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おそるおそる… 10/14

今朝、食器棚をふと見たら、奥まっていたトトロのマグカップが顔をのぞかせたので、
思いたって久しぶりに使ってみることにしました。

実家から持ってきたこの大きなカップ、わが家の初代PCにミルクティーをぶちまけ、
修理に追いこんだこともある、年代物?です。


そんなカップが昨年、今度は自らが食器棚の中で「ぶつかって欠ける」という事故に遭い、
わたしは密かに大きなショックを受けていました。
小さなかけらを見つけた時、何の?どこのかけら?といやな予感がしましたが、
色からこの長年愛用のカップと気付き、愕然としました。
今も同じデザインのものは売っているけれど、愛着があるということがいちばん問題で、
わずかな欠けで捨てることはできず…
そのまま放置して半年、今夏、ご縁あって「金つぎ」で修理をしてもらう機会を得、
みごと復活をとげたのです。
欠けていた部分はごくわずかでしたが、相当な手間と時間をかけて修理した過程を、
修理を仲介してくださった方が写真で見せてくださる徹底ぶり。
「金つぎですから、安全ですから、これからも使ってくださいね!」と言って、
格安で請け負ってくださったのでした。。

↓金つぎした部分。


マグカップを欠けさせた?ゆきだるま兄弟、反省しきりの図。↑


おまけ、
このコースターは、とあるギャラリーカフェで定期的に開催される手織りのワークショップに、
友人の誘いで参加した時の作品です。
縦糸は、深いブラウンのものを講師さんが織り機にすでに張ってくださっていて、
横糸になる7本の色糸を自分で選び、指導を受けつつ、織っていきます。
(2種4枚を作って、もう一色の組は母の誕生日にあげてしまいました。)
7月だったので、七夕の織女気分で参加しましたが(笑)、
初めての体験の緊張もあってか、あとでものすごく肩がこって、頭痛がするくらいでした。
手織りのあたたかさと、織姫さまのご苦労を感じつつ、たいせつに使います。



あまんさんのことば 10/9

図書館に行くと、一般書のコーナーのあと、
昔からのくせで、なんとなく児童書のコーナーをぐるりと一周してしまう。
小学生の頃から見慣れた、古い懐かしい本の背表紙を見るだけでほっとする。
新しい児童書をながめたり、児童文学の研究書をチェックしたり、
その時々に目が向く方へ手を伸ばして、立ち読みするのが楽しい。
ふと、『作家が語る わたしの児童文学15人』という本を見つけ、
あまんきみこさんと松谷みよ子さんを探して、目次を開いてみた。

お二人とも載っていたのだけれど、まず、前の方にあったあまんさんから読むうち、
とある箇所で思わず涙が出て、止まらなくなった。
自分でも、こんなところでこんな本でなぜ、と思いながら。

「わたしは若いころ、過去を振りすてながら、前に歩いているように感じました。
 つらかったことや、はずかしかったこを、どんどん捨てたかったんですね。
 けれど、五十歳をすぎたとき、ちっとも捨てていなかったことに気がつきました。
 木の年輪みたいに、自分の赤ちゃん時代、子ども時代、
 少女期、青年期、母親時代…というふうに、
 辛かったこともはずかしいことも、忘れたいことも、
 みんな抱え持って生きていることに気がつきました。
 そしてそのとき、わたしは、自分が作品を書くとき、この年輪の芯のほう…、
 幼年時代や少女時代に身をおいていることに気がつきました。
 それは体内感覚のようなものです。・・・」

忘れなくていい。捨てなくていい。
どんな過去であっても、忘れさることも、捨てさることもできない、
今のわたしを作っている大切な一部分なのだから、と、言われたような気がした。
それをたいせつにすることは、今の自分をたいせつにすることなのだ、とも。

あまんさんの優しくていねいな語り口、語られる先生がたの厳しくあたたかい姿勢、
童話の登場人物の名前、そういうものすべてが胸いっぱいに広がって満たしてくれる、
そんな感覚が訪れる。そこに、得も言われぬ、わたしだけの幸福感がある。

