないけれど、たまに見ると懐かしいし、うれしかった。
 その日からちょっとずつ、あの俵型のチョコレートを食べていたのだったが、そのうち、すごいことに気がついた。小さな小さな、俵型(円柱形?)のチョコの横(円の部分)に、絵が書いてあるものが混じっているのだ。私はケースを振って、中身を見てみた。やはりある。全部のチョコにではなく、時々、混じっているのである。よく観察してみると、絵は2種類あった。星型と、にっこりスマイル顔。
 私はこの顔に、すっかりしあわせな気分になった。小さな小さなチョコに、小さな絵が描いてあるという、小さな心づくしにほんわかした気持ちになった。今まで気付かなかったけれど、こんなちいさなしあわせが、こんなところにあったのだ。
 どなたか、ご存知でしたでしょうか。

 そういうわけで、いろいろと1週間、へこんでいた気持ちがすこーしふくらんだのでした。



春の匂い(2001/2/28)

 桜が散るころの気温にまで上がった、先週半ばの暖かい日に、小学校に通った道を通った。
 コートを着ていたら、暑いくらいの日和。雨上がりの湿った土が、お日さまに照らされて乾いていく匂いがして、はっとした。春の匂い。深呼吸。懐かしい、懐かしい匂いだった。
  それに混じって、道端の沈丁花がかすかに香る。畑で咲き乱れる白梅。この細道は、あの頃とちっとも変わらない。一緒に帰った友達の家も、そのままそこにある。
 道路に出たら、神社に沿って、歩道を歩く。この歩道の石段を、飛んで歩いた子どもの頃。神社の梅も、ほころんでいる。これを楽しみに歩いた、幾十もの春の初め。一本の木に、紅白それぞれの花がつく、不思議な梅の木がここにあるのだ。
 通いつめた小さな市立図書館。隣接する母校。通信教育で小学校の教員免許を取得するのに、ここで実習もさせてもらった。忘れられない先生、児童たち。思い出は深い。
 帰り道、あの細道で、もうすぐこの道端に、畑に、たくさんのオオイヌノフグリやタンポポが咲きはじめるのだろうと思った。この道を歩く度に、いつもいつも、ほっとする私なのである。
 



いちごミルクのしあわせ・・・(2001/2/11)

 いちごの出まわる季節になると、毎年、うっとりする食べ方を思い出します。それは、「いちごミルク」・・・。いちごに砂糖と牛乳をかけ、フォークでつぶして果汁を絞るようにしながら実を食べます。そして、最後に残ったいちご味の甘い牛乳を飲むのです。この最後の段階で、うっとりは頂点に達します。「しあわせ〜」
いつの頃からこんな食べ方を覚えたのでしょう。実家ではもったいない食べ方と非難され、私自身も心のどこかでそう感じつつ、けれど未だにやめられません。友達にも、「いちごは素で(そのまま)食べる!」と言われ、なんだかこんな食べ方をしている自分が悪いような気もしてきて・・・。最近では積極的にはやりません。傷みかけている場合のみ、やることにしています。もちろん、「素で」食べる方が断然多いです。だから、たまに食べる今では、いちごミルクは陶酔の域の食べ物です。
 でもでも、「いちごスプーン」というものは、どうやって使うもの?いちごミルクのためではないのかしら?
 分からないことだらけです。
 誰か、いちごミルクをよく食べる、そして大好きだという人はいませんか。



三人のH先生(2001/2/7)

