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世界を見る目  4/30

雨の日。
目の検査を受けた後、半日、薬のせいでぼやけて何も見えなくなる。
雨だというのに、まぶしすぎる世界。
視界全体が青白く光り、目を細めてもまだ、刺激が残る。
ぼやけて、文字を読むことも、書くこともできない。

世界を見る目が変わっただけで、こんなにも。
いつもと同じ景色が、異世界になる。
これを信じて生きていれば、これが当たり前になる。
見る目が、変わるだけで。
誰にも同じものが見えているなんて、思いこみもいいところだ、と自戒する。

翌朝。
時間をかけて元に戻った目が、慣れ親しんだ風景を映している。



「世界を見る」  4/27

ひとは誰もが、自分の経験だけをとおして、世界を見ている。
同じできごとでも、百人いれば百とおりに、見え方が違う。
感じ方も違う。

それなのに、ふだんはほとんど、そのことを忘れて、
他人の見方や感じ方や、それに伴う言動を、自分の目から感じたままに、
(自身も含め)あれやこれやと評価している人たちの、なんと多いことだろう。
それは自由なことで、いいとかわるいとか、思うことでもないのだけれど。

そのことを実感する、ちいさなやりとりをみた。

それは経験から築かれた自分の価値観が映し出され、表面化するだけのこと。
その価値観は、自分の人生を生き延びるための、重要なものさしでもある。
それを当てて道行きを測るのは必要なことだけれど、
自分の歩く場所以外に、殊に誰かの道行きに、その数値を押しつける必要はない。

評価しない、批判しない。
自分の一挙手一投足を、他人の目になって見てみたら、分かる。
他人の経験をとおして自分のことをあれこれ思われたって、仕方がないんだ。
自分はこんなふうにしか、生きられなかった。
逆に言えば、こんなふうに精一杯、生きてきた。
それは誰も同じで、そのことを、誰がどの基準で判断し、評価できるというのだろう。

だから、ただ、黙って世界の動きを受けとめる。
自分の感じたこともそのまんま、ぜんぶ一緒に包みこんで。
そして、自分の外側に、どのひとをも大切に、慈しむ目を育てる。
できる時も、できない時も。あっていいと、鷹揚に、気長に。
日々は練習、練習。

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子ども会役員として最後の行事が、今日、終わりました。
少ない役員数で、やるべきことはたくさん、山のようにあったけれど、
協力して一緒に乗り越える仲間があったから、
「大変」ではなく、「充実感」という言葉とともに過ぎ去った2年間でした。
よき仲間に恵まれ、同士を得たことに、深く感謝。


傾いた夕陽に透ける、ホトケノザの葉。
虹色の光のシャワーを浴びて、うぶ毛のような繊毛が、きらきらと光る。
夕暮れの少し冷たい風に吹かれて、ふっと息をつく時間。
植物たちの優しさが、伝わってくる。いたわりのきもちが、伝わってくる。



おもしろ会話・ひさびさ  4/24

晩ごはんを食べながら、大きい坊ちゃんとお米の話になる。
わたし 「そういえば今日から、岩手のお米やで〜。ひとめぼれ。
     江刺やから、こないだ行った…中尊寺のあたりかなー。
     岩手といえば、ひとめぼれ。じゃあ秋田は、なんの銘柄が有名か、知ってる?」
大きい坊 「あきたこまち。」
わたし 「せやでー。じゃあ、新潟は?」
大きい坊 「こしひかり。」
わたし 「おっ知ってるなー。じゃあ、宮城は?」
大きい坊 「・・・・・。ササ・・・?なんやっけ?」
わたし 「すごいやん!ササニシキやで〜。じゃあ、北海道は?」
小さい坊 「(横から)ゆめぴりか!」(ゆめぴりかは一時、よく食べていた)
わたし 「おっすごーい。いじゅ、よく覚えてるな〜。じゃあ…。
     なんといっても、給食で毎日食べてる、愛知のは、何?」
小さい坊 「・・・・・。」
わたし 「じゃあ、ヒント!○○○の○○○。分かる?」
大きい坊 「(分かってるけど、小さい坊に言わせようと)いじゅ。あいちの、何?」
小さい坊 「あいちの…おこめ?」(爆笑)
大きい坊 「そのままやん…。」
みんなでおなかを抱えて、大笑い。
大きい坊 「あいちのかおりやろ〜。」
さすが、給食大好きな大きい坊ちゃん。
きゅうしょくだよりを、ちゃんと読んでたね。(笑)

日本の、お米、大豆。風土に合った食物たち。
それは、天の恵み。
この国に生きる人びとを支え、美しい文化を支える、土台となるもの。
もしもそれが揺らいだら、その上に成り立っているものも、崩れてしまう。
大切に、護っていかなければ。
そのために、できることはなんだろう。
TPPのニュースを耳にするたび、その想いを、強くします。



思い出し笑い・・・  4/24

先月末、近所に住む義兄のところに、義母が訪ねてきたときのこと。
いつものように一緒に食事をして、おしゃべりしていたら。

母 「ほら、朝、ドラマやってるやん。あのーNHKの。8時15分から。」
オット 「今は、8時やろ?」
母 「そう!8時からやってるの。なんやった?あの…そうや!『じゅんといじゅ』!」
オット 「・・・『純と愛』やろー」(笑)
母 「そうや!(笑)じゅんといじゅ違うわ、純と愛や!」
全員、爆笑…。
母 「あのドラマ、、、うまくいきかけたと思ったら、だめになって…
   そのくりかえしで、終わってしもたねえー。」(←これが言いたかった)

