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『オレたち写真集』  10/31

その昔。。
子どもたちがポーズをとって写真を撮る、というのが流行った時期がありました。
たとえば…


人呼んで(?)、『オレたち写真集』。(笑)
まとめられることはなかったけれど、今もフォルダのあちこちに残っています。

・・・あれから5年。
そんなこともすっかり忘れていたのに、夕暮れの海での撮影チャンスに、
小さい坊が突然『オレたち写真集』を思い出し、カメラを構える。

「はい、じゅん、かっこつけて〜。」(爆笑)


『オレたち写真集』…更新されたでしょうか。
↓ カメラマンの近影。(注・5年前)




ブルーナさん  10/29

子どもの頃、ブルーナさん。今は、ミッフィー。

大人になって再会し、キャラクターとして定着する以前、
わたしのなかでは「ブルーナさん」といううさぎだった、ミッフィー。
ふだんはそんなことも、すっかり忘れているのだけれど…
朝ごはん食べながらふと目にして、「ブルーナさん」と思ったら、泣けてきた。

ミッフィーの絵本や絵柄を見たら、母はそれを「ブルーナさん」と呼んだ。
「ブルーナさんのうさぎ」「ブルーナさんの絵本」…
それが作者の名前だとは知らず、日本名がうさこちゃんということも知らず、
これは「ブルーナさん」なんだと思って(知って)いた、子どものわたし。
今ではキャラクター「ミッフィー」としての認識の方が長くなってしまい、
思い出すこともほとんどなくなったけれど。
「ブルーナさん」とこの子を呼ぶとき、ちいさなわたしもそこにいる。

朝から泣くなよ。
母は元気に、相変わらず憎まれ口たたいてるのに。
自分につっこみながら、泣いている。


追記、
大きい坊ちゃんの「ナインチェ・セスキ水でお洗濯」報告…
部長さんと坊ちゃんで拭いた結果、水は真っ黒、
ミッフィーは真っ白のふわふわになったそうで、みんなが驚き、喜んだとか。。
坊ちゃんの仲のいい友達も、今までさわらなかったのに(黒かったから)、
ふわふわになった彼女を愛するようになったとか。。
今来ていない3年生の先輩が見たらいちばん喜ぶだろうということで、ほんとによかった。
ビフォー・アフターも(黒い耳を最後まで残して)撮影されているそうなので、
いつか見せてもらいたいなあ。。



コサギ  10/28

ひとつ遠い銀行で用事を済ませ、帰ろうと思っているのになぜか、
自転車は川沿いに向かう。
小さな橋をわたっていたら、光る川面で戯れるコサギたちに目を奪われて…
ふと見たら、もっと近くの水路の出口に、コサギが一羽。
ぴん、と一本頭に毛を立てて、くるくるの目をして、細い足で…
じっと立っているかと思えば、少し動いてみたり。
そのようすが可愛らしくて面白くて、
こちらも思わず自転車を止めて立ち止まり、見とれていた。

しばらくして、全身が「目」になっている自分に気付き、はっとした。
ただ、コサギを見ているわたし。
かわいいと思っているわたし。
それは、カメラに撮ろうとか、ことばにして綴ろうとか、
それを記録媒体として見るのではない、ただの観察。
よく運動会で感じる、あの感覚。。
子どもが走っている姿に夢中になって、「今ここ」で感動したいのか、
それとも、「記録を残すために」カメラごしに冷静に見るのか…
どっちが優先なんだろう、という感覚。
ああ…この日記にも、そういうところがあったんだ。

全身で、今目の前にある事象を感じとりたい。それと一体となって。
そのためには一度、記録したいという思いを外して、ただ感じることが必要なんだ、と。
感動を優先して、自分の中から自然にことばがあふれてくるのを待ちたい、と。
この気付きを書いておきたくて、まだ綴っている。



ラストスイミング  10/24

最後のスイミング。そして、テスト。
自分でその日の泳法を選び、自己ベストを更新していくテストで、
新しいランクに達すると、ワッペンがもらえる。
今日はクロールにする、と二人とも決めて臨んだ。

テストの順番は早かったけれど、レッスン終了後、
結果を伝えるのを、二人を最後にしてくれたらしいコーチ。
「いやあ、感慨深いねえ…」と、最後の会話ができて、
二人ともワッペンをもらって、いい終わりになったみたいで、よかった。

そして受付には、お世話になったあのスタッフさん。
「今日で最後ですね」と笑って、
「元気でね。がんばってね。なんでも、ね。」と、二人に声をかけてくれた。
その笑顔とことばで胸がいっぱいになりながら、
「長いあいだ、お世話になりました。ありがとうございました。」とあいさつをすませ…
坊たちは、ドアを出てからあらためて振り返り、立ち止まり、
「ありがとうございました」と、建物におじぎをしていた。

ひんやりした風にあたり、「終わったなー…」と脱力する坊たち。
「もうこのプールで泳ぐことは、ないんやなあ…」
寂しくせつないけれど、、、この思いも、今はたいせつにしよう。


上級になって黄色帽になり、ワッペンがひとつずつ増えていき…
縫いつけるのはちょっと大変だったけど、気付いたらこんなに…
ピンク=クロール、黄色=平泳ぎ、青=バタフライ、紫=背泳ぎ。
上が大きい坊、12個。
下が小さい坊、9個。
そしてそれぞれいちばん右のピンクが、最後のワッペン。
長いあいだがんばってくれた、バッグと一緒に。



またひとつ、、、ありがとう  10/22

スイミング・ラスト2、に寄せて…

スイミングのテスト月にして、けがその他で一度も泳げなかった大きい坊ちゃん。
テストだけやって終わるのも…と、一回分だけ振り替え。
平日の、小さい子が多いクラスだけど…
ロビーで出席印を押してもらい、「じゃあ、いってきます」と着替えにいく後ろ姿を見ていて、
大きくなったなあ…と、しみじみ、長い年月をかみしめた。
手を引いていた4歳5ヶ月の小さな子が、気付けば15歳11ヶ月になり、
すっかりわたしの背を追い越してしまった。
11年と6ヶ月。
知らないうちに、長い時間が経ったんやなあ。
もう、お着替えを手伝わなくても、更衣室に入らなくても、泣かないんやなあ。
そんな思いが押し寄せて、不意にせつなくなって、泣けてきた。
同じ経験を、いつか、この子の子どもでする日があったとしても、
それはもう、わたしの子どもではない。

スイミングとのさよならは、幼かった子どもたちとのさよならでもある。
こんな頼りないわたしを親にしてくれて、ともにいてくれて、
成長する喜びも寂しさも、胸いっぱい経験させてくれて、ほんとうにありがとう。
こんなせつない思いと感謝の気持ちを、
これからも生きているかぎり、繰り返していくのでしょう。



ありがとう  10/20

数日前、この日記を綴りながら、そばにいた小さい坊ちゃんに、
「ママ、もう、日記やめようと思うねん。」と告げました。
坊は「えっ」と驚いて、ぼそっと、「やめんでええんちゃうん」と…
「うん…」と言いながら、ひたすら綴りつづけたわたし…

その翌日、書いたものを読み返して、懐かしいひとたちのところで泣いていたら、
大きい坊がぎょっとして「ママ?なんで泣いてんの?!」ときいてきた。

小さい坊 「(小声で)ママな、日記の最終回書いてるねん。」(笑)
大きい坊 「えっ!あれ終わるん?!えーっ続けようや〜」
わたし   「あんたたちも大きくなったしなー。もう、自分らの面白い話は、
       自分たちで覚えとけるやろ?」
大きい坊 「ええーっ(不満げに)忘れるよ!やめんでええやん。
       続けよう〜。なあっ。(←小さい坊に 笑)」
わたし   (・・・笑・・・)