 大学4年在学中から、友人の紹介で(というか半分だまされたかたちで)学習塾の講師をしていた。そこは小学生から高校生まで、幅広く扱われていた予備校だった。私はそこで、主に小・中学生の国語のコマをもっていた。その他2〜3コマ、高校生の国語をみていたりもした。
 この予備校で知り合った講師の人たちは、実に謎に満ちていた。高校生の化学を教えながら、昼間はダンスを教えているという男性講師(しかもそっちが本業らしい・・・)、教員採用試験に挑みながら、社会科教育に深い思想を持っていた同い年の主婦講師(こういうパターンは割と多い。彼女とは奇遇な縁も手伝って親しい仲となり、未だにそれは続いている)、年齢不詳の無口なおじさん講師(子どもとは親しげにやりとりしていた)、かあちゃんに弱いが、講師一筋で家族を支えている気合の入った理科講師、長い髪をかきあげながら、離婚した話や今の彼の話、それから娘さんの話などを親しげに語ってくれる、昼間は栄養士の仕事をしているという、色っぽいおばさん講師、かたっぱしから挙げていくときりがないくらい、いろんな人生と出会った。
 非常勤講師が謎だらけなら、専任講師はもっともっと謎に満ち満ちていた。これについては語ると長くなるので、ここではふれない。
 とにかく、そんな中で、同じ「H」という名前の先生が、三人いた。
 そして、三人とも、同じ英語の先生だったことが印象的だ。
 それぞれの人柄を、懐かしく思い出す。私に大きな影響をくれた先生もいる。
 その人たちについて、少し書いてみたい。


 最初に出会ったT・H先生は、私が入った半年後の春、専任講師として現われた。背が高く、無口で、おとなしい人だった。自分のことなどほとんど語らない人だったので、私のような非常勤はもちろん、ずっと一緒に仕事をしていた事務のKさんさえ、「H先生は、よく分からないんですよ」と苦笑いしていた。とにかく、仕事上の話だけを、穏やかにやりとりしていた。先ほどちらっと書いたけれど、この塾の専任はクセのある人ばかりだったので、そのうわさ話などがよくまわったが、そういう話も笑ってかわして、のってこない人だったらしい。
 そんなある日、大学の同級生が、「Hくん知ってる?」と唐突にきいてきたので、驚いた。「知ってる」と言うと、「そやろー。向こうも知ってるって言ってたわ。彼、高校の同級生やねん。ええ子やろ」
 どうやら私の行っている塾の名前と、彼の勤め先が同じだと、何かの拍子に知ったらしい。彼女も驚いたようだが、私も、思いがけない共通に知人があったことに驚いた。そして、塾で見る以外の彼の顔がちらっと見えたような気がした。
 しかし、H先生のれいの雰囲気のせいで、なんとなく彼女の話を切り出せないまま、数年が過ぎていった。そして彼は、私より先に辞めていったのである。
 塾の中では、それ以外の話をしてはいけないような雰囲気を漂わせていたH先生。今はどうしているだろう。

 高校2年の国語を、自宅から片道2時間かかる支部校で担当させられ、いやいや通った1年があった。週1回、1コマのためだけにである。行きの電車の中で、授業の準備ができた。帰りは長い道のりを、さまざまな乗り継ぎの実験をしながら帰った。下手に乗り遅れると、終バスに間に合わない。生徒の質問もそこそこに、電車に飛び乗ったことを思い出す。
 その支部校に、J・H先生がいた。美人で、てきぱきしていて、明るい人だった。何がきっかけだったか(絵の話だったように思う)、ふと会話したことですっかり盛り上がり、H先生のおうちにおじゃまするようになった。結婚するまで、ツアーコンダクターをやっていたという彼女は、さまざまな話をおもしろおかしく?きかせてくれた。二人でよく遊びにもいった。京都に行ったり、絵を観にいったり、花をみにでかけたり。同じ大学の通信教育で学んでいたこともあって、いろんなことを相談したり話したりした。当時油絵を習っていた先生と絵を描いたり、アレンジに没頭していた私と、自家製の藤づるでクリスマス・リースを作ったり。
 共通で教えていた生徒たちと、彼らの卒業する春に、遊びにいったこともあった。森林センターにバーベキューをしにいったのだけれど、バスが1時間に1本しかなくて、人のいないアスレチックで帰りに時間つぶしをしたのを覚えている。
 2年くらい、そうしたつきあいが続いただろうか。そのうち彼女に赤ちゃんができて、以前のように身軽に動けなくなってしまい、電話や手紙のやりとりへと落ちついた。そうこうしているうちに私が結婚することになり、彼女は二人目の赤ちゃんを懐妊し、その秋に一緒にコンサートに行ったのを最後に、それ以来、会っていない。
 H先生は二人目を出産後、実家のある神戸に引っ越し、私は結婚して名古屋に移り住んだ。たまに電話などで近況をきくと、お子さん二人も大きくなり、彼女もまた精力的に趣味の世界を追求しているようだ。
 彼女とともに過ごした時間。彼女から学んだことは多い。
 「明るく、素直で、元気」。シンプルな三元素をモットーに、常に前向き、そして精力的に生きるH先生。興味のあることにはとことん積極的に関わろうとするその姿勢。小鳥のような目をくるくるさせ、身振り手振りで一生懸命にしゃべる彼女が今も脳裏に浮かぶ。長い時間がたち、現実にはこうして離れてしまっていても、あの日のH先生に励まされることは、今もって多いのである。