内輪ネタですが…これ、ウケました…。
今でもオットーは時折、
「『じゅんといじゅ』・・・」と、思い出しては、ウケています。
うん…うちのオリジナルドラマ・「じゅんといじゅ」も、毎日、かなり、おもしろいですよ。(笑)



出逢い  4/23

子ども会の新年度の書類を作り、連絡網の引き継ぎメールを作り。
合間にふと見た、ピアニスト・川上ミネさんのダイアリー
ただ近況が書かれているだけなのに、たまに不意打ちで泣かされることがある。
今日は内容と、文章の湛える空気と、両方にノックアウトされた。

本当に不思議な内容で、
心って、想いって、ひたひたとつながっているし、つながっていくんだ、と、
なんともいえない、うれしいような、せつないような気持ちになりました。
読めば読むほど、その気持ちが突きあげてきて、、、
それを味わいながら。。

そのなかで、ミネさんの大好きな映画監督さんがおっしゃった、
 "CD「巡礼の道(オ・メウ・カミーニョ)」 は本物の宝物のようだ。
  創造と平和に満ち溢れている。ありがとう。"
この言葉は、同じように感じているわたし自身にとっても、
それが認められたかのようで、共感してもらったかのようで、
それもまた、とてもうれしかったのでした。

 "出逢いとは、なんて不思議なものなのでしょうか。・・・"
ミネさんの言葉の、このくだり。
うなずき、心の深いところで、共感せずにはいられなかった。
ひととひとが、顔を合わせる、という意味を超えた、
何かを変えうる大切な"出逢い"が、本当に、たくさん、たくさん、あることを、
無限に拡がっていくこの文章から、気付かせてもらいました。
そう。拡がる、言葉。
その可能性をも見せてもらった、これもまた、すばらしい"出逢い"だったのです。



月命日  4/22

あの修了式から、1ヶ月が経ちました。

初七日の時と同じように、お友達がたくさん、たくさん。
わたしたちお母さん同士も、子どもたちと一緒におじゃまして、
夜遅くまで、わいわいと、にぎやかにおしゃべりさせてもらって。
他愛ない話で、おなかを抱えて笑いころげて。
いつもと変わらない、集まりのようで。

でも、たくさんたくさん、飾られた写真を見ていたら、
やっぱり、泣けてきました。
みんな一緒に、大きくなったのに。
まだまだ、嘘のような、夢のような気がして、現実味がありません。



開花  4/21

一晩降りつづいた、雨のあと。
あのほとけのざが咲いていました。


あれから調べてみたら、春の七草の「ホトケノザ」は、
コオニタビラコというキク科の植物(黄色い花)のことで、
やはり葉の形状から、昔はそちらがホトケノザと呼ばれたんだそう。
これは今の、標準和名「ほとけのざ」=シソ科のオドリコソウ属。
近所でも、ヒメオドリコソウと一緒に、よく生えてます。
確かに葉っぱが、シソ科だっ。(レモンバームなどもシソ科で、よく似てます。↓4/5)

小さい花だけど、よくよく見れば、高山植物のコマクサに形がよく似てる。
コマクサの花の色は、オダマキに似たマットな感じの、黄みがかったピンクだけど、
この花はそれより花びらが薄くて、透明感がある、青みがかったピンク。

・・・なんて考えてたら、新色の口紅の広告コピーみたいだなーと笑えてきました。
あれを考える人も、色をながめながらあれこれ考えて、比べて、悩んで、
その魅力の違いを言葉にするんだろうなー。
突然、妙な親近感。ちょっとうらやましい、仕事だな。



Happiness is…  4/20

いつものスーパーの特設コーナーで、通りすがりに、
ふだんの売り場で見かけない、スヌーピーふりかけを見つけました。


外袋に、「入っていたらHappy!かわいいスヌーピーチップ♪」と書かれていて、
なんのことやろ…と思いつつ、かわいらしさに思わず購入。
帰宅後、坊ちゃんたちに見せたら大喜びで、さっそくごはんにかけてみることに。


出ました!スヌーピーチップ。(笑)こんなんやったんや。
シールかなんかが一枚、外袋に入ってるんだと思ってたら。
ひと袋に、5つも入ってましたスヌーピーチップ。(笑)よかったよかった。
確かに、ちょっとのほほんな気分になるなー。


「Happiness is …」
ふと裏返した袋にも、ちいさなしあわせ、ひとつずつ。



最近の困った切手たち  4/19

ひきだしの中から、くっついて出てきたアニメシリーズ。


これ、かわいいんだよね。。
誰にでも貼りやすい絵柄なのに…気軽に貼れない。
その理由…


絵が、二枚にまたがってるんです。
ストーリーやキャラクターのつながりがあるだけに…切り離せないっ。
実用的じゃない…。(涙)
(↓の「季節のおもいでシリーズ」は、ちゃんと一枚の絵が一枚の切手になっています)
マシュウとマリラとアン。ハイジとおじいさん。
この構図。。いったいどうやって、切り離せるというのでしょう。。


いわんや、ラスカルをや!(涙)
・・・・・
結局、料金オーバー甚だしく、160エン貼ってしまうわたくしなのでした。
うっ…もしかして、郵便局の思惑…どおり?



