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心からのことばを話そう  2/27

1週間が過ぎて…書き留めておきたい、と思いながら、一方で、
書き留めるのでなく、ただその感覚を味わっていたい思いも強く、
忘れていくのを恐れながら、その場面を何度も思い起こしては、反芻している。

思いがけない来客があり、長い会話をしたときに、
反芻していたことばとそのとき感じたこと、を、再び確認するような思いがした。

「たましいからのことばを話す」、ということ。
自分の心から自然にわきあがる感覚に忠実に、
相手に正直に、フラットに、伝える、ということ。
感情の上下で、そこについ色づけしてしまいそうになることに気付くこと。
余分な賛辞はいらない。保障もいらない。
守りも攻めもなく、ただ、シンプルに。そのまま、伝える。
そして、相手の反応に期待をしないこと。
これはなかなか難しいけれど、
それぞれの人に、それぞれに生きてきた道すじがあることを理解する、
たいせつな一歩でもある。

たましいからのことばを話せば、それに共鳴してくれる人に、必ず出会える。
わたしのことばは、その人の心の奥深くまで届き、
その人のことばもまた、わたしの心の奥深くに響く。
その確かな共鳴は、それまでの関係性に関わりなく、
ことばでは言い表せない、見えない絆となる。
そんなことを強く感じた、いくつかの出会いと、愛おしい会話。

心からのことばを話そう。
自分のために、そして、大切な人のために。



届いた!  2/27

採用記念品、坊ちゃんあてに届きました!3回目!わーい!
すごい確率の採用なので、本当にうれしい。




英語の発表  2/24

大きい坊ちゃん、冬休みの英語の宿題を、発表を終えて持ち帰ってきました。


英語の教科書の内容にそって、著名人をひとり選び、
学んだ構文を使って、英文で紹介するというもの。
悩んだ末、彼はチャップリンを選びました。

まず、日本語で下書きを作り、それを英訳していく、という方法です。
(もちろん、英訳サイトは決して使わないようにという事前指導も。笑)

チャップリンの人生について、本やネットで調べていくのですが、
妙にチャップリン情報が多い我が家では内容が盛りだくさんすぎて、
この小さな画用紙のなかに収まるように、うまくまとめるのは結構大変!
ポイントを押さえつつ、彼の一生をなぞるように書いて、、、
(アメリカに来て、すぐ映画制作に入ったような、
 「独裁者」作って、すぐ死んだような、そういう時間差は、気にしない。笑)
なんとかまとめて、英訳を完成させました。
本番、英語での発表は、持ち時間が気になって早口になってしまい、
うまくできなかったと言っていましたが。。

読み返してみると、なかなか端的に、彼の生涯・人・仕事がまとめられていて、
チャップリンが大切にしていたものがちゃんと伝わってくる文章になっていました。
気に入ったので(笑)、どこかに貼っておきたいなあ。



読まれた!  2/22

大きい坊ちゃん、れいの受験エピソードを書いて、
さだまさしの、深夜の生番組あてに送っていました。
そうしたら、、、はがき、読まれた〜!バンザーイ!
そのままではなく、まさしさんがまとめながらでしたが、
起きたできごとと、坊ちゃんの反応について話してくれました。
うれしくて、何度も巻き戻して、見ました。(笑)

「精霊流しが問題に出るなんて、さすが、名古屋ですね。最初に売れた街…」

後日談、
この2日後に坊ちゃんと行った病院で、いつもさだ話をしてくれる看護師さんが、
「○○くん(坊ちゃん)、読まれましたね!最後の方で!見ました!」と言ってくれて、
うれしくて、うれしくて、またまた高揚したわたしでした。



奇跡の一日  2/22

思いもよらない、不思議な流れに導かれた一日。
出かけるまで、自信も喪失したまま、ぐずぐずと言いつづけていたのに。
予定したとおりにすべてが流れ、予定以上のものをめいっぱい受け取って、
目に見えない大きなちからに、間違いないよと背中を押された。
「無限の日」=ひとつのサイクルが終わり、次のサイクルが始まる日、だという、この日。
そこに引き寄せられてきたものは、ただごとではなく。
すべてに受け容れられていることの、安心感。
ああ、こうだったんだ、、、という、深い深い、気付き。
ただただ、感謝の一日。



偶然 その2  2/19


オットーが、突然、ぐりとぐらのハンカチをプレゼントしてくれました。
たまたま、講習のために街に出て、「ぐりとぐら」展に出合ったらしい。
可愛すぎて!たぶん、使えません。。
どっかに飾ろうかな。。