インタビューの最後に書かれていた、書棚いっぱいの「好き」な本の話…
「この書棚を開くとたくさんの親友が横にいてくれるような、そんな気がします。
 ええ、わたしはこの親友の世界にはくり返し行っています。」ということば。
梨木さんのエッセイについて感じたことと同じように、
「断捨離」が流行る時代、自分の興味が移っても簡単に本を処分できないで、
何十年もたいせつにしまっているわたしを、
そして、子ども時代からの感じかたや傷を持て余しているわたしを、
それでいいと言ってもらったような気がして、うれしかった。



『やがて満ちてくる光の』 10/4

本やさんで、全然違う本を探していたのに、突然目の前に現れて、
まるで買うつもりはなかったのに買わざるを得ない、そんな本に出会うことがある。
今回はありえないことに、探していた本と異なる分野だというのに、
なぜかそこに面陳列されていて、「これだよ」とわたしに訴えている気がした。

梨木香歩さんの、今まで纏められてこなかった、初期からのエッセイ。
すべてではないが読んだ作品はもちろんのこと、
今までも雑誌のインタビューなどで、ぎゅっと引き寄せられることばが語られていて、
世界を感じる感覚とことばを選ぶ感覚の両方に、深い共感を覚えていた。
入ってくることばが、まるで昔の友達のようにわたしの内側になじむのだ。

ちらりと気まぐれに開いて読んだページに、「引越しに伴う本の進退」の話があり、
わたしの気持ちを、なんてきれいに代弁してくれるのだろう!と膝を打った。
そう、そうなのだ。
長い年月を生きると、本文の例えのように認知症でなくても、
自分が何者であったか分からなくなる時がある。
年齢を重ね、その時々で役割が変わり、周囲の人々も変わり、、、
若い頃読んだ本を手に取り、開くことで、自分が何をしてきたか、
少なくとも、それを読んでいた頃何をしていたか、何を思っていたか、を思い出すことができる。
そんなふうに思うとやはり、昔読んだ本をひとおもいに捨てることはできない。
さらにわたしの場合、それは音楽、つまり楽譜も、なのだ。
(一度捨ててしまい、古本を探しだして、買い戻したことさえある。。)

「断捨離」とひとくちにいうけれど、昔のものほど、逆に捨てられない、
自分にとってたいせつなもの、必要なものが混じっている可能性があって、
なかなか、難しいものだなあと思う。



雨あがりの朝 10/4

激しい雨が降りつづいた翌朝。
ごみを持って表に出たら、水たまりの上に真っ青な空が広がって、
植物たちが雨の粒をくっつけたまま、静かに風に揺れていました。


しゃがまないと見えない場所にツユクサが咲いていて、あっと思い、カメラをとりにいった。
すぐにしぼんでしまうので、出会えてよかった。
フウセンカズラも次々と実をふくらませ、熟して茶色くなっていく。
来年はフウセンカズラをすだれにできるように、種がたくさんできるといいな。



夜明けの青 10/2

午前4時半。
目覚ましも鳴らないのに、寝過ごしたかとはっとして飛び起きた。
真っ暗な部屋のこもった空気に思わず窓を開け、小さくシャッターを開ける。
その瞬間、すき間から薄透明の青い冷気がざあっと忍びこみ、
部屋より先にわたしの胸に満ちてきた。

「ごらんなさい。ファーボ。これが、わたしのいちばんすきな青い色です。」

子どもの頃に出合った童話の一文が突然、呼び覚まされて、心にこだました。
青い色の精が、絵を描くのが好きな少年に、青い世界を案内する場面。
夜明けの青い空気は胸いっぱいに広がり、あの物語が肌の感覚でよみがえり、
懐かしく、せつなく、慰められた思いがして、涙がこぼれそうだった。
ああ、またこうして、物語に救われている。
遠すぎて思い出すこともない、すっかり忘れ去ったかのような幼い日の出会いが、
今のわたしの心に突然やってきて、寄り添ってくれる。
ただ一瞬、夜明けの風を吸いこみ、夜明けの色を感じただけで。
わたしだけのたいせつなたからものは、ちゃんとわたしのなかに生きていて、
ふだん姿が見えなくても、わたしとずっと一緒にいてくれている、と。
わたしを構成する粒子のひとつぶになっているのだ、と。