ついに出た…  4/18

郵便局へ小包を送りにいって、見つけた。


つ、ついに…ついに、出たっ!
いわさきちひろの切手。
「季節のおもいでシリーズ 第2集 春」
感無量…

今まで切望しながら、なかなか発行されなかったいわさきちひろ。
いろんな事情があったのでしょう…
「わたしの愛唱歌シリーズ」の、野口雨情・「しゃぼんだま」(平成10年)。
あれが唯一の切手だったように思います。(わたしの知るかぎりでは。)


↑これ。
ちなみに下のは、黒井健さんの「いい日旅立ち」。

こうして発行されたということは、
その芸術的価値が、社会的事情を超えて認められた、ということなのでしょう。
その意味でも、感無量、なのでした。。

ところで、気になるシリーズ第1集。
なんだったんだろうと調べてみたら。


谷内六郎さんでした。
去年の夏に、買ってるやん〜。(笑)
並べて、記念撮影。パシャリ。



春爛漫  4/16

・・・さだまさしさんの、歌じゃないけれど。
我が家の春、爛漫。


今年はあきらめていたいちご(あきひめ)がかわいい白い花をつけ、
昨年は同居人(花)に押されて花かずが減ってしまったイベリスも、単独の今年は盛り返し中。
オットー実家からやってきた、「ばらん」の土に混ざっていたらしいカモミールが芽吹き、
ブルーベリーが、ハイブッシュ系もラビットアイ系も、いつの間にか開花していた。


生垣になっているジャスミンの赤いつぼみが、いよいよ上がってきました。
立ち性のローズマリーは、冬から咲かせている真っ白な花が満開です。
みつばちがやってきて、小さな花にもぐりこんで蜜を飲んでいます。なんだかうれしい。
(みつばちの恩恵は、人間にとってとても大きいのに、
そのナビゲーションシステムが、携帯電話などの電波で狂ってしまうのだそうです。)
アシナガバチよ。すきを見ては探りにきてるけど、うちに巣を作らないようにね!

わすれなぐさの群生地。オリーブの鉢(中にはオキザリスが侵攻中。)の足元にもぽつぽつと。↓


↑ 昨年10/15の日記に書いた、「雑草?」のわすれなぐさの芽と、その半年後。
時々わたしに踏まれながらも、こんなに咲いてくれました。抜かなくてよかった。(涙)


そして、これ。なんだと思います?
2月にたくさん咲いてくれた、あのスイセンの鉢です。
あの足元に、球根と一緒に、雑草の芽が生えていました。
毎日マクロの視点で見ていたら、なんとなく抜けなくなって、
ずっと放ってあったのですが、つぼみが出ているのを見つけ、はっとした。
その正体は、、、春の七草のひとつ、"ほとけのざ"でした。
(葉っぱが仏様の蓮華座みたいなかたちだから仏の座…)
抜かなくてよかった。(涙)

植物たちの生命のまっすぐな輝きが、わたしに愛と、力をくれる。
朝の光のなかで、それを実感する毎日です。



某・宅配  4/15

毎週、何が入ってくるか分からない野菜の宅配。
ひさびさ。やってきました。


有無を言わさぬこの迫力。
わ、分かりました…。

・・・数時間後。


ずいぶん、小さくなっちゃいました。
あしたは、たけのこごはんかなー。



言葉の海を渡る  4/14

最近ふれた、「ことば」のすばらしさを感じた作品、2つを。

オットーが突然、観にいきたいと言いだした映画、『舟を編む』。
作品名を聞いた瞬間、作者名も賞の名前も、「辞書編纂」というテーマも、
平積みされた表紙までもが同時にぱっと浮かんだくらいの、ベストセラー小説。
オットーはラジオで映画のさわりをきいたらしく、続きが気になるという。
このところ映画はノーチェックだったところに、「辞書編纂」のテーマも気になっていたので、
公開2日めの今日、早速観にいってきました。

・・・すばらしい映画でした。わたしは、好きでした。
地味で静かで、けれど静かななかに人びとの心は熱く、
交錯する人間模様のなかにも、静かで熱い愛(男女問わず)がある。
15年にわたる辞書編纂の、長く険しい道のりがそのまま、
それを生涯の仕事とする人びとの人生に重ねられ、描かれる。

ひとには、それぞれの個性がある。
一見、交わる点がないかのようなそれらが、
ひとつの目標に心を合わせ、進んでいこうとする時、
それぞれの役割に気付き、認めあい、互いを結びあっていく。
そして、長い時間をかけて深い関係を築きながら、目標を完成へと導いていく。
最初はくすっと笑う場面もあったのに、
次第にじんわりとした温かいもので胸が満たされてゆき、
気付けば、つと涙がこぼれていました。
「辞書編纂」という尊い仕事を巧みに使った、見事な人間ドラマでした。

わたしが胸を打たれた、深く共感した、映画コピーと、文言。

一生の仕事。愛する人たち。そして言葉。大切にする。全力で。

・・・わたしもまた、わたしの中の辞書を使って、
"もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために"
こうして、書きつづけているから。

もうひとつは、少し前に読んだ本。


『死にゆく者からの言葉』 鈴木秀子・著(文春文庫)