なんだか、面白いテレビ番組みたいな…。(笑)
「終わってほしくない!」反応してくれて、うれしいような、くすぐったいような気分です。


そしてまた、わたしはこの日記に育てられてきたんだなあ、、、としみじみ、感じる。
日々のできごとをここに書くことで、客観視する目を与えられ、
うれしいこともつらいことも、どこか笑えるような気持ちになっていく。
そんなふうに、その折々の感情を、昇華していけたのだと思う。。
この場に、あらためて、感謝です。

('12.11.30)

3年前の、HP開設日の日記に書かれていたことばを見つけ、
今書きたかったことと重なっているので、ここに引っぱってきました。

そう、たしかに、わたしはここに日々を綴ることで、うれしいこともつらいことも、
自分の感情とともにいて、追体験し、昇華(消化)してきたのだと思う。
そして、自分の針をゼロに戻し、歩いてこられたのだと思う。
自己啓発のプラス思考のわなに陥ってから、
いつのまにか「悪いこと」(に、見えること)から目を背けるようになって、
自分のなかのマイナス感情を、ここに書かなくなってしまったことで、
それらが昇華されずに溜まってしまったのかもしれない、とも、思う。
「いい」「悪い」の判断は個人的な観念であって、自らを癒すためには、
ただ生まれる感情を見守り、寄り添うだけで、昇華(消化)していけたのだとも…。
いろいろなことを思いつつ、とにもかくにも、この場にはただただ、感謝しかありません。

いつか作品(らしきもの)を書きはじめて、そのペースがつかめて、
その上でこうして日々が綴れそうならまた、書きはじめるかもしれません。
立ち位置や目線を変えてみて、、、また、時とともに自然に変化することもいとわず…
長いお休みに入る気持ちで、、、この日記と、読んでくださったみなさんと、
そして長いあいだ、書きつづけてきてくれたわたしに、心から、「ありがとう」を。



気付き  10/20

ここ数年、あるコーチングのブログに励まされてきた。
胸が苦しい時、その主催者の著書を読んで、そのことばを何度も見返して、
なんとかしのいできた日々があった。

そのブログの、数日前の記事のタイトルを思ううち、
大切なことがひとつ、腑に落ちる感覚があったので、記しておきたくなった。
その記事のタイトルは、
-------------------------------------------
ブラックな面も弱さも、すべて肯定したとしても、
あり余る魅力を誰もが持っている。
-------------------------------------------

このことばの意味を、大きな鳥の目で俯瞰する感覚を、今、感じている。
人は多面体で、また、この方のことばどおり、
それぞれ違う凸凹のある、パズルのピースのようなもの。
自分にとってしんどく思える面があっても、それもあって当然の一面であり、
またまったく異なる面もたくさんあって、ぜんぶ合わせたものがその人なのだ、と。
目についたたった一面で人を判断するというのは、
判断する側の「好み」(というか、観念・エゴ=持つ人の問題)でしかないのだということ。
「いい・悪い」という意味づけそのものが、とても個人的な基準だということ…
それぞれのパズルのピースに、合うもの・合わないものがあるのと同じように。
凹のかたちや大きさがどうであれ、その人の価値は何も変わらない。
それどころか、そのピースが欠けてしまえば、
世界という大きなパズルが完成しないことになってしまう。
どのピースにも、はまるべき場所があり、生きる使命がある。

------------------------------------------------------
あなたがあなたで今、生きていることには、意味があるんです。

だから、小さくなっている場合じゃない。

だから、自分を生きないと。

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価値判断をしない、というのは、頭で理解できても、腹で理解するのは難しいこと。
そして実行するのは、(誰もが観念を持っているから)さらに難しいことなのだけれど、
少しでも、感覚で、腹で、感じたい、解りたい、と思う。
そしてまず、自分自身について、一面で判断するのをやめたい、と思う。
その感覚に近づけたこの記事のことばに、また感謝する。

そしてもうひとつ、ヨガの先生のことばにも。
先生と接していて、すばらしいといつも思うのは、ニュートラルであるところ。
今まで出会ったなかで究極に、「価値判断のない人」。
ご本人に「いい悪い」の判断がないので、どんなできごとを話しても一切否定せず、
少し上から(俯瞰してという意味で)わたしとは目線を違えて応えてくれる。
「それでいいんですよ。」「必要なことが起こっているだけなので。」と。
「ああ、今はそうなんだ。」と、自分も他人もできごとも、
ただ受けとめる大切さを、教えてもらった気がする。
・・・・・・・・・・
どんな時も、自分にとって快適になるように、選択していくこと。
常に自分の本心に、「好き?嫌い?どうしたい?」と問いながら。
人間は動物なので、自己防衛の能力が本能として具わっている。
そのアンテナを立てて、自分の感覚を信じること。
現代は情報があふれ、知らず知らずのうちに洗脳されていることも多いので、
たとえ周りが「こちらが正しい」と言っても、自分が「違う」と感じたら、やめておくこと。
自分の中に生まれた小さな違和感を無視せず、信じること。

自分の中の感情に気付き、感じる練習をする。
(それには、からだで感じるのがいい。感じられなくなっている場合は、
 人は認識する入口として、「目」「耳」「肌ざわり」の3タイプに分かれるので、
 自分にとって敏感に感じられる感覚から入って、気付いていく。)

今まで生きてきたなかで感じた感情はすべて、
身を守る本能からの緊張として、からだの筋肉や細胞に蓄積されている、ということ。
それに気付いて、からだの感覚で味わい、解放すること。
つまり、こころとからだは、ひとつであるということ。
・・・・・・・・・

先生から教わったこと、助けられたことは計り知れない。
今まで感じないようにふたをしていた感情があったことに気づけたし、
また、感情の中に入るのを、恐れていたことにも。
先生がいなければ、とてもこの状況を乗りきれなかったし、
またある意味で、先生がいなければ、この苦しい状況にはならなかったかもしれない。
(しかしならなかったとしたら、もっと大きな試練が待ち構えていたのだろう。)
先生から紹介されたTREというエクササイズを2年間つづけてきて、ゆっくり変化したもの…
それてしまった道を軌道に戻す、人生の舵きりだったと、今、おもう。

苦しい思いをして戻った、この原点を見失わないように…
つまりは、最後まで自分自身と、仲良くいられるように。
封じこめ、感じられなくなっていた「ほんとうの想い」を見つけ、寄り添い、
大切に生きていきたい、とおもう。



大きい坊、ミッフィーをクリーニングの巻  10/20

大きい坊ちゃんネタもひとつ。

天文部の部室に、3年生の先輩が連れてきた(保護とも、監禁とも言われている…)
大きなミッフィーのぬいぐるみがあるそうで、
「部の妖精・ナインチェ(←ミッフィーの本名 笑)」とあがめられているらしい。
これが、数年間部を見守るうちに、えらく黒く汚れてしまっていて…
ここのところ、「なんとか洗濯できないものか」と坊ちゃんが思案していました。
クリーニングはお金がかかるし、丸洗いするには大きすぎるし、傷むかもしれないし、
なんとかそれ以外の方法で…と検索で調べ、
「ママ!大きい袋に、重曹と一緒に入れて、振るねんて!」と、
なかなかいい方法を見つけてきました。
それをきいてぴんときたわたし、
「なるほど〜。重曹もいいけど、手あかの黒ずみやったら、セスキをお湯に溶かして、
 その水で絞ったタオルで拭いたら、取れるんちゃうかな?
 カッターシャツの襟のとこ、せっけんにセスキ混ぜたら、見事に取れるから。
 せっけんは洗い流さなあかんから、セスキ水だけにして、最後にぬるま湯で拭いたら?」
「やってみるわ!!」
早速、先輩たちにメールで許可を取り、「あさってやるから、タオルちょうだい!」と(笑)、
やる気まんまんの坊ちゃん。
部員のみんなも、「きれいにしたいなー」と思ってはいるらしいんだけど、
どうしていいか分からなかったんだって。
それをなんとかしようと、ちゃんと行動に移すあたり、エライ!!と思い、ほめました。
とっても大切なことだね。