翌日。
大きい坊ちゃんがポストから取ってきてくれた、一枚のはがき。


なんと!ぐりとぐら!!
しかも、切手までおそろい!
…そういや、わたしもこのセットを作って、友達に送ったな。(笑)
それがこうして、別の友達から今日、送られてくるなんて!
ぐりとぐらが連なる偶然に、びっくり。



偶然 その1  2/18

晩ごはん後の、つれづれ会話にて。
別の話題から、シネマ・ヴァージョンということばにひっかかって、
「そういえば、公式サイトで"風に立つライオン(シネマ・ヴァージョン)"ってなってたけど、
 映画のために、28年も経ってレコーディングしなおしたんかなあ?」ときくと、
「せえへんやろー。」とオットー。
「じゃあ、リマスタリングとか、そういうのかな?」と言いながら、
片手でパソコンのメールチェックをしていたわたし。
そこに、購読しているさだまさしのメルマガ臨時号が入ってきた。
何も考えず開いた一行目、
「時を経て実現する映画化にあたり、映画のエンディングに使用される
『風に立つライオン』が28年ぶりに再レコーディングされました!」

・・・・・・。
「・・・な、なんか、答え、来てるけど…。」
「なに?」
「今、しゃべりながらメール開いたら、28年ぶりに再レコーディング、って書いてある。」
「ええー」

・・・・・。
こんなタイミングで、こんなことって。
すごすぎる…。
わたしら、「さだまさし」で、どれだけ自己一致してるんやろ。(笑)

この2日後のこと。
坊たちと晩ごはん食べながら、東京のおみやげの話をしていたら、
106曲をランダムに入れてあるさだまさしのCDから、脈絡なく「東京」がかかりだして…
「うわ、東京の話してたら、『東京』。」
坊たちもびっくりの、偶然がありました…。
我が家、どこまで「さだまさし」。(笑)



スノードロップ  2/18

昨秋、気まぐれに植えた(埋めた)スノードロップ。気付いたらつぼみが!


2日後には、花弁がみっつに開いていました。
なんて可愛らしい!と、興奮しながら撮影。
日陰なのに。。春を告げる花、と書かれていた、ラベルのとおりに。
太陽が高くなってきたのを、ちゃんと分かっているんだね。


そして、先日咲いたクリスマスローズ。
株分けした小さいほうの株も、花を咲かせはじめて、ほっとする。
大きい株のほうは、つぎつぎと。
自分の季節をちゃんと知っている花たち。
太陽とともに、あるがままに、淡々と。
根を伸ばし、葉を開き、花を咲かせ、実をつける。
与えられた環境のなかで、ただ「在る」ことの喜びを、そのいのちをもって教えてくれる。



ひなあられ  2/15

友達から、バレンタインのチョコレートと一緒に、
「とよすのひなあられ」が届きました。


この時季になると、これが必ず脳裏に浮かぶのです。
先日、実家からはっさくが届くことになった時に、
一緒に頼もうかなーとぼんやり思いながら、結局、言いそびれていました。
それがこうして、届く喜び。ありがとう〜

ほかのひなあられが淡白に思えてしまう、味のバリエーションの豊富さ。
なんといっても、子どもの頃から大好きなチョコあられ入り!
次に好きな、「黄色い甘いの」。
どうやら、しょうがだったようですが。。この2種類は、妹と競争で食べた。(笑)
小さい坊ちゃんも、チョコあられが好きなんだそうです。
二代にわたって人気者。大事に食べよう。


写真を見ただけで、懐かしい色と味のカラフルさに、心躍る。とよすバンザイ!



ピスタチオ・アート  2/10

おやつのじかんのおたのしみ。


今日は、ミッフィーちゃんでした。
せっせとシールを集めて、ローソンでもらったお皿がかわいすぎて!!
飾っていたので、それをお手本に。
顔を子どもらしく?作るのがなかなか難しくて、
「ふわおじさん」(=おとうさん)になってしまうところに苦労しました。
そして、作りながら坊たちが気付いたこと、
ずっと使っている大きい坊ちゃんのおやつのお皿が、まったくおんなじ絵柄でした。


おまけ、
架空の企業「ミートン」のキャラクター、ミー太くん。
大きい坊のお誕生日に、クラッカーから出た大量のテープの芯使用。(笑)