ずいぶん前から気になっていながら、
鈴木秀子さんの著作の中で、読みもらしていたもの。

ふと思いたって購入し、読み始めたら止まらなくなり…
一気に読みきってしまいました。
温かく、優しく、胸の痛みのなかにも、慰められる確かなものを感じる…
すばらしい一冊でした。

鈴木秀子さんの語りくちというのも、あるのです。
文章全体に表れる、なにか、リズムのようなもの。
そのあたたかさが大好きで、鈴木先生の本を読むと、文字どおり癒されます。

本文中に出てくる、「大原紫苑さん」という女性。
こんなに佐藤初女さんに似た方が、東北に二人もおられるのかな??と、
読めば読むほど、不思議な気持ちになったのですが、
いろいろ調べて、びっくり。「大原紫苑さん」は、佐藤初女さんのことで、
鈴木秀子さんとは、旧知の仲だということでした。
初女さんが世に出られたきっかけの映画も、鈴木先生の紹介だったとか。
それぞれにファンだった方々が、ずっとずっと前からつながっていたことが、
驚きと同時に、とてもうれしくもありました。

お二人は一緒に、もうすぐこの世を去るひとたちのところへ行き、
そのひとの言葉を、ただ聴く。ということをされているのでした。
ひとはこの世を去る準備として、それまでの人生を振り返り、
自然との一致、自分自身との仲直り、他者との和解、
それを人生最後の仕事とするのだそうです。
そして、重荷を下ろして、旅立っていく。

この中のひとつの章、「わが名をよびてたまはれ」
アルツハイマーで記憶も名前も失くした、通称「山のおじいさん」が、
息を引き取る数日前に、突然諳んじた三好達治の詩がテーマです。

あはれいまひとたび
わがいとけなき日の名を
よびてたまはれ
風のふく日のとほくより
わが名をよびてたまはれ
・・・・・
幼き日
母が呼びたまひしわが名もて
われをよびてたまはれ
われをよびてたまはれ
・・・・・

この最後の4行は、三好達治の作品の、どこにも見当たらなかったそうです。
死を目前にしたおじいさんの心からほとばしり出たものだったのかもしれないと、
鈴木さんはのちに気付くのです。

「名前を呼ぶ」ということは、ひとりの人間を、固有のかけがえのない存在として認めること。
自分の名を呼ばれた人は、こう感じる…
「人生をさまよいつつ送る私、そんな私を心にかけてくれる人…私に目をとめ、
 私を記憶にとどめ、『私は特別な人間である』と私に信じ込ませてくれる人」
・・・・・
涙なくしては読めない章でした。
やわらかい文章が、ある時は凛として、おじいさんの人柄が伝わってくるのでした。
そして、筆者が、そのひとりのひとを大切に思う気持ちも。

他のどの章も、そんなふうにすすんでいきます。
読み終わった時、先の映画を観終わった時と同じように、
じんわりと温かい気持ちで、心が満たされていました。

先日、書いたことともつながっていく。
「ひと」の奥の奥にある、真実(ほんとう)を見つめる目を、
自分の中に育てていきたい、とあらためて感じた、2作品でした。

6月。
初女さんの講演会に、初めて訪れる予定のわたし。
今から、とてもとても、楽しみです。



もの思ふ  4/13

先日書いた、ひとそれぞれの本質、について、
まだ考えつづけている。

あの、感覚となって理解されたものは、とても大切なもので、
忘れないように、忘れないように、と日々感じようとしている。

皮を脱ぎ捨てるように、心の中で自分の壁を崩してみると、
他人との間にあったはずの隔ては、実は自分の恐れの壁だったことに気付く。

今、住んでいるここでは、本当に「ひと」に恵まれていて、
人間関係の悩みというのはないに等しいけれど、
個性の違いゆえに近づきがたいというような感覚は、時折ある。
いわゆる「人見知り」だと言えば単純にそうなのだけれど、
自分のコンプレックスや、苦手意識、恐れが、それを作り出すんだなあ、とも…。
気付く。気付く。日々、勉強。
すべての源は自分にあり、自分が変わっていかねば、何も変わらない。。
痛感する。

そんなことを考えはじめたのも、彼女の死がひとつのきっかけだった。
子どもたちも、大人も、興味を持つものや何か、
それぞれに違って、親子ともども入っていきづらいこともあり、
(かといって、拒絶されたりはみ出したりしているわけではないのだけれど)
またわたし自身が、ひとりの時間空間を愛していることもあり、
輪の中にいること、多数に合わせていることが息苦しいときもあった。
みんな仲がいいけれど、みんながみんな、同じじゃない。
けれど、そんなふうな思いも、実はわたしひとりではなかったこと、
そして何より、あの悲しいできごとをとおして、
深い想いを仲間みんなが共有し、いたわりあったあの感覚を知り、
わたしの中にあったひとつの壁が、揺らいだのだった。
そう…その"壁"が、自分の心の中だけの幻想だった、ということに。

そんなふうにめくるめく、思い巡らしながら、
お向かいさんのお引越しへの思いを経て、
自分の、ひとの、「揺るがない本質」ということ、へ思い至った。

忘れられない、言葉がある。
結婚して地元を離れることになった時、当時習っていたフラワーアレンジメントの、
教室仲間のおうちに、みんなでおじゃましたことがあった。
台湾からこちらに嫁いでこられた、底抜けに明るい、優しいひとだった。

