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物語のちから  5/29

部屋を片付けようとして、足もとにあった古典の問題集をふと開いてみたら、
小さい坊ちゃんが解いた折りあとのあるページの続きに、『雨月物語』があった。
「なんの話だろう」と気になって、問題文についつい読みふけり…
『…正太郎を責めて押し籠めける。』の最後の一文に、
「続きはっ?!」と、勢いネットの力を借りて、本文を探し出し、結末まで読んだ。(笑)
やっぱり…こわかった。
そう、そうだよー。これでこそ『雨月物語』。
こんな前半だけでは、物語の特色は出ていない。
しかも、結末にかかる大切な部分が、(カッコつき補足文)で省略されている。
問題文だから、当たり前か。(笑)

もう、ぼんやりいくつかしか覚えていないけれど、この怪異物語を、
小学生の頃、興味本位で怖がりながら読んだなあ…。(もちろん現代語の児童書で)
"菊花のちぎり""浅茅が宿"それから和歌山の道成寺の伝説。
(ちなみに、問題集の本文は岡山の"吉備津の釜")
その流れで、中学の頃は『高野聖』(泉鏡花)とか、ポーの『黒猫』とか、
高校に入ったら、漱石の『夢十夜』とか、不思議で怖い物語への興味は、
ずっと続いていた気がする。

一方で、児童書の古典文学シリーズにあった、『落窪物語』のような
シンデレラストーリー(?)も好きで、何度も借りたことを思い出す。
『小公女』や『若草物語』や、少女まんがと同時進行で、あれこれ読んだ子ども時代。
国語の教科書が大好きなのは1年生の時からずっとで、そのにおいまで大好きで。
高校生になっても、授業も時折聞かず、好きなところを選んで読んでいた。(笑)

思えば、わたしには絵本や読み聞かせの記憶はほとんどなく、
小学校以降の、図書館の本の物語が、自分の基盤になっている。
自分で文字を追い、物語の世界に入りこんで、夢中で読みすすめたたくさんの本が、
活字を見るだけでつい気持ちが高まり、引きこまれる習性を育ててしまったのだと。。
それも、ほとんど反射的に。

(同じものに、音楽がある。。)

そして、文字から立ち上がる世界の豊かさに、どんなに心を救われてきたことか。
どんなときにも。

だから、わたしはずっと、
物語に、ことばに、恩返しをしていきたいと思っている。
だから、どうしても、綴ることをやめられないのだ。
その方策は、はっきりと見えないけれど。

「自分のすることを愛せ。子どもの頃、映写室を愛したように。」
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のアルフレードの言葉が、
せつなく懐かしく、胸によみがえる。



京の四季絵巻  5/27

京都の銘菓・生八つ橋の、とあるメーカーの商品に封入されている、
掌編小説を集めていた話を以前、書きましたが、
このたび、京都の風景の切り絵のパッケージと八つ橋の味が、
季節ごとに変わる別メーカーの生八つ橋の箱が四つ、揃いました。(ややこしい)

左(上)から 「はる さくらの生八つ橋」 「なつ わらび餅仕立て」
  「あき 栗と芋の生八つ橋」 「ふゆ 黒豆と栗きんとんの生八つ橋」
 
1年前の春休み、部活動の仲間と京都旅行に出かけた小さい坊ちゃんが、
気まぐれに買ってきた「はる」が最初。
「きれいやったから買ってきた」(坊・談)
その後、秋の修学旅行で、奈良に行ったはずが少しだけ京都を経由したすきに、
またまた「あき」を買ってきた。
「こないだのとシリーズみたいやったから、買ってきた」(坊・談)
じゃあ、「なつ」と「ふゆ」もあるよね…と、いつかその季節に、
家族の誰かが行ったら買ってこようという話になりました。

数ヶ月後、京都であったチェロ・アンサンブルのコンサートに出かけたわたしが、
「ふゆ」をゲット。(2月下旬、「はる」に切り替わるぎりぎりの時期だった)
そしてついに一昨日、大学時代の友達に会うため、
京都に出かけたオットーが「なつ」を買って帰ってきてくれました。