 私が拠点としていた支部校は、自宅から小一時間の、うらぶれた商店街の中の古いビルにあった。薄暗い急な階段を、かんかんかんと登っていく。3階に事務所と、講師控え室という名のうなぎの寝床があった。そしていつも、1階のパンやの、パンを焼く匂いが空調を伝って上がってきていた。今はもうない支部校であるが、妙に明るい蛍光灯の光と対照的な、それらの情景をまざまざと思い出す。
 ある日、事務のKさんと話をしていた折に、講師名簿の中の、ある名前に目がとまった。「M・H」とある。そして、続く住所、「F市」。私の中で、記憶がざわざわした。
  「この先生、いつ来はるの?」とKさんにきくと、私とすれ違う日があったので、その日に確認しようと思った。二点、気になったのである。「M」という名前が男性にしては変わった名であったこと、そして、「F市」が、曖昧な記憶の中の「M・H」氏と同じ住所のように思ったこと。
 奇しくもM・H先生は、私の高校2年の時の同級生であった。その頃はまったく、会話らしい会話もしたことがなかったのだけれど、クラス名簿で見ていた彼の名前が印象的だったこと、ほとんどの生徒の住所である、学校近辺の市町村から少し離れたF市に住んでいたこと、が記憶に残っていた理由だった。しかし、彼の様子はその頃の印象とはまったく変わっていたので、最初は声をかけるのがためらわれた。高校の時のような、メガネもかけていないし、やせてもいない。別人だったらどうしよう、と思いながら、おずおずと話しかけたのを覚えている。
 幸い、彼の方でも曖昧ながら私のことを記憶してくれていたので、会話成立、懐かしい高校時代の話に花が咲いた。それ以後も、塾の話を含め、いろいろな話をする機会があり、私の知らない裏話をたくさん教えてくれた。高校の先生の話、塾の専任の先生の話、などなど。そのうち、結婚していた彼は、奥さんを紹介してくれるということで、家にも招いてくれた。奥さんのM先生は近代文学がご専門なので、同じ専門の私と話が合うのではと、誘ってくれたのである。
 この時だったか、H先生が、M先生に惹かれたのはピュアなところだと言った。私から見れば、その言葉は、M先生はもちろん、H先生にもあてはまる言葉だった。
 あれから数年がたち、今では、(H先生に申し訳ないが)M先生と親しいやりとりをさせてもらっている。お茶が好きだという共通点もあって、メールではもっぱらお茶と読書と分析の話をしている。彼女もまた、例にもれず前向き、研究熱心な人である。こうしてみると、私はやはり、前向きに生きようとする人を好きだし、尊敬しているのだろうと思う。純粋に何かを受けとめ、真剣に対峙しようとする姿は、H先生もM先生も同じ。このピュアなご夫婦と、またたくさん話がしたいと思う今日この頃である。



(2000/12/20)