一方…。

同じ日(あさって)提出になっていた、志望校(もちろん大学の…はやっ)と学部、学科、
そして受験科目の調べプリント。
全然分からん!と(そりゃそうだね)、うんうん言いながら、
これもインターネットで調べていた坊ちゃん。
全然分からないだけに面白くないらしく、野球のニュース見たり、カードのサイト見たり…
提出前日になっても、全然決まっていません。
「どうすんの〜。ちゃんと学校の進路資料見たん?!」
それを見てもいなくて(笑)、相変わらずうんうん言いながら、ひたすら読んでいるだけ…
結局わたしが横に座って、あーだこーだ言いながら、表示遅い!とか言いながら(笑)、
2時間かけてなんとかかんとか、記入を済ませました。
「あー終わったー。ママ!花火の時のバケツと、セスキと、タオル出しといてな!」
・・・・・。
やりたくないことは、自分でなんとかしようとしないんだね。(苦笑)
まったく。。。

そして坊ちゃん、、、当日の朝、意気揚々と登校していきました。
プリントかばんにつめこんで。バケツ持って。(笑)



おもしろ語録  10/20

ことばが出るようになる前からすでに、
数々の笑いを提供してきてくれた小さい坊ちゃん。

夕方、電話があった時のこと。
セールスかと用心してとったら、前に応募していたガスやさんのリビングフェア招待の案内で、
当日の予定などを真剣に聞いていた私。
「はい。はい。」と相槌を打ちながら詳細に聞き入っていたら…。
「はい。はい。」…大きい坊ちゃんが、おもちゃの携帯電話を耳に当てながら、
私の横を通り過ぎていく。マネしてるんです。おかしくてぶぶっと笑いそうになったら、
その後ろから今度は小さい坊が耳におもちゃの携帯を当てて、
「ああ。ああ。」と言いながら通り過ぎていく〜。お兄ちゃんのマネしてるんです。
電話中はなんとかこらえたけど、切った後で大笑い!!
3人で真剣に電話している様子、想像してみてください。かなりお間抜けでした。

(2003/5/19・1歳7ヶ月)

ことばを習得してからは、独特の言いまわし(?)で自らの体験を表現し、
さらに多くの笑いを誘ってきてくれたのでした。

相変わらず、のおもしろ発言記録より。
「シマト、ネリコさん」につづく…。
(もちろん、小さい坊です…。)

3人で、地下鉄に乗って出かけた日曜日。
電車がくるまで時間があるので、ベンチに座っていたら、こんなことを言う。
「ほんきで、さいごまですわると、あしがうかぶ。」
「なんて?」(笑 これ、坊たちの口ぐせみたいなもんだけど、思わずわたしがきいた。)
「ほんきでー、さいごまでー、すわると、あしがうかぶ。」
と言いながら、おしりをベンチの奥深くに押しこんでる。
ははあー。(笑)
「それはー、『ベンチに深く腰かけると、足が浮く』って言う意味なん?」
「そう。」
思わず、大きい坊と一緒に笑ってしまった。
もう3年生だけど、ときどき、自分の知ってる範囲の言葉で表現するのが、
おもしろくて、おかしくて。
これも、オリジナリティだねえ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2010/12/5・9歳)


大雨になった午後、帰ってきた小さい坊ちゃんの名言。
(傘をたたみながら真剣に)
「ひとつひとつのしずくがいろいろな方向から来るから、どこに傘を向けていいかわからない!」
(大爆笑)

意訳しますと、
「雨が吹き降りになって、傘をさしていても濡れてしまう。」
って感じでしょうか。(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2011/5/10・9歳)

わたしの記憶で強烈な印象を残しているのは、ロバの絵を描いた時の、
「馬の耳の長いバージョンで、はいいろ。」(笑)
どこにいったか、分からなくなっちゃった…

そんな坊ちゃんから飛び出した、ここ数年以内のおもしろ言葉を思い出したので、
記録しておきたくなりました。

1、電話の保留音

ある日、小さい坊ちゃんが真剣に聞いてきた。
「この、電話の、待ってるあいだにかかる音楽って、なんで鳴るの?」
「うーん・・・なんでやろうな。」
「これは、『待ってる相手を楽しませる音楽』なん?」
「うーん・・・まあ、そうかな。」(こらえつつ、爆笑)


2、おべんとう

小さい坊ちゃんが、中学生になった大きい坊ちゃんのお弁当を見て、
心からうらやましそうに語ったこと。
「いじゅも早く中学生になって、残りもんのお弁当食べたいなー。」
(・・・爆笑・・・)
これは手抜きをするわたしへのイヤミでもなんでもなくて(笑)、
から揚げなど、大好きなおかずがお弁当で二度食べられる!と思ったらしく、
それがとてもうらやましく、憧れだったようです。(ゼイタク言わない子たちで、ありがたい…)
今では彼も、(ランチも頼まず)兄と同じ憧れの「残りもんのお弁当」を毎日食べています。
めでたし、めでたし。


今朝の「ほぼ残りもんのお弁当」



もの思ふ 5  10/19

もうひとつ、どこかで思っていたのは、
この日記を書きつづけていては前に進めない…ということだった。
「つれづれ雑記」として、日々のなかで感じたことをテーマを決めて書き、
ひとつの文章にまとめていた時には感じなかった散漫さを、
自身の生活の記録として、また子どもの成長の記録として、
日記としてここに書くようになってから、感じるようになっていた。
けれど、先に書いたような状況のなかで、雑記を書く集中力も薄れていて、
自覚しながらも流されてきた・・・という気がする。
ひとつの感動の種があったとして、この日記にただ感じたまま綴ってしまうと、
そこで中途半端にでもいったん感動は昇華されてしまい、
作品にまとめるところまで種が育たず終わってしまう、流れていく、という感覚がある。
ただ記すだけの「日記」と、構成する「作品」との大きな違いなのだろうと思う。
そのわりには「書き残したい」衝動の強さから、相当な時間をかけてこれを書いているので、
作品にするまでのエネルギーがたまらない、ということもある。

一方で、作品にまとめるだけの集中力が保てない日々のなかでも、
これを書き続けてきたからこそ、「書く」ことから離れずにいられた、ということも事実。
感じたことを文字にして落とす、という作業を、たとえ惰性であっても続けてきたことで、
家族の、子どもたちの成長の、自分のこころの軌跡として、
貴重な記録を残したこと、、、私的な宝物だけれど、
二度と残すことのできない、また、ほかの誰かにはできないことだったと、
それは自負していいのだと思う。
そして、こうして書き続けてくれた過去の自分が、
今のわたしにバトンをつないでくれたことにも、感謝したい、と思う。
子どもたちに、「書く」ことで愛情を伝えてくれたことにも。

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十数年にわたる日々の変化と自分の気持ちを整理しながら、
ほんとうに長い長い文章になったけれど、
明日の自分の誕生日を区切りに、風待ち日記の更新を凍結しようと思います。
それから更新できていない5月と9月の日記を、写真と記憶を頼りに書いて、
できあがったらいったん、もくじとともにアップします。
そこで、日記の更新は終わりにしようと思います。
(少々なら、ブログの方を利用するかもしれません。)

とはいえ、「とりあえず書いとかな!」という、記録したい衝動にかられたら、
どうなることか分かりませんが。。
しかも、これをやめたからといって、思ったように作品が書けるかというと、
その自信も今はわいてこないのですが。。