思いがけず(?)四季すべて揃って、小さい坊ちゃんは満足そう。
遠近感のある切り絵の風景がとても美しくて、わたしも手に取ってながめています。



侵入禁止!  5/26

暑い暑い、初夏の日曜日。
畑に出かけ、スタッフさん拠点のビニールハウスに苗をもらいにいったら、
半分開いた扉の横に、
カ ラ ス 侵入禁止」とマジックで張り紙が…。(笑)
ここもか!と(5/2参照&畑ではカラスは天敵。)思いつつ、
カラスは張り紙読めないやろうと、思わず笑ってしまいました。
嫌われつつ、カラスもモグラもネズミも結局共存している、畑はすてきです。(笑)



「望郷」生歌唱  5/26

今月最後の土曜日深夜。
いつも録画しながら見ているさだまさしの番組の途中で、
(体調のせいもあり)布団に入ったわたし。
およそ1時間後?のこと。
うとうとしていたら、子どもたちが上ずった声で、
「ママ!ママ!まだ起きてるっ?!」と起こしにきた。
「な、なに??」
「望郷、歌うで!!今から!」
彼らは、ずっと見ていたらしい。(笑)
わたしもあわてて起きて、子どもたちと一緒にテレビの前に座った。

ずっと、もう忘れられたのかと思っていた、懐かしいうた。
35年の時をこえて、今のさだまさしが、歌ってくれている。
あの頃の、切実にふるさとを恋う感じとはまた違って、
ふるさとをたいせつにおもううたになっていた。
ふるさとを離れて聴くこのうたは、あの頃よりずっと、胸にしみる。
それを生放送で聴くことができて、
しかも、そのことを自分の子どもが教えてくれるなんて。
中学生のわたしには、想像もできなかった。
もう、音源以外で聴くことはかなわないと思っていたこのうたを、
35年を経て歌ってもらえることは、奇跡。
そして、感謝。
まっさん、歌いつづけてくれて、ありがとう。



鈴木重子さん  5/17

5月は、さわやかだけれど一方、片付けだらけでしんどい季節。
衣類や暖房や寝具、気温に従って次々と片付けが押し寄せて来る。
天気と相談しながら順番を決め、家族全員の冬もののほとんどを洗って片付けて、
(クリーニングは洗えない生地のコートのみ)
その合間に、季節ものの五月人形、こいのぼりの出し入れをする。
そこにたまたま、換気扇まわりが限界まで汚れて、
どうしてもフィルター交換と掃除をしなければならない状況に…。
最初は機嫌よく始めた掃除も、布団干しやシーツ洗いと同時進行していたら、
だんだん疲れ果て、キッチンの吊戸棚を拭きながら、
椅子に乗ったせいであちこち目に入る汚れに泣きそうになってきた。
ふだんの家事だけでもしんどいのに、
一日かけて季節の片付けをしても終わらず、汚れも取りきれず、わたしの体力も限界。
そのうえ、家族が帰ってきたらまた散らかる。その繰り返し。。
エンドレスの片付けと掃除に気が遠くなり、
計画的にちゃんときれいにできない自分が本当にだめな人に思えてきて。。

6年前の事件以来、焦ったり不安になったりするとすぐに心臓がどきどきするようになり、
こんな気持ちになると、どきどきと不安と自虐的な思いでいっぱいになる。

焦りつつ、まだ片付かない2階の部屋で、なんとなく本棚をさわってみた。
本ももっと減らした方がいいのかな…と、厳選したはずの場所から、
鈴木重子さんの『天使のいる星で』をぱらぱらとめくった。
これも古本で手に入れたし、しばらく開いていないし…
・・・・・
いくつかのページに目を落とし、ぽつぽつと紡がれたことばをひろってみれば、
そのやわらかな感覚に胸がぎゅっとなって、知らないうちに、泣いていた。
詩…なのだけれど、詩というよりは、ささやき、に近いもの。
鈴木さんは歌い手だからか、文字なのに、肉声のように伝わってくる。
地球や自然への、誰かへの、なにより自分自身への、
いたわりとやさしさにあふれた、ささやきが、聞こえてくるようで。
涙が止まらなかった。
だから、わたしは、この本を手放せないんだな。
本を閉じて、そっともとの場所へと戻した。

