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職業体験  1/29

小さい坊ちゃん(…というには、わたしより大きくなってしまった!)、
昨日・今日と、学校から職場体験に出かけていました。
決まった体験先は、近所の市場っぽいスーパー。
まとめ買いに来る人の多い、威勢のいいお店です。
安いけれど、食べきれない!と、我が家では近年利用していなかったのでしたが、
坊ちゃんがいる日に買い物をしようと思いつきました。
本人が恥ずかしがって嫌がるので、こっそりと。。

もし仕事が中だったら会えないな…と思いながら行ったら、
しっかり売り場に面した台のところで、野菜の袋詰め作業をしていました。
お友達と3人で、きのこやほうれんそうを束にして、セットにしてたんだそうです。
時折、「いらっしゃいませーどうぞ!」と声かけもしながら、
集中して仕事をしているようすに、うれしくなりました。
こっそり隠れてようすを見て、買い物をして、帰り際にちらっと目だけ合わせて、
ついつい買ってしまった大量の食品を自転車に載せ、えっちらおっちらと帰宅。

夕方、坊ちゃんはごきげんで帰ってきました。
お仕事が思いのほか、楽しかったよう。
野菜のつめ方や、袋のとじ方など、経験してきたことをひとしきり話してくれました。
「がちゃん!って袋をテープでとめるの、おもしろかった。」
わたしが携帯でこっそり撮っていた写真も見て、満足そうでした。
見にいったことで機嫌を損ねないか気にしていたので、よかったよかった。
2日目は雨の予報で、行かないつもりで1日目に行ったのに、
小さい坊ちゃんの、「明日はどうするの?」(笑)の声と、
大きい坊ちゃんの、「いじゅがつめたの買ってきてや」の声とに押されて、
またまた次の日、坊ちゃんがつめたという、りんごを買いにいきました。


岩手産りんご・金星。
「りんごの上を外側にして、4個ずつつめ」て、口をぎゅっとしばって、シールを貼ったそうです。
地元産のレモンも6個ずつ、380円の大袋を作っていたそうでしたが、
レモンは6個使いきる自信がなかったので(笑)、買わず。

こうして体験終了した坊ちゃん、「みかんもらった!」とうれしそうに帰宅。
(みかん大好き 笑)
自分でつめたみかんを、お仕事のごほうびにいただいたんだそう。


「2、3、3、3、3」と数えて、(笑)14個をつめて、袋の口をしばったのだそうです。
りっぱなおみかん、よかったね。
こうして、お仕事をして(この場合はさせてもらっているのだけれど)報酬をいただくという、
貴重な、よい経験をさせてもらったのでした。
「いじゅがつめたりんごやなー」と家族みんなで食べて、
「いじゅが稼いだみかんやなー」とまた食べて、
坊ちゃんも家族も気持ちが温かくなった、うれしい職業体験となりました。



いのる  1/29

:: 両陛下のフィリピン戦没者慰霊の儀式を中継で見て ::

以前ここに書いた、「おじいちゃん、戦争の話を聞かせてください」を連想した。
激戦地の想像を絶する苦難を思い、またそこから、
忘れられない平和の俳句のひとつを思い出した。
 "またひとり 語り部去りぬ ゲゲゲのゲ"
「涙目でものを見ない」
そんな戒めを心に抱きながらもどうしようもなく、涙がこぼれた。

日々ものすごい速さで流れゆくニュースの洪水、報じるメディアの騒がしさ。
新聞のテレビ欄のある種、皮肉なきらびやかさ。
派手な宣伝文句に彩られた長時間のヴァラエティやドラマ、情報番組。
利便性をとって、それに時間を奪われるのか、デジタルに侵されてゆく日々の暮らし。
目の前にあるのは、それらを波乗りしてゆくような毎日。
日本は平和だなあと感じると同時に、これが平和?と、疑問にもおもう。
大量の食糧廃棄と、この国の農業のこと。
経済活動の循環と振興のための大量消費、そのための大量廃棄。
海水温の上昇に伴う記録的荒天と自然災害の増加、
生物の生息地域の変化による神の鳥・ライチョウの激減。
そして大震災が残した、あまりに大きな爪あと。
わたしの目に、こころに留まるものは、それらの痛みであり、
そこから目を逸らすように、また、まるで見えていないかのように、
生きていくことは、たぶん、できない。
神と呼ぶしかない大いなるちからは、これらをとおして、
わたしたちにどんな問いを投げかけているのだろう。
そこにわたしたちは向き合い、応えようとしているか。
そして見据える先がきちんと見えているのか、自問自答する。
自然の恵みと先人の苦労のうえに、これほどまでの豊かさを享受しながら、
同時にこの大きなうねりのどこに身を置き、どう手を、こころを伸べればいいのか。
抗えない流れのなかにあって流されず、自分にできることを探りつづけるのは、
簡単なことではないけれど、胸の痛みというともしびを消さずにいたい、とおもう。
そして、"いのる"ということ。