今まで読み続けてきてくださった読者のみなさん、
書くためのモチベーションを保てたのも、
読んでくださる方がいるということが、大きな励みになったからでした。
今では少ないと思うのだけれど、それだけに・・・
心から、長い間、ほんとうにありがとうございました。
感謝の気持ちでいっぱいです。



月に一度の…  10/18

朝陽がのぼり、小鳥たちがにぎやかにさえずる頃、大きい坊ちゃんご帰還。
月に一度の朝帰り。聞こえが悪いけど…(笑)
天文気象部に入ってから、学校での宿泊観測が月に一回、あるのです。
これが、天気を見ながら週末に行われるので、翌週にスライドすることもあり、
スイミングに通いづらくなった大きな理由なのですが。。
毎回、「夜食」と称して、カップめんやおにぎりを持って出かけていく坊ちゃん、
なかなか楽しそうです。

そんないなかにある学校でもなく、むしろ幹線道路が脇を走っていて、
「向かいのサ○ミ(うどんや)がっ。夜中1時にならんと看板の電気消えへんからっ。
 南側の空が見にくいねん。あれ、なんとかならへんかなあ…」
そんなことを、真剣にぶつぶつ言っている坊ちゃん…。(笑)
けれど学校の屋上にある天文台はかなり本格的で、維持費用も大きいぶん、
都会?ながら市民観望の講座も行われたりしているのです。

今日は帰るなり、
「一睡もしてない。」というので、「えっ。なんで?」と聞いてみたら、
(いつもは前日干したシュラフで、教室で仮眠)
「朝4時に水星と金星と木星と火星が並んで見えるから、見てくださいっていうから。
 あと、オリオン座流星群も見なあかんから。1時間寝て起きるくらいならと思って、
 寝なかった。」
「・・・・・(笑)ほんで、流星、見えたん?」
「見た。4つ。」
「えっそんなに見たん?!ええなー」
そんな会話をしながら、あーねむ!と、まだ寝ている(笑)小さい坊の横に寝にいきました。

都会の明るい夜とはいえ、空を見上げて、星を探して…
自然とつながることは、人間にとって、いちばんの元気のもとだと思うから。。
そういう活動を見つけてくれて、楽しんでくれて、とてもうれしいわたしなのでした。


周りは建物ばかりだけど

部活動説明会の見学にて



もの思ふ 4  10/17

先生とのお電話で、胸に残っていることばが、もうひとつある。
「外で何かあっても、家庭でしんどいことがあるより、いいんよ。
 私のお友達でも、言うてはる。家庭の中で何かもめごとがあると、
 逃げ場がないから、ほんまにしんどいって…。
 おうちのなかが円満で、元気やったら、それでいいんよ。外で何があっても。」

これは、縮小すれば、自分と、自分の外側との関係でもある、と思うのだ。
ヨガの先生もおっしゃっていた、
「自分自身とうまくつきあえていれば、とりあえずそれでいいんですよ。
 それ以外のことは、後回しでいい。どんなことも、まず自分からだから。」
このことばと、根本は同じなのかもしれない。

わたしにとって、「書く」ことが自分とうまくつきあう方法だったとすれば、
内側の、ほんとうの自分とつながるための、唯一の手段だったとすれば、
「書く」ことのなかにこそ、「わたしらしいわたし」がいたのだ、と気付く。
いつからそうだったのか、今ではすっかり分からないけれど…
ここ数年、過去の書きものは自分が感じたことをただ吐きだしただけで、
作品ではないという思いが強くなっていたけれど、
たとえ昇華されていなくても、それはわたしの心のすなおな足跡そのものであり、
つまり「書く」ことは、「わたしの感覚とともに生きる」ということだったということ。
それがなければ「わたし」として生きることができないから、
苦しい思いをしてでも取り戻すため、わたしの魂が望んだことだったのだろう、と…

もう10年以上も前のことになるか…
HPで書いていた頃に、ネットの海で出会った深海魚さん、柏原さん。
ご年配の男性お二人が、わたしの作品を読みつづけてくださり、時間差をもってそれぞれに、
わたしに向かって「書いてください」と、ことばを発しつづけてくださった。
その頃、わたしは子育てと家づくりと、日々の暮らしにただ夢中で…
やがて、HPをとおして知り合った書き友達も、それぞれに暮らしの綾を織るうち、
書くことから遠ざかり、ひとり、またひとり、とHPをやめていった。
そして、いつかお会いしたかった地元の深海魚さんは突然事故で亡くなり、
北関東在住の柏原さんは震災後、お年を召されて体調を崩され、
いつの間にか、やりとりすることもできなくなってしまった。
もう、わたしに「書きなさい」と鼓舞してくれる人はいないのだ、と思った時、
崖っぷちに立たされた思いがした。
この時も、人づきあいの苦しさと重なるように、「書けなくなる」危機感を感じていた。

そんなことを思い出したのは、きっぱりとした先生のことばを聞いた時だった。
ああ、まだいてくださった。わたしに、「書きなさい」と言ってくれるひとが。
そう思って、そして、最初に引用した過去日記のことばにも出会って、
早く書かねば、と思いはじめたのだった。

この日記のように、ただ、流れていく日々を記録する、という「書く」ではなく。
わたしのなかに押しこめられているものをひとつひとつ吟味し、
わたしを構成するものを見つけ、見直し、整理する、という「書く」を。
自分と自分の人生を愛するために、そして、
今はいないひとたちもふくめ、支えてくれたひとたちへ、感謝を伝えるために。

多忙な母の代わりにわたしを見守り、育ててきてくれた、幼き日に出会ったひとびと。
5歳のわたしが書いた、有珠山からの絵はがきを、わたしが作ったビーズの腕輪を、
80歳を過ぎた今も大事にしてくれている、吉田先生。
それは「保育士」ではなく「保母」であったことの誇りだ、と言って…
夕方の職員会議のあいだ、園長室で待たせてくれた、今はなき宮田先生。
「しろいうさぎとくろいうさぎ」の大きな絵本を広げて…
運動会のあと食べさせてもらった、職員用の差し入れのドーナツ。
手の指の爪が化膿した時、駅前の病院に連れていってくれた石田先生。
外科処置をがんばったら、好きなお菓子買ってあげるねと…
給食室からの脱脂粉乳のにおいと、たたらのおばちゃん。
年長の1年だけ通った幼稚園に、送り迎えをしてくれた、幸田のおばあちゃん。
おばあちゃんのいた敬老院で出会った、花谷のおばあちゃん。
その庭に咲いていたダリアの花。
低学年のあいだ、うちにいてくれたあべののおばあちゃん。
毎日のおやつ、土曜日のお昼ごはん。
おばあちゃんのところに泊まりにいった時に食べた、市場のお好み焼き。
夏の王子神社のおまつり。
やがてかぎっ子になって、妹と遠くまで通ったピアノ教室。
冬の早い日暮れ、再放送のアニメを二人で見て、父を待った。
近所の友達や、そのお母さん。少し年上の、遊んでくれたお姉さん友達。
そしてはっきりと記憶の残りはじめる高学年以降、出会ってきた友達、先生。
・・・・・

わたしはこのひとたちとの関わりを、受け取った思いを、書かねばならない。
自らを知り、自分を責める思いを癒すために。
そして、「わたしらしいわたし」へと回帰するために。

17年前…
日記帳の最後の日記を、自動書記のように書き綴ったことを覚えている。
今、17年の時と経験を経て開いてみて、日付の一致と、その内容に戦慄する。

「これからも、充実した時間を過去へ送り出すために、自分の海のために、
 降り積む過去を確かに蓄積するために。
 私という唯一無二の魂を、殺してはならない!!
 ・・・・・
 こうして書きながら、私と、私でない何かに「書かされている」
 (生かされている、に近い感覚)のを感じる。他人の評価を気に病むな。
 必ず書ける。私自身のために。」