彼女が、少し外国語なまりのある、でもきれいな日本語で、
「あなたは賢くて優しいから、大丈夫。」
お別れの時にそんなふうに言われて、涙がこぼれた。

それはむしろ、彼女自身の人柄だとわたしには思えるけれど、
もし、わたしの本質がそのとおりならば、
あの日の彼女の言葉と笑顔に恥じないように、
それを曇らせぬよう、輝かせられるよう、
自分の心を見つめ、努力していかなければならない、と、
15年前のあの言葉に向けて、あらためて襟を正すのだ。
自分の本質を、揺るがず、信じるためにも。



シンクロニシティのいちにち  4/12

頭にふと浮かんだひととすれ違ったり、
思わぬタイミングで、会うはずのないひとに会ったり。
極めつけは、車に乗ったオットーを、
子どもたちと一緒にいた、お店の窓から見つけたこと。
そして、お店から走っていった子どもたちが歩道でとびはねて訴えるのを、
3本向こうのレーンにも関わらず、信号待ちのオットーが見つけたこと。
こんな平日の夕方に。考えられない…(←別の場所へ行くための一時帰宅だった)
これはもう、以心伝心としか思えない流れでした。
(わたしもオットーも、それぞれお互いや子どもたちのことを考えていた時に!)

ところで、大きい坊ちゃん、今日は身体測定だったそう。
ついに…わたしの背を追い越したのでした。
どちらかというと小さめで、いつも前から数えた方が早い背の順で、
この子がいつか、わたしより高くなるんかなあ…と思っていた日も、あったのに。
その「いつか」が、こんなに早く訪れた。
うれしいような、さびしいような…なんともいえない気持ち。

「でも、今のクラスで、前から3番目やで。」
相対的というか…比べる対象しだいで、感慨ひとつも違ってくるねえ。(笑)



深い理解  4/11

昨日感じたことを、ずっとどこかで考えていた。
それは言葉にならない、できない、
論理ではなく、感情でもなく、おなかの辺りに落ちてゆく感覚の理解となって、
(いちばん近い言葉を探り探り、試みに表現してみるならば)
「腑に落ちる」という慣用句の意味もまた、同時に理解する。

"外側の世界は時間とともに変化していくけれど、わたしたちの内側は変化しません"
とても好きなこの言葉の意味を、単純に、「とりまく環境と自分の心」ととらえていたけれど、
もしかしたらこれは、自分の核にあるたましいと、それを覆う、天候のように変容するもの、とも
とれるのかもしれない、と気付く。

変容するものとは、環境や状況によって変化する感情であり、
自分の多面性ともいえる。
そして何があっても変化しないもの、それこそが、自分の中心にあるたましいなのだ、と。
それはつまり、昨日の話に当てはめるなら、
"人間が等しく持っている温かさ"の部分。

そこまで思考が辿りついた時、不意に自分の感覚となってそれが拡がり、
ああ、自分がどうあろうと、どんな変化を見せようと、中心は変わらないから大丈夫、と、
まさに、言葉ではなく深いところで「理解」した。
そしてそれは、自分だけではなく、他人もやはり、そうなのだと。
相手のめくるめく「天候」は、流れる雲のようなもので、
そのおおもとにある本質(核)を見ることの、たいせつさに気付く。

「自分の核」については、もう十数年も前に、日記に書いてある。
ああ…あそこに戻ったんだな、と、
けれどそれを、頭でも、胸でもなく受け容れたんだな、と、妙な安心感を持った。
理で解したのではなく、情で感じたのでもなく、腑に溶けていった。
「理解」では表現できない、たましいに染みいる、深い理解。



お引越しから  4/10

お向かいのマンションの、まさに真向かいのお部屋から、
ご家族が引越していかれました。
もう4年くらい前になるでしょうか。
若いご夫婦が入居されて、そのうち、お子さんが生まれ、
また、二人目のお子さんが生まれて…
毎朝、ご夫婦のどちらかが保育園に送っていく姿を目にしていました。
近くの公園にお子さんを連れていくところも、
家族でおでかけするところも…

最初は、ちょっとこわい感じがしたご夫婦でした。
厳しい表情に見えたうえ、マンションと戸建てという違いもあるからか、
なんとなく顔を見ることがあっても、言葉を交わすことはなく…
わたしは夜にふらふらと外に出て、鉢植えの植物をながめていたり、
なめくじ退治をしていたり(わたしの方がこわいかも…)するのですが、
そのご主人も、外に出てしゃがみこんで、ぼんやり煙草を吸っていることがよくありました。
お互い、自分の時間ぽくてあいさつもはばかられ、でもなんとなく、気まずくて…。

それでも、何年も住んでいるうちにお互いの顔を覚えて、
いつのまにかあいさつを交わすようになっていました。
オットーもまた、「向かいの子、歩いてるなー」とか、「かわいいなー」とか、
その家族の歴史を見ながら少しずつ、存在に親しみを覚えていたのでした。
最後まで、親しく話をすることはなかったけれど…。