それから、しばらく遠ざかっていた鈴木重子さんのことを思い出していた。
この本を見つけた時、「え?ジャズ歌手の鈴木重子さん?」と目を疑ったこと。
著者紹介にジャズボーカリストとあったので、確認できたこと。
こんな散文のような詩のような、やわらかいことばを紡がれるのにびっくりしたこと。
そして、自分の感覚を研ぎ澄まし感じ取るちからに、敬意を抱いたこと。

あらためて、動画で彼女の歌を聴く。
いじめられないよう、自分の居場所を守るために続けた勉学で常にトップでありつづけ、
日本最難関の学校に進学した。
なのに、大学生活半ばにして、専門分野に全く興味がないことに気付いたという。
生きているという唯一の実感を得られたもうひとつの活動=「うたうこと」を選んだ彼女。
司法試験の勉強が行きづまり、苦しかった頃、
深夜ラジオから流れてきて涙が止まらなくなったという「The Rose」も、聴いた。
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When the night has been too lonely
and the road has been to long,
and you think that love is only
for the lucky and the strong,
just remember in the winter
far beneath the bitter snows
lies the seed that with the sun’s love
in the spring becomes the rose.
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ずいぶん昔から聞いていた歌なのに、
有名な日本語詞の映画主題歌も知っていたのに、
詩の意味を理解していなかったわたしは、ようやく、この歌に出会った、とおもった。
いつも、心に灯がともるように慰められるのは、
鈴木重子さんのことばが、声が、
"あなたは愛という花の種なのですよ"と、くりかえし、語りかけてくれていたからだ、と。



小さい坊のおあそび  5/15

坊ちゃんたち、ふたりでなにかごそごそしていると思ったら突然、
機械的な女性の声で、
「ぼうきょう。かなかな。おうごんりつ。しおさい。ひきしお。まほろば。
 とこしえ。いにしえ。きょり。みち。きおく。にじ。ゆめ。あい。・・・・・」
延々と単語を読みあげるではありませんか。
爆笑するわたし…それらはすべて、さだまさしの曲名。
そしてそれは、小さい坊ちゃんの電子辞書から発せられていました。(笑)
一緒に聞いていた大きい坊ちゃんも、大ウケ。

わたし 「なに?なにそれ〜?!」
小さい坊 「全部調べて、記憶させて、読みあげさせた。」(爆笑)

実は私も高校生当時、古語辞典(当然、紙辞書)の季語のページで、
「さだまさしの歌に出てくる季語」を探し、赤まるで囲んでいました。(笑)
3年前の坊はこれをヒントに、季語をすべて調べあげて結果をまとめて、
「生さだ」ではがきを読んでもらっていましたが…。

やることが、高度になってきたな…。
しかも、電子辞書で…。(笑)
機械も顔負け??
そんな坊ちゃん、、、もう、高校3年生です。相変わらずです。



昔の私  5/15

新聞をたたんでいて、歌壇の作品のひとつが目に飛びこんできた。


飛びこんできたのは、知らない人だけれど、私と同じ呼び名だったから。
そして、時々、私も同じことを思っていたから。
これから少しずつ、「みっちゃん」と呼んでくれる人が減っていくんだなあと…
その前にまず、私の名を略さずに「ちゃん」とつけて呼んでくれる、
小さい頃大切にしてくれたおとなの人たちが、先にいなくなっていくのだということも、
寂しさとともに感じていたから。

いつか私も、鏡のなかの自分に、「みっちゃん」と呼びかけるのだろうか。
その時は、自分と和解できているのだろうか。

奇遇にも今日は、さだまさしの新しいアルバムの発売日。
届いたそれは、私が初めて発売日に買ったシングルレコードと同じタイトルで、
数十年ぶりに歌いなおされたものだった。


中学2年生。
ただたださだまさしに夢中で、
詩や絵を書いて、まんがや本を読んで、
友達とつまらない話でけらけら笑っていた日々。
あの日の私が今いたら、35年後のこの歌を、どんなふうに聴くだろう。