        '98.10.17 20:20

・・・・・ つづく ・・・・・



もの思ふ 3  10/16

・・・先生との会話には、まだ続きがあった。
思いたったように、先生が切り出した。

「○○さん、書きはったらいいわ。あなたは、書く力のある人やから。
 毎日、合間にちょこちょこでも書いて、書きためて、まとめていきはったらええねん。
 題材なんか、いっぱいあるやん。
 書いてたら、外側のことなんか、気にならなくなるよ。
 私、今日お電話したら、それを言おうと思っててん。それで、電話さしてもらったの。
 ヨガ行ってはるのも、ええやん。体と心と、両方動かすのがいいんやって。
 ○○さんは、体はヨガで動かして、内側は書くことをしはって。両輪でね。
 書きはったらいい。」
きっぱりと提示された明快な答えに、突然、目の前が開けた気がした。
もちろん、今までも、それを考えなかったわけはない。
むしろそうしようと、したいと思いながらも、あまりに状態が悪く、
とてもできなかった2年半の月日。焦り、苦しんで。
プラスの感情を感じれらなくなり、本を開いても活字が目に映るだけ、
ドラマも音楽も不安感が大きな壁となって、心に入ってこなかった、あの日々。
好きなものが遥か遠くに感じられ、真っ黒な何かがべっとりついた自分の心に怯え、
巨大な不安に呑まれ、動悸とともに寝て過ごすしかできなかったあの日々。
一歩一歩…進んだり戻ったりしながら(今もまた)、
その苦しみは少しずつ、時とともに緩やかに変化していった。
ようやく心が動き、(相変わらず他人は怖いけれど)エネルギーを徐々に取り戻しつつある今、
このタイミングで、先生からこうして道を示されたこと。
ひらめくように確かに、ひとつの「答え」をもらったと感じたのだ。

思えばいつも曲がり角で、先生から大切な助言や励ましをいただいてきたのだった。
そしてそのことばはいつも、わたしを高みへと引きあげていってくれた。
大学院へ進学した時も。教員を目指した時も。出版を決めた時も。
上へ、上へ。
目には見えない、精神の高みへ。世俗のしがらみを超えて。
そしてそこで新たに、20年以上のおつきあいになる、大切なひとたちと出会っていく。
そんなふうにわたしの世界を広げてきてくださった、先生には感謝してもしきれない。

また、反面という表現になるか…逆説的になるけれど、
「書く」という内側の作業、世界に戻るには、
外の世界との心のつながり(=依存心)を、いったん切る必要があったことは否めない。
今ならよく分かる。
子育てするなかで、外側のチャンネルに合わせすぎたわたしの波長が、
もう、自分ではコントロール不可能になっていたから。。
(いつの間にか、どこかで「他者に尽くすこと」に依存もしていたのだろう、と思う)
まだ幼稚園の頃はよかった。バス停で気の合うお母さん同士で、料理やドラマの話をしたり…
大きくなるにつれて、小学校で知り合ったその人が声をかける広い「輪」に取りこまれていき、
その人の気安さから全員のアドレス丸見えの一斉メールが飛びかい、
気の合う人も合わない人も関係なく、どんどん知り合い、つきあうことを強いられた。
一対一でつきあってきた人も混ざっているから、どこかで無理をしながらも、
その「輪」に合わせていた。(方言じゃない、苦手な"じゃね"系の人も混じる…)
前に書いた、「子どもを外に連れ出せない自分」への罪悪感、自信のなさから、
自分の気が向かない時も、誘われれば外出しつづけた。
そしてその仲間全員をいい人たちだと、強制的に思おうとする自分もいた。
「いい人」か、自分に合うか合わないか、は別のことだったのに。

集中して何かを書いている時と、母友同士のメールのやりとり時とで、
その波長が大きく変化するのを自分でもはっきり感じていたくらいだから。
その上下が激しくなった数年前、人と関わる時の自分の波長を感じた時、
「このままやったら、もう書けなくなるかもしれない」と、ぼんやりした恐怖を感じたこともあった。
心身ともにバランスを崩すほどに、ここまで時間がかかるほどに、
苦しい思いをして切らなければ、どうにもならないところまで来ていたのだろう、と。
(強烈に共感した、ユングの外向型・内向型分類についての記事
そう思えば、多くの惰性的なつながりを絶ってくれたその人にもまた、感謝しかないのだろうと思う。
そして、母子問題を、ああいうかたちで見せてくれたこと。
いのちがどれほど重いものか。どれほど母が子を思っているものか。
また、自分の悲しみ苦しみをたてに、関係のない人たちを巻きこんでいいのか。
同じ「母親」でも、わたしの母は、そんな人間だったか。
母はわたしを、そんなふうに育てたか。
たくさんの疑問符を、わたしに突きつけてくれたことへ。

・・・・・ つづく ・・・・・



かくれんぼむー  10/15

押入れをそーっと開けたら。。


むーがかくれんぼしていました!
ライチョウ(中)も一緒に。。


小さい坊のハンカチをかぶって、誰か驚かそうと、いちにちかくれていたらしい。(笑)


・・・押入れから出したのは、今年のおみそ。
かびよけの粉わさびが、すっかり変色。
そろそろ、解禁です。



植え替え  10/14


オキザリスの白い花が、気付けばすくすくとつぼみをのばしていた。
毎年すっかり忘れた頃に、葉をひろげ、花を咲かせてくれる。
そして、誕生日が近づいていることを、そっと教えてくれる。
ささやかだけど、開くととてもかわいい花。
夏の暑さを地中で越えて、秋の風にそよぐ、清廉で優しい花。


まだ暖かいうちにと決心して、植木の植え替え。
何年も気になっていたことがすんで、胸がすっとした。
花の季節じゃないものがほとんどだったので(笑)、少し寂しくて、
"薄紅の秋桜"をひとつ、買ってきて植えてみた。
残る季節は少ないけれど、今の気持ちにあった、優しい花。



図書館にて  10/12


図書館を出て自転車をこぎだしたら、ふと香ってきたきんもくせい。
思わずハンドルごと引き返し、目で追った先に、大きな木を見つけた。
青い空をバックに、秋の光に輝く金色の花。
今年は2週間ほど前に出会っていたので、もう終わり頃かと思っていたけれど、
ここでは満開。まだまだ、あちこちで香っている。