Nさん  2/10

帰宅したら、携帯(家に置き去り)にメールが2通、届いていた。
1通は、アドレス変更のお知らせメール。
2通めを開いたら、同じひとからの、短いあいさつメールだった。

彼女とのつながりは、思えばもう、25年くらいになる。
連絡が取れなくなった数年間があったのに、
そして今は、お互い住んでいる場所も遠く離れているのに、
今もこうして時折、ふと連絡を取りあうことがある。

"出逢いはいつでも 偶然の風の中"
インターネットのなかった時代、始発電車に乗って、
コンサートのチケットを取るために何時間も並んだ若き日。
その列の中で、まだ高校生だった彼女と出会った。
それからの数年間、コンサートで偶然出会ったり、一緒に出かけたり。
卒業や就職、結婚、そんな節目をそれぞれに過ごしながら、
今まで細く長く、心を温めてくれる友達でいてくれた。
環境の変化で連絡が取れなくなった数年後、
突然年賀状で近況を知らせてくれた時の、うれしさ。

人の縁って不思議だなあと、しみじみ思う。
どんなに近くにいても、つながらない、つながれない人もある。
どんなに時間を共有しても、いずれ遠ざかってゆく人もある。
そんな数多の出会いのなかで、彼女のように、
密ではなくても、生きてきた道のりの半分以上を、淡々とつながりつづけるひとがいる。
「Nさん」と旧姓で呼びかけることになんのためらいもなく、
変にことばを選んで迷うこともなく、ただ心のままに語りかけられる、
旧き良きたいせつな友達に、深く感謝して。



「平和の俳句」から〜つづき  2/7

先日書いた、あの大きな事件関連があっという間に小さな記事になり、
連日、また新しいニュースで騒がしくなっているメディアを見ていると、
冷めた気持ちになるのは、わたしだけだろうか。
取捨選択して思考し行動する、そのひますら与えられない、情報の洪水。
その中で溺れているような、わたしたちの日常。
苦しくなるので、わたしは情報番組をほとんど観ない。

メディアの発達した今、情報がなければ不安で求め、情報を得ても不安で。
けれどそれらも、"伝わる"という性質上、すでに真実ではない。
どこに、誰のどんな意図が潜んでいるかも分からない。
意図がなくとも、認知の歪みは、誰にでも、どこにでも生じる。
それは日常生活から、大きな事件にいたるまで、情報すべてに共通すること。
それに振りまわされ、自分自身の真実を聴けなくなったら、本末転倒だ。
(わたしの場合、そのじゃまをするのは、「情」なのであると気付いた。)
情報は、過分には得ないことと、取捨選択する軸を常に意識すること。
自分には何が必要で、何が必要でないか。
他人にとって良いものが、自分に合うとは限らない。
世間の評価軸に沿うことが、自分の幸福につながるとは限らない。
自らの内に答えを求め、満たすことこそが幸福であり、
それは決して、外側からはやってこないのだと。

不安。
一人一人から生まれるその小さな火種が、社会へとひたひたと滲みだして巨大化し、
大きな風になって人々の心へと還り、火種をあおる。火が大きくなる。
その媒介が情報なのだろう。情報が多ければ多いほど、その怪物は育ち、笑う。
透明で目に見えない"カオナシ"に支配された循環の果てにある悲しい事件、そして戦争。
それを「えさ」にして、また、"カオナシ"は巨大化していく。
このくりかえしに気付き、「一人」の心に還ること。
自らの不全感にただ寄り添い、癒すこと。
"カオナシ"をもとに戻し、火種を消す手がかりは、ここにある。
・・・ここにしか、ない。

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古紙に出してしまった1月前半の「平和の俳句」作品を、
新聞社のHP上で見ることができたので、心に残った句のつづきを。

いつか来た道は通行止メである (72)

全員びんた今宵(こよい)も終る冬の月 (90)

銀杏散る父の耳は上官に破壊された (73)

青春のすべてをなくしルソン島 (84)

ひめゆりの娘(こ)らにも見せたい夏ロック (62)

九条で夏の球児の輝けり (61)

あ ひこうき 子供に言える平和かな (41)

あたたかき孫の手九条あればこそ (62)

しわしわの手からもみじの手へ九条 (75)

うばわずにこわさずに 明日はぐくむ手 (43)

一票は銃弾より重し八っ手(やっで)花 (98)

平和とは一杯の飯初日の出 (18)