はじめあった違和感や怖さがなくなる頃、相手が去っていく。。
この春は、そんな別れが本当に多かった。
学校の先生の転勤・退職や、斜向かいの、やはりあいさつしづらかった若いお母さんの家族…
思うに、わたしは基本的に、人が怖いのです。
この性質が、責め合う家族関係に起因するのは、間違いなく。
傷つけられないか、無視されないか、、、常に護りの姿勢でいる。
たとえそうあったとしても、それがわたしのせいではないだろうに、
また自分を責める材料が揃ってしまうのも、怖い。
自分から防御の壁を作ってしまう、コンプレックスとプライドの背中合わせ。

引越していったお向かいさんのことをぼんやり考えながら、
図書館へと自転車をこいでいて、ふと、頭にひらめいたことば。
「ひとの表面だけを見ないで、恐れず本質に触れなさい」と。
「すべての出会いは、学びなのだ」と。
出会うひとの第一印象には、自分の中にある恐れを映し出している。
相手の本質に触れ、心のどこかでその存在を受け容れ、印象が変わり、
学びを終えた時、相手は去ってゆくのでしょう。

ひとの見せる表向きの顔の奥にある本質は、きっと、誰もが温かい。
人間が等しく持っているその温かさを、お互いに感じ、共有することが、
ひとを本当に理解するということなのだ、と、
"open heart"ということのたいせつさを、
しみじみと思ったのでした。

・・・恐れずに。



サボリーとタイムのシェパーズパイ  4/9

学校の工作クラブで作っていた「イジューダ美術館」も、
看板を取りはずしてさよならしました。
そんな季節。


小さい坊ちゃんは始業式、大きい坊ちゃんは入学式のお手伝い。
そんな日の午後、穏やかな晴天に誘われ、おやつを持って、近くの緑地公園へ。


花吹雪のなかで立ち尽くし、ひらひらと舞い降りる雪のような花びらの雨を受け。
貯水池のそばの林からは、美しいウグイスの声が聞こえる。
すっかりききなじんだヒヨドリの声も。
鳴きやまず、ひたすらおしゃべりしつづけているのはヒバリ?
そして頭上の枝をぴょんぴょんと跳びうつりながら鳴いているのは、シジュウカラ。
携帯電話(わたしの着信音)が鳴っているのかと思うくらいに。。
太陽の光を浴びて、なぜか胸がぎゅっとなる、緑のにおいのする風に吹かれて、
ぼんやりと風景をながめていたら、本当に心安らぎました。

坊ちゃんたちは、お約束のキャッチボール。
やりたくて仕方がないこの頃、これもまた、心から楽しそうな表情で。

帰り道、お昼にテレビで見た、ベニシアさんが作っていたパイを食べたい、というので、
ええー(←難しそうという気持ち)といいつつ、材料を買って帰宅。
ひき肉、たまねぎ、じゃがいも、にんじん…
そして、庭の鉢植えからとった、タイムの枝。(サボリーはないので、省略。)


完成!!
本で写真を見るたびに、絶対に作らないなーこれ…と思っていた、
何が材料かも分からなかった、「手のこんでいそうなパイ」。
それをこうして、作る日が来るなんて…。(感涙)
意外にも、想像していたほど難しくはなかった。なんでもやってみるものです。
リクエストした子どもたちは、それはもう大喜びで、
「おいしい」「おいしい」とおかわりを何度もして、満足そうでした。
これは…お誕生日メニューに、追加されたな。。



一日一日を大切に  4/8

今日は中学校の始業式。
長かった春休みが、終わりました。
めまいがするような…長い長い、時間でした。

今年度は早々に決まっている、2年生の野外活動。
これの参加に期間を合わせて、彼女は入院したのでした。
活動中、病気に対応するための手術。
修了式には、退院が間に合うはずだったのです。

わたしたち母親同士も、近々お茶を飲む約束をしながら、
学年末、みんなの予定が合わずに、
じゃあ、退院して落ち着いた頃に集まりましょう、と話を流したのでした。

それがこんな展開になるなんて。
誰も予想しなかった。
病気の急性悪化。
修了式の日の早朝、いつもの起床の時間に、永遠の眠りについた彼女。
きっと、たましいだけ、修了式に行ったのでしょう。
そのくらい、学校が大好きだった、戻りたかった、彼女。
ずっとクラス代表でもあった、みんなの人気者でした。

わたしが最後に話をしたのは、バレンタインの少し前、
うちまで手作りのお菓子を届けにきてくれた時でした。
真っ暗ななか、降りだした雨に傘をさして。
「わざわざありがとう〜雨降って寒いのに…」
「今からこのまま、塾に行くんで…」
そう言って、にこっと笑って、さよならした。
小学校1年生の時からこうして、
友チョコを(時にはわたしにまで)届けてくれていた彼女。
大きくなって、たくさん配る先があるのに、ずっとうちにも来てくれていた。
そのあとすぐに、家族全員でお菓子をいただいて、彼女にお礼のメールをした。
わたしの携帯にその返信が残っていることを、
突然思い出して、急いでメールに保護をかけました。