 高3の時、担任だったT先生が何かの折に、女性の手は年齢を語る、というような話をした。
 「顔は化粧でごまかせるが、手にはその人の年齢があらわれる。手を見れば、その人の生き方が分かる」と、細かい言葉は思い出せないが、そういったニュアンスのことを言った。そうして、「だから、女の子は手を大事にしろ」としめくくったように思う。
 その話を私は時々思い出す。大事にしなければ、と時々自分の手を見る。
 ところが先日、前に書いた留学中の友人と会った時のことである。
 帰り際、駅までの道を歩きながら、彼女は「手が荒れたね」と言った。
 「あなたは学生の頃、ほんとにきれいな手をしていました。そして、手には年齢があらわれるから、大事にしなければならない、と言っていたでしょ。でもやはり、主婦になって家事をしていたら、そういうふうになってしまうんだね。」
 彼女は会話の中で、当時のいろんなことを、本当によく覚えていてびっくりしたが、この、手の話もまた、そうだった。もちろん、彼女は私を非難したわけではなく、しみじみとそう言っただけなのだが、私もその言葉にあらためて、自分の昔の手を思い出し、心の中で見比べてみた。
 確かに、私は学生の頃、「あんた、白い、きれいな手してるねー。苦労してない手やねー。」と、よく周囲の人から感心された。自分自身は、子どもの頃から、大人の女の人のきれいな手に憧れ、
 早くあんな手になりたい、と思っていたのだが、その頃はまだ、自分の手が子どもじみて見えていた。いつになったら、あんな細くてきれいな手になるのかなーと思いながら、大人になった。それが今では、もうそのきれいな手を飛び越してしまって、荒れて骨ばった手になってしまっている。
 「そうだねー、荒れたねー。毎晩ハンドクリームをたくさんつけて、手袋して寝てるんだけどねー」
 そういうと、彼女は笑って、「もっと、もっと。寝る前だけじゃだめ。もっとクリームをつけて、手入れしてください」と冗談めかして言った。
 自分の手。荒れるのは必至の毎日だけれど、その中でもっともっと、できるかぎり大切にしなければ、と思った。自分で自分を痛めつけているような、手の使い方もやめよう、と思った。

 これを書きながら、結婚する直前に会ったT先生の言葉を思い出す。
 「ああ、あの話は、そういう意味じゃない。年齢が出る女性の手を、悪く言ったんじゃない。年齢が刻まれた手は、美しいということだ。その手にあらわれる人生が、きれいだということだ」
 高校時代、私はどうも、少し勘違いしてこの話を聞いていたようだけれど、この勘違いには、その時の私のものの見方が反映されているように思う。そして、今更ながら、T先生の言葉が重く感じられるのだ。だからこそ、自分の手をもっともっと、大切にしなければ、と。



しなやかな人(2000/12/20)

 先日、懐かしい友人が遊びにきてくれた。
 学生時代、台湾からの留学生であった彼女と、同じゼミで2年間、勉強したのだった。
 生まれ育った国は違うけれど、彼女とはどこか感性が似ているところがあって、当時から共感することも多く、学校を出てからも7年間、ずっと連絡をとりあっていた。
 彼女は今、私たちの学んだ学校に2度目の留学中であり、来春には祖国の学校に進学するため、帰国する。・・・あと数ヶ月の留学生生活の中で、一度は会いたいと、時間を見つけて大阪から名古屋まではるばる来てくれたのだった。
 私の結婚式以来、2年半ぶりの再会だったけれど、お互い会って話をすれば、ありきたりな話だが学生時代に戻ったような気分になる。深夜まで、学校のホームページをのぞきながら、いろんな話に花を咲かせ、まるで自分も自分の周りも、あの頃にタイムスリップしたような錯覚に陥った。懐かしい
 人々の顔や、授業の雰囲気や、エピソードが、昨日起こったことのように感じられるくらい、近くにあった。・・・そうして、一生懸命だったあの頃の自分が、今の自分と重なり、ひたすら前向きに走りつづけた自分の姿を思い出し、昂揚した。今の私は、周囲の評価に翻弄され、なんと萎縮して生きていることか、と思った。それがいいとか悪いとかいうわけではないけれど、あの頃のような、のびのびとした気持ちを久しぶりに味わって、すきっとしたのだ。
 彼女は、来年は進学もし、結婚もする。いずれは、現在休職している教師の仕事にも復帰する。
 学生の頃からそうだったけれど、何事をも悲観せず、前向きに、自分のやりたいことをたくさん持って、マイペースで努力し続けている。現状に焦りすぎることなく、また甘んじることなく。・・・そんな彼女を目の前にして、私もまた、自分のペースを信じて頑張らねばという思いがした。