「歌に恋して」〜詩の朗読と音楽のコンサート〜  2/6

自宅から徒歩7分ほどの最寄駅に、市の文化小劇場がある。
そこで行われた、谷川俊太郎・賢作親子の朗読コンサート。
2年前に、離れた別の区の小劇場で、坊たちと一度観たのだけれど、
谷川さんがこんな近くに来てくれることがうれしくて、ひとりででかけた。
前回は"現代詩を歌うバンド"Divaとの共演だったけれど、今回は、賢作さんひとり。
本当に、親子ふたりののんびり舞台。
そんな違いも楽しんで。。

前回との違いは、俊太郎さんが自ら、歌いだしていたこと…。(びっくり)
ヴォーカルのmakoringがいない、ということもあるのだろうけれど、
ピアノ担当の賢作さんも歌っていて、即興の歌までやってくれて、
ゼイタクにも、前回はmakoringが歌っていたジャズバージョン・「鉄腕アトム」を、
賢作さんの伴奏で、作詞者自ら(!)歌ってくれた。

(賢作さん、歌いだした俊太郎さんを止めて)
「ちょ、ちょっと待ってください。今、雰囲気に流されて、色気つけましたね?
 そんな、飲み屋のお姉さんみたいな、色っぽい…(会場 笑)
 もっとフラットに、そのまま、歌ってください。ついていきますんで。」
(俊太郎さん、笑ってうん、うん、とうなずいて、歌いなおす)
そんなハプニングまで、まとめて楽しめてしまう、すてきなコンサート。

「僕は詩を書きはじめるよりも先に、音楽に心を打たれたんですね。
 戦時中で、『海行かば』という、、、軍歌ですね。それが好きで…
 音楽は、ことばでは表現できないかたちで、心に入ってくるから。
 だから僕は、詩がなくても生きていけるけど、音楽がなくては生きていけない。
 そのくらい、僕にとって音楽は大切なものなんです。
 詩は、自分で書けばいいから。(笑)」
「それ、あなたの口から聞くと、いやみに聞こえるんですけど…」(←賢作さん 笑)

「戦後の現代詩は意味偏重になってしまって、詩がもともと持っている音、に、
 あまり重きを置かなくなってしまった。
 けれど、五七調なんかの音のリズムのあるものは、やっぱり、体になじむんですね。
 短歌や俳句の韻文…その愛好家は、現代詩より圧倒的に多いです。
 だから現代詩も、もっと音にする、朗読や、いろんな試みをやってみるといいなと」

「詩を朗読で聴くと、活字として寝ていたものが、立ちあがってきた、
 だんだん起きあがってくるような、そんな喜びがあります。」

「また、活字で読む良さ、というのもありますね。
 朗読では読み手の感情や個性が入ってきますから、そういうのを通さずに、
 自分なりの受け取り方、楽しみ方ができますね。」

たくさんの、示唆にあふれることばを、つぶやきのように聞かせてくれた俊太郎さん。
感情の昂ぶりもなく、ただ淡々と詩について、音楽について、語ってくれた。
その合間に、朗読される詩の世界にも誘われ、
わたしに、「世界」とつながる感覚、を思い出させてくれた。

詩の背後になったり、並んだり、また前に出たり…
そんな賢作さんのピアノは自由で、優しく、柔らかく…
「ことば」になる前の、うねりのようなもの、まだなにものでもない何か、を、
感じさせてくれる、温かい音たち。
アンコールで弾いてくれた「赤いスイートピー」は、圧巻だった。
心のすきまにしのびこむような、イントロのやさしいひびき。
おなかの底までひびくような、サビのふとい和音の流れ。
この美しい前奏を作った編曲者と、演奏者の表現力に万歳!と、
胸がいっぱいになった。

ことばに閉じこめられない、ただそこにある「世界」を感じて、つながる。
詩が生まれるときのたいせつな感覚、波長、を、思い出した。
わたしとせかいのあいだに、介在するものは、なにもない。
長いあいだ、この次元の感覚を、忘れていた気がする。
行ってよかったと、欠けはじめの美しい月を見上げた、帰りみち。



入試問題…  2/4

本日、私立の入試初日だった坊ちゃん。
予定時刻を過ぎてもなかなか帰ってこないので、
道に迷って泣いてないかなーと(笑)心配していたら、
はずむように家に駆けこんできました。

「ママ!国語に、さだまさしが出た!!静夜思が!"美しき日本の面影"!」
「ええっ」(↑あまりに断片的)
「それに英語にも、長崎の精霊流しが出た!」
「ええっ」
「それをママに早く言いたくて、走って帰ってきた!!」(笑)