そのあと、一度だけ、お母さんと並んで歩く制服姿の彼女とすれ違い、
「あっ!こんにちはー」
それが元気な彼女を見た、最後になりました。

手術の予後が悪く、体調が急に悪くなったと知らせを受けて、
驚いたわたしたちは、千羽鶴を折りました。できるのはただ、祈ることだけでした。
どんどん、転がり落ちるように悪化する容体を聞くたび、
早く早く!と、遠方からもみんなが折った折り鶴を集め、まとめあげました。
千羽以上の祈りを載せて、駆けつけた病院の待合室。
なんとか、この方法で…と、すがる思いの処置を施す、麻酔の直前でした。
お父さんがICUに駆けこんで、「見たい」と待っていた彼女に届けてくれた。
見てもらえたこと、ほんとによかったと思う。
仲良しだったみんなの、気持ちがいっぱいいっぱいつまった、千羽鶴でした。

その、わずか2日後。
病院で会った最後の日…いちばん辛かった日。
麻酔で朦朧とした意識、それでも懸命に生きようとしている彼女を見て、
痛いくらいに感じたのは、からだは自分のものではない、ということでした。
健康で生活していては、気付けないこと。
いのちの機関の働きは、自らの意思の制御の外にある。
神さまと呼ぶしかない何かが制御している、そのいのちの営みの、
なんとありがたく、すばらしいものかということ、
それをふだん、呼吸すら意識せず、想いは外へ外へと向かい、
自らの内にある、こころは言うに及ばず、
からだにすら、いたわりや感謝を向けることのない自分の驕りを猛反省させられ、
また、それを身をもってわたしたちに教えてくれた彼女に、涙が止まりませんでした。
彼女は、彼女の意思は、最後まで、生きようとしていた。
神さまも制御できなくなった、からだとたたかいながら。

お通夜も、告別式も。
こんな悲しいものは生まれて初めてだったし、おそらく今後もないでしょう。
告別式で中学生たちが歌った、「旅立ちの日に」
希望に満ちたこの歌が、こんなに悲しく響くことがあるだろうか。
悲しくて悲しくて、本当に辛かった。
引っ越していったたくさんのお友達も、みんな集まった。
楽しみなはずの再会が、成人式よりずっと早く、こんな場になるなんて。

その場にいたみんなが、同じ想いを共有したこの時、
そこには、なんの隔ても壁もなかった。
ただお互いの深い悲しみを分かち合い、いたわりあう、優しさだけがあった。

「おはよう」と目覚めて始まるいちにちが、
当たり前のようにくりかえされるけれど、決してそれが、当たり前ではないこと。
それを胸の痛みとともに思い知った、早すぎる別れ。
人生は長くとも、25550日といいます。
そのうちの、わずか5分の1を過ごしただけで駆け抜けていった、彼女。

限りある生の時間、
笑ったり、泣いたり、がっかりしたり、夢中になったり。
喜んだり、腹を立てたり、落ちこんだり、また笑ったり。
ひとつひとつのできごとに、心をたくさん揺らしながら、
一日ずつを大切に、大切に、
与えられたこの時間と場所を、生きていきましょう。

悲しくて、書くことをずいぶん迷いましたが、
彼女の元気な姿の記憶と、彼女から教えられたことを残しておきたく、
こうして記しました。



お弁当コレクション  4/7

カメラのメディアを、やっと少し整理できて、
大きい坊ちゃんのお弁当の記録を完成させることができました!ぱちぱち。
(過去に何を入れてたか、困った時に思い出す用)


実は毎朝、撮っていたんです。。
数えてみたら、124個!
月に数度は学校のランチを注文しつつも、
これが全部、坊ちゃんのおなかに入り、体を作ったんだな…としみじみ。
ゆるマクロビを意識していると、すべてのおかずが副菜のように思えてきて、
作っても作っても終わらないエンドレス感覚に、疲れてくるのですが。。
また来週から、がんばりまーす。
(写真コレクションは、もうやりません。初年度限定。笑)



シチューのナゾを追う  4/6

先日、京都のベーカリーカフェで、ランチをとったわたくし。
なんとなく頼んだ「野菜シチュー」セットだったのですが、
このシチュー(ホワイト)、なんだか懐かしい味がする…と、
心がざわめきたったのです。

それは、ふだんわたしが作っている、バター+小麦粉+牛乳の、
簡素な味ではありませんでした。
なんか、この複雑な風味と、ねっとりした食感…
煮崩れたじゃがいものせいもあるかもしれないけれど、濃くてまったりとした口あたり。
思い浮かんだのは、実家で使っていた、ホワイトシチュー<顆粒>でした。
あの味…もうずいぶん食べてないけど、もしかしたら、あれかも…。

めったに行かないランチですが、たまに行く機会があると、
そこで出会った味を家族に食べさせたい!と、すぐ再現しようとするわたくし…。
「里芋ごはん」は、しみじみおいしかった。←2年前?
「さつまいもの肉じゃが」も、かなりよかった。←1年前?
「高野豆腐のフライ」(マクロビ)は、大失敗。←1ヶ月前?
・・・今回も、やらないはずが、ありませぬ。

シチュールーの売り場に行ってみると…いやーたくさん種類があるのね。
もちろん、使ったことがないわけじゃないのよ。(笑)
でも、どんな味があるのか、ちょっと興味があって…
<顆粒>じゃない、固形ルーを買ってみました。

さて、できあがったシチューのお味は…
さらりとして、おいしい。
ホワイトソースも、半透明に見える感じで、きれいな色。
坊ちゃんたちも、大喜び。
でも…何か、違う。
あの、黄色がかったねっとり感がない。
味の複雑さも。
・・・・・

「うーん…違う…」とつぶやき、坊ちゃんたちに、
「ごめん…悪いねんけど、明日も、シチューでいい?」(笑)
「いいよー」(合唱)

・・・そんなわけで、満を持して??<顆粒>ルーの登場!!