心のなかで  1/25

見ていた番組で、聞き覚えのある、懐かしいイントロが流れた。
えっと思う間もなく、それは不意打ちのようにわたしの記憶の扉を叩き、
数十年の時間を超えて、忘れていた歌詞の続きが口をついて出る。
思い出したあやふやなタイトルを頼りに、夢中で古いカセットテープを探し出す。

その時代、繰り返し聴いた、わたしを支えてくれた音楽を集めたテープは、
劣化を感じさせないきれいな音で、その歌を再生してくれた。
ああ・・・これだ。
じっと聞き入っていたら、思わず、涙があふれた。
その時代の感覚と記憶が、胸いっぱいに戻ってきたから。
そして、今の自分へのメッセージのようなものを感じたから。

これを聴いていた頃のわたし。
痛みを抱えながら、根無し草の危うさを泳ぎながら、懸命に生きたあの時間。
あの時代は、わたしのなかの、たからもの。
誰にも、何にも、侵されることのない、奪われない、わたしだけのもの。
あの時間が人生にあってよかった、と、心から思う。
心であの時代を抱くだけで、こんなにも慰められ、支えられる。
何にも侵されない自分を思い出し、信じることができる。
迷いながらも夢中で駆け抜けた愛おしい時間と、あの日のわたし。



ゆきだるまの朝  1/21

前夜のこと、お風呂あがりの小さい坊が、
「このゆきだるまマーク、なに?」ときいてきた。
「???」
彼がふと、ガス給湯器の操作パネルを見たら、真っ黒な液晶にうっすらと、
ゆきだるまのマークが透けてみえたらしい。(もちろん点灯していない)

「ゆきだるまー?ゆきだるまなんかある??」
「あるよ。」
「見たことないなあ。もし点くとしたら、凍結の警告ランプなんじゃない?
 寒冷地域用の。ここ、寒冷地域ちゃうから、点けへんわ。残念ながら。」
「ふーん」
その夜はそれで会話が終わったのでしたが…。

翌朝。
先に起きてきた大きい坊が、ふと操作パネルを見て(ゴミ箱の上にあるから 笑)、
「あっ!ゆきだるま、点いてるで!」と叫んだ。
「ええっ!?」
慌てて炊事の手を止めて見ると、確かに!!
前夜まで闇に埋もれて見えなかった真っ白なゆきだるまが、ぽっと浮き出ているではありませんか。
「カメラー!」
そして同時に叫ぶ、大きい坊とわたし。(笑)


ああっ。
画面が真っ暗なうえ、ゆきだるまは真っ白なので、焦点が合わずぶれる!
目が、目が(笑)ちゃんとあるのが、ミソなんです。
角度を変えてみたり、違う場所でフォーカスを固定したり、
苦戦して…何度も挑戦。


坊たちが学校へ出かけたあと、精神統一してようやく撮影に成功。
バンザーイ!
・・・と思ったら、一緒にゆきだるまもバンザイしてくれてました。(にこ)

昨年5月に、11年半使ったガス給湯器の寿命が訪れ、付け替えてから約半年。
説明書で調べたら、凍結防止のためのお湯の循環機能マークらしい。
(今作動してますよというお知らせ)
寒冷地に限ったものではなかったようです。
それにしても、前日まで存在すら知らなかったゆきだるまが翌日点くなんて。
気づいたのが夏なら絶対にありえないことなので、本当に不思議!
そんなわけで、我が家では「しあわせのゆきだるま」として歓迎され(笑)、
その後も氷点下に冷えこんだ朝に活躍することになったのでした。



二世的・おもしろ発言  1/21

小さい坊  「頭で『情熱を離さないで』回ってるわー。 ♪Jo Jo Jo 情熱を〜」
        (注・我が家でブーム中?のJoshinテーマソングの元歌↑)
大きい坊  「じゅんなーこの間、頭で『胡桃の日』と『修二会』と『飛梅』回ってたわ。」
小さい坊  「いわゆるドラマティック・マイナーやな!」
わたし    (・・・爆笑・・・)

(オルゴール演奏のさだまさしの曲を聴きながら)
小さい坊  「オルゴールも忙しいな!」(←歌詩にあわせて連打だから)
わたし    (・・・爆笑・・・)

もうすっかり、ファン歴30余年の大人に混じってさだまさし論を交わせるようになった坊たち。
最近の歌については、彼らのほうが詳しいくらい。
普通に会話の中に混じる、マニアックな発言が笑えるのでした。。