もの思ふ 2  10/12

1ヶ月ほど前のこと、学生時代から長らくお世話になっている先生
(…大学の先輩でもある恩師)から、お電話をいただいた。
先生はお忙しいのに、いつもいつも、わたしを気遣ってくださって、
折々にお手紙やおくりものをいただいたり、坊たちにもお菓子やお祝いをいただいたり…
本当に、こちらが申し訳ないと思うほどに、いつもいつも、温かく見守ってくださっていて。
わたしがふと、お礼の手紙に書いた弱音を気にして、わざわざかけてきてくださった。
もう誰にも話さない、と思っていたことを話したとき、突然きっぱりと先生がおっしゃった。
「○○さん、あなたは学生時代からぜんぜん変わってない。私にも…もう、何年?
 30年くらいになる?…こんなに長いこと、こんなていねいに、今も手紙をくれたり、
 やりとりしてくれるの、 あなたと、もうひとり、研究室にいたKさんくらいやわ。
 こんなん、そうそうないよ。
 だから、そんなの全然気にしなくていい。そんな人からは、離れてよかったんよ。正解よ。
 そして、分かる人には分かってると思うよ。」
3月・大きい坊の卒業式、、、わたしにとっても大きな区切りであるその場に、
その人や取り巻きが来るから、わたしはひとりで式だけ見てすぐに帰った…ということにも、
(さらに卒業式終了後、そのままの体育館を借りて、その人たちだけで卒業式をしたらしかった)
「…それは…行ったらあかんと思うわ。どんなに行きたくても…。
 いくら悲しみが大きくても、周りのことを思ったら…。自己中心的な人やったんやと思うよ。」と。
それは、わたしも「自分だったら」と考えた時に、思ったことだった。
悲劇のヒロインというにはあまりに重い、悲しみの共感を、親として皆、当然持っていたのだから。
大きい坊自身も、自分が生きていることに罪悪感を感じる、と言っていたくらい…
そんなふうに周囲に感じさせてでも、自分の悲しみが優先なのだろうか?
わたしには、悲しみの大きさよりも、それで注目を集めることが優先しているように見えたのだ。
そう感じたのだけれど、、、あの時、あの状況で、その直感に従うことは恐ろしいことだった。
・・・・・
自分のなかで、まだ整理がつきかねて、思いを書き連ねてしまったけれど。
何よりこのとき、わたしにとって大切な先生のことばに救われた。
わたしの感覚は、間違っていない。
そして、わたしは、何も変わっていないのだ、ということ。
あんなひどいことをその人に言った…と、真っ黒に汚れたように感じていたわたしが。
うわさでたくさんの人が離れて、出会っても目をそらされていたわたしが。
涙が出るほど、うれしかった。ありがたかった。
もういいんだ、と思えた。
今の自分が「自分らしさ」への違和感を感じていたとしても、
「わたしらしいわたし」を育ててくれた大切なひとたちの心のなかに、
ちゃんと「わたしらしいわたし」はいるのだ、と。

幼なじみのお母さんから、今年いただいた年賀状にも。
「・・・ここにいた頃の貴女に戻ってきましたか。」

・・・・・ つづく ・・・・・



もの思ふ  10/11

9年も前の日記に、こんな文章を見つけた。

しばらく生まれ育ったところで過ごしていたら、
名古屋での自分が、遠い存在に思えた。
わたしはあそこで、ずいぶん力んで暮らしてるなーと、
ここで作られたわたしらしいわたしは、どうなったんだろうなーと、
寂しいような、なんともいえない気持ちになった。
ことばにしろ、ひととの関わりにしろ。
なにをどう力んでいるのか、
うまく表現できないのだけれど。
あそこで、自分らしい自分を作っていかないと。

そんな小さな決心も持ちつつ、
でももう戻らないものなのかも、とも思いつつ。

(2006/5/7)

この感覚、ずっとずっと、書いてきている。雑記にも。
そして、今もやっぱり、感じている。
ことば、住む場所、環境、立場、関係…
何がどう、違ってしまったのだろう。
「わたしらしいわたし」は、どこへ行ってしまったのだろう。
その答えを探るように、古い日記のなかをさまよった、数日間。

ひとつには、子育てという、人生で初めての経験があったからだろうと思う。
生まれ育った場所から離れ、オット以外に近くに頼れる人もなく、
さらに子どもをとおしての、未経験の人間関係が始まり…
その微妙な距離感をどう扱っていいのか、
自分の性質とまったく異なる世界と人々に、どこまで合わせればいいのか分からず、
ずれを感じるたびに落ちこみ、罪悪感を感じた。
日記にも、「子どもたちを毎日公園に連れていけない自分」や、
「家のなかでひとりでいる方が落ち着く自分」や、
「たくさんの人(お母さんたち)の顔や名前を知らない自分」や、
「公園や道端での、大勢の会話についていけない自分」etc、etc、に、
どうしていいか分からなくなっている場面がたくさんあった。
子どもと一緒になってあそびを楽しむひとたちを見ては、
そこまで子どもに入りこめない自分の感じ方ややり方が、おかしいのかと疑い、落ちこみ…
近所づきあいも然り、、、
まだ子どもたちも友達を選ぶ以前の年齢で、一緒に顔を合わせる場面が必ずあるため、
井戸端会議好きなひとたちに合わせていた最初の頃はほんとうに苦しく、
ムリにでもテンションをあげて、自分らしくない波長にならないと、つきあうことができなかった。
本当は苦しかったんだ、とあらためて感じる、今。
いろんな場面で上手に切りあげる器用さ、賢さがあればよかったのだけれど、
わたしにはそうやって、「自分を守る」知恵どころか、考えにすら行き着けなかった、当時。
「自分が苦しい」ということにすら、気付けなかったのだから。

それでも、自分の「手」を動かせていたうちは、よかった。
自分の「手」を使って、パンを作り、縫い物をし、写真を撮り、作品を作り…
何かを作り出すことは、外側から自分の内側に戻る大切な手段だったのだろうと思う。
そう、自分の針を、ゼロに戻すための。

けれどそこから徐々に離れ、「このままの自分ではいけない」と、
こころの問題にフォーカスしはじめた数年前から、決定的に何かがねじれてしまった。
4年分の手帳の余白にびっしりと、読んだ本や経験から得た、
生きる方針、正さなければいけない部分、が書きこまれている。
自分の「影」の部分を追いつめ、正そうと焦点化することで、
どんどん自分がつまらない人間に思えてきて、もっと良くしなければ、と、
プラスの対応=「光」ばかりを追い求めるようになった。
人のいいところを見なければ、温かく対応しなければ、と思うあまり、
いやだなと感じることを意識下で自分に許さなくなり、
自分に合わない場でも人でも、「自分の感覚がおかしいのだ」という考えが、
以前よりもどんどん強くなっていった。
不満がふくらんでいくのも感じながら、
同時に「自分の汚い部分を見せてはいけない」という感覚も出てきて、
また、「傾聴の大切さ」などをヘンに学んだおかげで、
当たり障りなく聞き役に回り、相手主体の会話ばかりをするようになっていた。
そしてそんな会話をしている最中には、「自分が消えてしまう感覚」があった。
ほんとうは、しゃべることが好きだったはずのわたしなのに。

運動会の日の夜。
わたしがいろんな人としゃべっているのを横で見ていたオットー、
「もっと大阪弁でしゃべった方がええで。」と言う。

「えー!かなり大阪弁やと思うけど。イントネーションなんか、変えようないし。」
「最初にしゃべった人おったやん。あの人となんか、全然大阪弁じゃなかったで。
 あんなんじゃ、本性出されへんわ。もう、あの人にとってママは、"ええ人"でしかないわ。」
「どーいう意味やねん!」(爆笑)
わたしの本性は、「ええ人」ちゃうんや…。

オットーが言うには、かなり周囲に合わせた(ナゴヤ弁は、しゃべれないけどね。。)
ナゴヤ的しゃべり方をしているらしい。

(2013/6/1)

この頃には、もう限界に苦しかった。
それは、エネルギーを大きく奪われる場に行くことを強要される苦しさだった。
これ以上親しくつきあうのは苦しいと思った人と、距離を置こうとしたときにはすでに遅く、
ある大きな事件に巻きこまれ、ものすごく苦しいのに苦しいと言えない状況に追いこまれ、
家で「あそこに行きたくない」と号泣したこともあった。

今思えば、欠点を直せない自分を嫌い、責める思いがエスカレートしていて、
自分で責任を取る苦しさから逃れるために、
ずっと抱えてきた母への恨みつらみが大きくなっていったことも、遠因だったと思う。

自己啓発のプラス思考のわなや、自分の欠点を直そうという思いがなければ、
ただ、自分の好きなことを追求していれば、
もっと外側とも、うまくやっていけたのかもしれない。
そして、「自分」ともほどほど、仲良くやっていけたのかもしれない。