問題用紙を見ると、確かに…。
「じゅんな、この一行目読んで、コンサート終えて??諏訪の自宅へ帰る??って、
 ここでもう、作者に気付いてん!でも、誰にも言われへんから。」(爆笑)
李白の「静夜思」という五言絶句の漢詩が引用されているエッセイで、
つかわれていることばや文の流れ方など、わたしも美しいなと思っていた文章でした。
(このエッセイの数年後、発表された「静夜思」という歌は、
 月の美しい日に聴く、わたしも坊ちゃんも大好きな一曲)
「英語はな、精霊流しがどんな行事か説明している本文を読んで、
 正しい内容を選ぶねんけど、じゅんは、あのお祭りがどんなんか、知ってるから。」(笑)
せやなー。さだまさしがお父さんの精霊船送るの、テレビで観たよな。
問題文の「The boats are called Shoro-bune.」や、「firecracker」にうけるわたし…
「こんなん、ないで。じゅんが受ける年に、たまたま、さだまさしが問題になるなんて。
 この高校の先生、すごいわ。」
「確かになー。こんなんわざわざ選んで引用するって、さだまさし好きな先生かもなー」
パパとママの国語力を育てたもうた神が、その息子の国語力を問う…。(笑)
なんとも不思議な、巡りあわせであることよ。。

試験の出来はそっちのけで(!)大いに盛りあがっている坊ちゃんでした。

…試験終了後、混雑回避のために退室規制されていたんだそうで。
さらに、やっとたどりついた駅も大混雑で、友達と一緒にひと駅歩いたんだそうで。
それで遅かったのねー。
生徒会で一緒だった友達に会って、暖かい日差しのなか、
一緒に帰ってきたのがとてもうれしく、楽しかったらしい。
よかったよかった。



「平和の俳句」から〜思ふことども  2/2

さべつとか、 いやなきもちが せんそうだ (8才)

今朝の「平和の俳句」が、目に飛びこんできた。
戦後70年の企画として、朝刊で毎日連載されている、読者の投句。
1月に心に残った句をここで紹介したいと思っているうちに、
また悲しい、大きな事件が起きてしまった。
連鎖して、2012年8月にあった、山本美香さんの事件を思い出す。
あの時、ここに書いたように、
自分に国家レベルの問題をどうにかできるわけではない。
けれど、
「何か起こっても、私はシリアの人たちを恨みません」ということばを遺して逝った彼が、
自らの生を捧げても、伝えたかったことは何なのか。
それを知り、考え、思いつづけること、の大切さ、を、
決して忘れてはならない、と、あらためて、強く思う。
多くのひとがその視点に立つようになれば、
ある意味、彼の本望なのではないか、とさえ思う。
思いをはせ、自らを省み、祈ること、を忘れずに。

関連記事で、彼が取材して出版した少年兵の問題に触れていて、
奇しくも、『風に立つライオン』(小説)の内容と重なることに驚いた。
今春、映画公開されるそれは、「いのちのリレー」の物語。
バトンを受け継ぐのは、心に傷を負った、アフリカの少年兵。
そんな実態を知らずにいたわたしには、衝撃の内容だった。
そしてまた記事から、小説が真実であることを知らされた。

平和、ということの意味を、あらためて考えるきっかけが、
戦後70年の年初にこんなかたちで示されたことを、悲しく思いながら…
それを無駄にしないよう、せめて自分の子どもたちに伝えていけたら、と思う。

"さべつとか、 いやなきもちが せんそうだ"
冒頭の句が直球で言い当てている、本質的なもの。
わたしたちひとりひとりの心のなかにある、
小さな小さな「戦争の火種」に気付き、消す努力を続けていかなければ。
それこそが、わたしたちが個人レベルでできる、
また、自ら責任を負わねばならないことなのだと。


こうべ垂れ敗戦を知る夢いまだ (87)

終戦日十七才の夏でした (87)


芋南瓜(かぼちゃ)命繋いで八十路かな (83)

平和とは飢えぬことなり根深汁 (60)


憲法や兵士とならず古稀となる (71)

子らが戦史学び涙す沖縄忌 (79)


平和ってれんげの首輪結んだ手 (16)

シャボン玉平和の形かも知れぬ (68)

いくさせぬ国の誇りの初日かな (77)


さべつとか、いやなきもちがせんそうだ (8)