「あれ?これレコードじゃないの?小さい。」
「今は、レコードじゃないねん。CDやねん。」
「えっこんな大きさで、アルバム全曲入ってるん?」
「そうやで。シングルより小さいやろ。」
「回転数とかどうなるん?」
「そんなのはないねん。。」
「歌は?まっさんは35年経って、不思議なおじさんになった?」
「歌もまっさんも、変わってないよ。変わらへんよ。まっさんはあのまま。」
「よかったー。私も、ずーっとファンやったんやなあ。」
「『望郷』、好きやったよ。ずっと。35年間。
 聴くたびに、歌詩のとおり、ふるさとにいた、中2やった私を思い出すよ。」

生きる場所も、時代も、年齢も、立場も、刻々と変化していくなかで、
私の人生を貫くものがあったこと、
それが、絶対にぶれないでいてくれたこと。
そのおかげで、私はかろうじて、自分を見失わずに歩いてこられたと思う。
そして、あの頃と同じ歌を聴き、あの頃を振り返り、
苦しく辛かった時間すらも幸せであったことを、あらためて知るのだ。



ししとう  5/8

思いたって、冷凍庫の整理を進めているこの頃。
いったんすべて使いきろうと思い、ジップロックふた袋に詰められていた、
昨夏最後に収穫したししとう(!!)をまとめて「たいたん」にしました。


夏野菜引きあげの日、たくさん採れたししとうを捨てるわけにもいかず、
「冷凍にして、煮物に少しずつ入れて、彩りにしている」という畑友達の話をきいて、
じゃあ、私もやってみよう。と、とりあえず冷凍にしたまま…。
大きい坊ちゃんがこれまで何度も「激辛」ししとうに当たったため、
わが家ではロシアン・ルーレットの如く敬遠され続け、
半年以上経って、ようやく日の目を見たというわけです。

「万願寺とうがらしのたいたん」が好きで、いつも作るその味付けで。
辛いものもほとんどなく、とてもおいしい。
久しぶりなので、夏野菜がとても新鮮で、恋しい。
折しも、4日に今年のししとうを、植えました。
そしてそれは偶然にも、「万願寺とうがらし」の苗。
坊ちゃんたちに敬遠されても、私は、食べられるのが今から楽しみです。



「鼓くらべ」  5/6

ふと記憶によみがえった作品を、ネットで探して、読みました。
確か、中学1年の時に、国語の教科書で読んだ物語。
山本周五郎だったことも、調べるうちに思い出した。

あらためて物語を読んで、細部を思い出しつつ、けれど、
あの頃は感じなかった(と思われる)感慨や、
人物のことばの真意を心で受けとめて、涙が止まらなくなりました。

こんなにすばらしい物語を、子どもだった私はまだ、
人生経験も浅く、心で受けとめられていなかったなあ。。
授業で「読む」ことはしても、自分の心に「響く」ところまでは、
至れていなかったなあ…と、しみじみ思いました。
こういうことは、本に限らず、物語ならばよくあることかもしれない。
年を取って再会した時に、経験値が上がったことで、
ことばの奥にある何かが、心に染みこんでくるような。。

「そうです、私はずいぶん世間を見てきました。
なかには万人に一人も経験することのないような、おそろしいことも味わいました。
そして、世の中に起こる多くの苦しみや悲しみは、人と人とがにくみ合ったり、ねたみ合ったり、
自分の欲に負かされたりするところからくるのだということを知りました。
……わたしには今、いろいろなことがはっきりと分かります。命はそう長いものではございません。
すべてがまたたくうちに過ぎ去ってしまいます。人はもっともっとゆずり合わなくてはいけません。
もっともっと慈悲を持ち合わなくてはいけないのです。」
老人の言葉は静かで、少しも押しつけがましい響きを持っていなかった。
それで、こういうふうな話を聞いた後では、不思議にお留伊は心が温かく和やかになるのを感じた。

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「……私は、その話を聞いたときにこう思いました。
すべて芸術は、人の心を楽しませ、清くし、高めるために役立つべきもので、
そのためにだれかを負かそうとしたり、
人を押しのけて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。
鼓を打つにも、絵をかくにも、清浄な温かい心がない限り、なんの値打ちもない。
……お嬢様、あなたは優れた鼓の打ち手だと存じます。
お城の鼓くらべなどにお上がりなさらずとも、そのお手並みは立派なものでございます。
おやめなさいまし。人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし。
音楽はもっと美しいものでございます。人の世で最も美しいものでございます。」