けれどこうして、振り子が大きく振れたおかげで、
陰陽は表裏一体であり、どちらも消すことはできないと気付き、学ぶことができた。
事件によって人もふるいにかけられ、必要のない人はすべて離れていった。
そして、古い日記に書かれていた、この想いを再確認したから…
「わたしらしいわたし」にどうすれば戻れるのか、やっぱり分からないけれど、
「わたしらしいわたし」を育ててくれた大切なひとたちは、
ずっとわたしの心のなかにいるから、もう、それでいいのかもしれない。

年月はただ流れ、ブッダ最期のことばどおり、すべてのものは、移ろいゆく。
みなそれぞれに、年を経、場所が変わり、立場が変わり、関係が変わり、
周囲の人間もまた、フォークダンスのようにくるくると変わりゆく。
子どもだった自分、は確かにわたしの中に生きているのに、
すでにわたしはおとなで、親で、
おとなだった親はまた、そのずっと先を生きている。
お世話になった大切なひとたちに、万分の一もお返しできないまま、
ただ皆、年をとってゆくことにある日気付き、愕然とし、
「ごめんなさい」とつぶやく。
こうして年老いてゆくのだ。
そして、死んでゆく。

(2006/10/13)

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深夜、子どもたちとオットの寝顔をながめ、
こうして出会えたありがたさをしみじみかみしめる。
共に生きる、長いようで短い時間を充足させること。
わたしたちに生を与えてくれた両親、生を支えてくれた恩人たちに、
元気なうちに孝行すること。
シンプルに、なめくじの心になって生きていけば、
大筋は間違わずに、この生をまっとうできる、きっと。

ものおもふ、夜。

(2007/6/24)

・・・・・ つづく ・・・・・



夏の成果  10/8

「夏のあいだがんばった人、手を挙げて〜??」

「はーーーーーい!!」

「きみが一等賞だね!おめでとう!」

・・・・・
そんなひとり会話をしながら、夏のあいだに伸びすぎたポトスのつるを、
冬の寒さに備えて散髪したわたしでした。。
ああ、さっぱりー。


おまけ、小さい坊の「ぼくのおあそび」第二弾。
「金色ワイヤー・見つけたらテーブル引き出しの取っ手にぐるぐる」の巻。。



新顔さん、いらっしゃい  10/5


先週末、ついに新しい炊飯器を購入しました。
苦節17年と半年。。

結婚した時からの、唯一の家電である炊飯器(右)。↑
今もおいしいごはんが炊けるのですが、内ぶたのゴムパッキンが伸びてしまい、
セットしても時々落ちることと、内がまのメッキのはげが悩みでした。
保温を使用していないので、これだけ長持ちしているのかと思いつつ。。
使えるものを買い換えることに罪悪感もあり、
たびたびの「ゴムパッキン落ち」にテンション下がりつつも、使いつづけてきました。
(今さら、17年前の消耗品買い替えはありえないため…)
しかし…
このところのごはん炊き回転の激しさに、ついに買い替えを決意。。
ぐずぐず言いながら、オットーに引きずられるようにしてホームセンターへ…。


かろうじて止まるパッキンの図

持ち手つき・はげはげ内がま

フクザツ構造の内ぶた

持ち手なし・ぴかぴか内がま

さてさて…1週間、箱のまま放置後、本日初炊飯に踏みきった新顔さん。
そして同時に、旧・炊飯器でも同じ量のごはんを炊いてみる!
食べくらべをした結果…なんと、どちらも同じようにおいしい!(笑)
新米やったしね…。(笑)

そういうわけで、夜=古顔さん担当、朝=新顔さん担当で
(古顔さんは、セットできるけど、タイマー機能がややこしくなっているため!笑)
ふたりでしばらく、がんばっていくつもりです。(ええっ?!)


「どうぞ末永く、よろしくお願いいたします。」ぺこり。



卒業  10/3

実は坊ちゃんたち、小さい頃からの習いごとを、今も細々と続けています。
塾にも通わず…(日にちがない)未だに、ピアノ・習字・スイミング。
さすがに高校入学を機に、辞めることを考えたのですが、
愛着もあってか、「とりあえず、ようす見るわ」と過ごすこと半年。
部活動が週末に入るようになり、また家族の予定が入ることもあり、
今まで土曜日固定だったスイミングを、いよいよ退会する決心をしました。
きっかけは、たまたま、大きい坊ちゃんの足の親指が化膿してしまったこと…。
水につけることを止められて、予定も合わせ、1ヶ月ほとんど通えない状態になったのでした。
小さい坊ちゃんも、大きい坊が辞めるなら…と決心したようでした。
(わたしもそろそろ、車での送迎を卒業したくなっていたので…。)

思えば幼稚園年中さんになりたての頃、お隣さんとの会話から、
「スイミング習っておいたほうがいいよねえ…」ということになり、
同じ園バスだったお友達のお母さんに教えてもらい、スクールの見学に行ったのでした。
車に乗れなかったわたしは、バス送迎のあるそのスクールに決めて、
小2の終わりごろまで、一緒に送迎バスに乗ってスイミングスクールに通いました。
やがて小さい坊ちゃんも一緒に通うようになり、わたしは送迎バスを降り…
ゆっくりゆっくり上達していった大きい坊ちゃんが、送迎バスのない日の上級クラスになり、
辞めるか続けるかを迷った末、車に乗りはじめていたわたしが送迎することになりました。
そこから今日まで、もう5年ほど。
大きい坊ちゃんの入会からは、11年半の年月が経っていました。

そのあいだに、スポーツ万能のお隣の坊ちゃんはじめ、
一緒に通ったお友達は、ひとり、またひとりと辞めていきました。
最後に残ったのは、我が家の兄弟だけ。

退会届にある、辞める理由の項目欄で、
「目的を達成したから」「学校や塾の時間と合わなくなって」を選び、
気付けば「目的達成」は二人とも、とうにしていたことにあらためて気付きました。
基本の4泳法はじめターン・飛びこみはすべてマスターし、自己ベストをのばしていくクラスで、
健康維持と体力づくりのために続けてきた、ここ数年でした。

退会届の用紙をくれた受付スタッフの方が、長くお勤めの方らしく、
我が家の兄弟の成長を、ずっと見ていてくれたのだそうです。
大きい坊ちゃんがわたしに、
「あの人、ずっとおると思うで。平日通ってた時もおったし、
 土曜日になってからあまり会わなくなったけど、たまに見かけるから。」と話していたのですが、
受付に行くと、その方がまったく同じことを話してくれたのです。
「こんな(手で)小さかったのにねえ。私も平日がメインなので、
 まだ平日のクラスだった頃によく見かけていて。土曜日はめったに出ないんですけど、
 たまにお見かけすると、ああ、大きくなったなあ、って思ってたんですよ。」
「わーそんなふうに見てくださっていて、うれしいです!ほんとに長いこと、お世話になりました。」
 「(坊たちの会員番号を指さして)この、100・・・で始まる番号の人は、
   もうほんとにいないんですよ。みなさん、辞めていかれたから…」
このスクールは5年ほど前に運営する会社が変わって(吸収?)いて、
コーチやスタッフも顔ぶれが変わったりしたので、こんな方がいてくださったことに驚き、
胸がいっぱいになりました。

思えば、「泳げないから、習わない。」と言っていた(笑)小さい坊を、
短期講習で上手に水に誘ってくれた、ほめてくれた、年若い女性コーチ。
スクール名が変わってから転勤していかれた、ふたりとも長くお世話になったコーチ。
バスの送迎をしてくれた、そしてバスを降りてからも、会えばあいさつしてくれた運転手さん。
お休みや振替の受付をしてくれたスタッフの方々。
淡々としたおつきあいのようで、それも細く長く続くと、心が残るものです。
今はいない方が多いなか、今日お会いしたスタッフさんと会えて、話ができて、
本当にうれしかった。
そして、ありがたかった。

成長期に、からだを動かす技術と健康そのものを授けてもらったこと、
からだだけでなく、泳げる自信も育ててもらったこと、
そして、その過程を見守っていてもらったこと。
11年半の歳月と成長を思い、感謝の念に堪えません。

通いはじめた頃、まだ4さいだった、大きい坊ちゃん。
このときの写真が、今も会員カードに貼られています。


11年半、ほんとうにありがとう。おかげさまで、こんなに大きくなりました。



以下、過去日記から見つけたスイミングの記録。

■ 2006年 ■ (小1)
ふしうきができた   4/19


この五月で、スイミング二周年を迎える、大きい坊ちゃん。
いちばん下の級から、半年かけてひとつ合格して、
それ以来一年半、なんの変化も見られない、大きい坊ちゃん。
かといって、スイミングがきらいというわけでも、ない。
一緒に通っていたお友達はどんどん級が上がっていって、
遠くのレーンになり、やがて、違う曜日に変わったり、やめたり、していきました。

今も一緒に通っているお隣の坊ちゃんも、
ぐんぐん級が上がっていった組。
お着替えも、昨年からお母さんが手伝いに入らなくてもできるようになり、
この春からは、自分ひとりで送迎バスに乗って通うように。

さっぱり進歩が見られないうえ、自分ひとりではお着替えができないと泣くし、
ママが一緒にバスに乗らないといや!という大きい坊ちゃん。。
ここで手を貸してばかりは、甘やかすことになるのかなーとか、
成長の時期はみんな違うのだから、手をかけてあげていいのかなーとか、
悩むという文字ほどには悩んでいないけれど、気がかりではありました。

今日、たまたま、更衣室に入るタイミングが遅かったわたし、
入ってびっくり。坊ちゃん、なんとひとりでほとんどお着替えを終えていたのです。
泣かずに、ちゃんと…。
そして、わたしの顔を見るなり、
「まま、ふしうき、できた!」と、意気揚々と報告してきたのです。
二重のびっくり。
あまりに突然で、うれしいやら、さびしいやら。。。

思えば、この子の成長はいつも、ある日突然むくっと起きるので、
驚かされ、また寂しい思いに駆られたものでした。
それが、ひさびさに感じられた今日。

子どもは、ちゃんと、自分のちからで大きくなっていくのだなあ…


5/17


今日のスイミングの終わりのこと。
大きい坊ちゃんのお着替えに入ったら、
「まま、ええで。じぶんでやるから。いじゅがなくから、ままはいじゅのとこにいってて。」
きっぱりとそういうので、なんだか、しっかりしたなあ。。。と、
成長ぶりにまたちょっと、感慨と寂しさを抱きながら、
更衣室を後にしました。


苦節、1年8ヵ月。   8/30



大きい坊ちゃん、スイミングの送迎バスから降りてくるなり、
賞状をひらひらさせて走ってきた。
「ままー!みてー!ごうかくー!」
スイミングに通い始めて2年と4ヶ月、初めて級が上がってから、1年と8ヶ月。
やっとやっと、二度目の合格をしたらしい。
余りに合格しないので、気長に行きましょーを通り越して、
合格というものの存在すら、忘れていた昨今。
坊ちゃんが、わたしの付き添いなしでバスに乗ってくれるようになったのも、
通い始めて2年を過ぎた、この7月から。

ゆっくりゆっくり、だけど確実に、
子どもはちゃんと、自分のペースで、
自分のちからで、成長していくのだなあ…
わたしの心配も手助けも、まるで必要ないかのように。

そんなことをあらためて思い、重い気持ちがしばし、ぱあっと晴れわたったのでした。


スイミングに行くまえのおやつタイム。
ふたりでひとつのいすにすわって食べてるところ。
あさがおは、大きい坊ちゃんが育てたもの。
遅咲きだったけど、この子もまた、自分の時間をちゃんと知っている。


■ 2009年 ■ (小4・小2)
次なる目的  1/14


大きい坊ちゃんは、かれこれ5年近く、スクールバスでスイミングに通っています。
スクールの基準が厳しいのと、慎重な?性格ゆえにとで、
なかなか進級しないのが悩みなのですが、
来春、4年生になると、授業時間の関係で、スクールバスには乗れなくなるのです。
スイミングのクラスはあるのですが、バスの巡回時間に間に合わなくなる。。
なので、必然的にやめることになるなと残念に思っていました。
あともう少し、泳げるようになってくれるといいんだけど…

という状況だったところに、突然、ペーパードライバー返上への挑戦。
もし、車に乗れるようになったとしたら、最も役立つだろうと思われるのが、
このスイミングだったのです。(あれ?英文直訳みたいな文章…)
5年の、悲願の、スイミング・自力で送り迎え。
(幼稚園〜1年生までは、わたしも毎回、一緒にバスで通っていたのです。)
これができれば、病気で休んだ時にも、振替授業を受けさせてあげられる。。
(今までは、それもオットーの休日にしかできず、欠席は欠席のまま、終わってしまっていました。)
それに、ほとんど行ってあげていない見学も、好きな時にできるようになる。
ということで、次なる挑戦は…

勇気を出して?隣の市にある、スイミングまで、行ってまいりましたっ。
小さい坊ちゃんを積んで。。

むかーし。。ふたりが、幼稚園だったころ。
一度だけ自転車で、前と後ろにふたりを積んで、寒空の下、振替授業をしたことがありました。
坂も多く、片道数キロある、スイミングまで。。
車の多い、大きな道路沿いの歩道を、えっちらおっちらと。
今思えば、あれは曲芸だったなあと(笑えない…)、よくやったなあとあきれます。
あのあと、カゼひかせてしまって。
ムリしなければよかったと、後悔したっけ。
・・・・・
そんな思い出が胸をよぎり、
自分で車を運転してここまで来られたことに、深い感慨を抱いたのでした。
数か月前には、想像もできなかった事態に、自分でも驚いています。
もっと早くこうしていればよかった?
…いえ、今、いろんな条件が整ったからこそ、できたことなのでしょう。

そして、車を運転することで、徒歩や自転車で移動する時にも、
今までと違う目線で気をつけることができるようになった。
これは、ひとつの大きな収穫でした。

エコロジーのためにも、最も信頼する自転車をいちばんの相棒として。
その能力を超える場面では車も利用できたらいいなと、
そういうスタンスで。。がんばります。


水泳講習の成果は…  7/24


小さい坊ちゃん、今日まで5日間、水泳の短期講習に通っていました。


大きい坊ちゃんは、幼稚園の年中さんから通いはじめたスイミング。
小さい坊ちゃんは、誘っても誘っても、「いじゅはおよげないから。」と言って、
なかなか行こうとしてくれませんでした。(↑いいわけが・・・ 笑)
まあそれならそれで、と思っていたのだけれど、
今年たまたま、短期講習の募集前にそれに気付いたので、行ってみる?と声をかけたら、
少し心が動いたようで、申し込みをすることになったのです。

これが5日間通ううちに、みるみる上達。
というか、実際には、技術が向上したというよりも、
本人が、できる!と自信を持ったようで、後半は気持ちに余裕があるのがわかりました。
短期講習中にあった学校のプール学習でも、
「スイミングでならったことばっかりやったから、ぜんぶできた!」と、
喜んで報告してくれて。
そこで、「本科に入ってみる?」ときいてみたら、「やってみたい!!」と、目を輝かせて言うのです。。
「およげないから…」と長らくしりごみしていた子が、たった1週間ほどでこんなに変わるのか、と、
気持ちの面での成長に、本当にびっくりさせられました。
じょうずに指導してくださった先生、そして、着替えの介添えをしてくれた大きい坊ちゃんに、
感謝です。
1週間前には想像もしなかったことですが、
今週から、きょうだいそろってスイミングに通うことになりました。