これらの老人のことばが、思いがけない物語の展開とともに、
深く、深く、心に忍びこんでくる。
「命はそう長いものではございません。
 すべてがまたたくうちに過ぎ去ってしまいます。」
わずか13歳の私に、そう教えてくれていたのに、
結局、本当にそのことに気づくのは、人生半ばを過ぎてからなのだと、
そしてその命の価値に気づくのも、多くの経験を経てこそなのだと、
悔いのような、あきらめのような、
そんな思いがしました。

今は、新しい物語を知るよりも、
懐かしい物語に再会したい。
そして、それを読んで心躍らせていた、
無邪気で幼かった自分と出会いたいと、そんなことも思いました。



手荷物注意?  5/2

いつもの図書館の駐輪場で、自転車をとめようとしてふと目に留まった
「自転車のいたずらに注意!!」の看板。
等間隔にはられた、その大きな文字の隣に、別の注意書きも目に入った。
「手荷物は必ず手元に置いてください」
何か盗難でもあったのかな…と視線を動かして、そこに添えられていた絵に、
思わずくすっと笑ってしまった。
カラスが、袋をつついて、穴を開けている絵。

・・・何ヶ月か前に、スーパーの入口の屋根で、
自転車の前かごに乗せっぱなしの荷物を狙っていたカラスと、
持ち主のお客さんが来ないので、困ってカラスを見張っていた店員さんの姿を思い出した。

「本日も、〇〇店をご利用いただき、ありがとうございます。
 お呼び出しを申し上げます。
 電動機付き自転車を、駐輪場入口付近におとめのお客様。
 カラスが、前かごの中のお菓子を狙っております。
 カラスが、お菓子の袋をつついて、穴を開けております。
 至急、自転車までお戻りください。」

何度も繰り返されるそのアナウンスの内容は、
次第にカラスの行動がエスカレートしていくさまを伝えていて、
気の毒に思いつつも、どこか可笑しくて。
ついに「カラスが、お菓子を食べております。」となった時には、
あー食べちゃったんだ…と、わたしが駐輪場に見に行った。(笑)
店員さんたちの困った顔と裏腹に、店を出るお客さんたちはみんな口元がゆるんでいて、
その光景が可笑しかった。

うん…困ったことだけど、犯罪より、平和でいいな。と、
カラスに悪気はないもんな。と、ちょっとほっとしたのでした。



花だより  5/2

先月、ハンギングに早々と夏仕様の花を植えました。
斑入りのピンクのサフィニアと、白いロベリア。
秋に植えたパンジーがアブラムシだらけになってしまって、
花が小さくなり、最後には咲かなくなってしまったのです。
どちらにしても、盛夏のハンギングは厳しい日差しに負けてしまうので、
ここ数年は植えずに片づけています。
初夏まで楽しむつもりで、ちょうどいいかなと。。


ペチュニアやサフィニアは花がらのぺたぺたが嫌で、積極的に植えていなかったこの頃。
しばらくぶりに、植えてみることにしました。
さだまさしの「記憶」という、とても好きな歌の中に出てくる花。
歌詩のように、こぼれ咲くほどになってくれたらいいけれど。


新しいカメラがやってきたので、明るい日差しのなか、試験撮影。
一枚めの↑一眼レフの感じが好きなので、そこに近づくようにとくりかえすセッティング。
一日の時間の流れと太陽の高さで、花の色は刻々と変わる。
わたしは、同じ太陽光でも、温かみのある、少しアンバーよりの色味が好きです。


2010年2月の日記の、「すてきなおねえさん」に薦められて買ったカメラ(↑を撮影)が、
そろそろご老体となり、ズームの反応が遅く、時に動かなくなってきました。
(マクロ撮影には活躍しているので、家の中ではまだまだ使いますが…)
そんなわけで、手軽に持ち歩けるコンパクトカメラを電器やさんでながめていて、
出会ったのが、なんとこのミラーレスの一眼レフ(左)でした。
(余りに軽くコンパクトだったので、最初は一眼とは思わず見ていた)
この軽さ=持ち出しやすさ、の強みなので、ご隠居となったコンパクトカメラに代わって、
活躍していただきましょう。