これです。これこれ。
もう、何十年も前から、実家はこのルーだった。
懐かしいなー。わたしも実家で作ってたわー。(笑)
そして再度、シチュー調理に励む。
パッケージそっくりのナベで。


できたー。
できあがったばかりで、気持ちさらさらしてるけど、
昨日のルーよりは、濃い感じ。色もベージュ。
おそらく、あのベーカリーカフェのシチューは…この、<顆粒>だっ。

坊ちゃんたちはカレー・シチューが大好きなので、
今日も「おいしいー」と言って食べてくれました。
「どっちかというと、昨日の味が好きやけど、これもおいしい」と、大きい坊ちゃん。
(昨日は鶏むね肉で、今日はシーフードだから?)
「今日はフランスパンはないの?」(笑)
いろいろと注文もつきつつ、親子ともども、満足満足。
明日の朝も…残ったシチューつきね。(笑)
花見酒転じて春の嵐の飲み会だったオットーも、その時に。



花ざかり  4/5

わたしに踏まれながら、ついに開花した、レンガのすきまのわすれなぐさ。
群生?しているスペースも、次々とかわいらしい花を開いています。


"「私を忘れないで。」 花が言い、
 「忘れないよ。」 人が答える。
 そんな心のきずなを 名前が伝える。"

先日たまたま見た、「猫のしっぽ カエルの手」の再放送の第一回で、
わすれなぐさの映像とともに、そんなナレーションがありました。
植物たちの声に耳を傾ける気持ちの余裕を、
なくしてはいけないな、と思う。


今年はいつになく青々とした葉を広げているレモンバーム。
そこに埋もれていたムスカリもようやく、顔をのぞかせました。



桜満開  4/4

今日は京都へひとっとび。
ベニシアさんの展覧会と講演会に出かけてきました。


バレンタインに知って、ずいぶん迷って、1ヶ月前にチケットを取りました。
(でも、講演会は当日券もあったみたい。)
講演会は自由席で、展覧会のチケットつき。
講演は午後の回だったので、先に展覧に出向いて鑑賞しました。

展覧は、四季のテーマに分かれて、
ベニシアさんのエッセイ、写真、風景画、レシピ、などが展示されています。
ほんものの草木が植えられているコーナーや、手作りのもの、ふだん使っている道具の展示も。
なんだろう…どれにも、「手」を感じるのです。
だからか…見ているだけで、あたたかい。
ただの「モノ」に、見えないのです。
学生の頃に美術を学ばれていたらしく、絵も本格的。
写真とそのコメントは、山岳写真家のご主人のもの。
そんな心のこもった展示物たちと、四季おりおりのベニシアさんのエッセイ。
エッセイは、ここに何度も書いているけど、本当にすばらしい…。
胸に染みてきます。
結局、わたしは、「ことば」に弱いんだなあ…。

そして、「仲間たち」。
番組で紹介されたお友達(画家や職人さんたち)の作品と生い立ち、
ベニシアさんとの出会い、メッセージの展示スペースがありました。
そのどのことばもが温かく、ベニシアさんを心から慕い、
応援していることが伝わってくる、ここもすばらしいコーナーでした。
こんなプロフェッショナルなひとたちと、生きているなかで出会って、
何十年ものおつきあいがあるなんて…と、そのことにも感動。
わたしにとっては、心動かされた、行ってよかった展覧でした。

お昼をとってから、お次は講演会の会場へ。
写真を見ながらの、生い立ちから拡がるいろんなお話を堪能してきました。
(前にラジオの講演を聴きながら聞き書きしていたら、
 坊ちゃんたち、「聞き取りテスト?!」とひそひそ。笑
 今日も、「聞き取りテスト」的メモしてました。)

「『猫のしっぽ』・・・今ちょっと、お休みしています。わたし、もっと見たかった〜」
会場、笑い。
「なぜ見たいかというと、フレンズ、友達が紹介されるのね。あれが、楽しみだったから…」
お友達の取材は見ていないので、その放映を毎回楽しみにしていたというベニシアさん。
「その代わり・・・映画、作ります。秋に、東京と京都で、公開します。」
「どんな内容か…は、まだ分からない。だけど…わたしの映画だと、思います。」(笑)
↑こういうおもしろ発言が好き。
そして、ごぶさたしている台湾の友人の語り口に、なぜか重なるのです。。

最後に質問コーナーもあって、そこでも、笑いが飛び交いました。
「アリが好きじゃないハーブがあるのね。タンジーというのを植えると、少しましかも。」
「でも、基本は、共生ですから。少しは、しかたない。殺虫剤は、ダメ。」
「もぐらは大原には出ないから…もぐらにきくハーブ…わたし、知らない。分からない。」(笑)
質問に率直に答えるのが、すてきでした。
日本語が言葉足らずなぶん、雰囲気で伝わってくるものが大きくて。
今書いてみても、うまくレビューできないのでした。。

とにかく…
現代を生きる人たちには、なかなか実現・実行しづらい暮らしのありかたを、
自ら実践しながら、それをたくさんの人に伝えられる、それもまったく嫌味なく。
あのお人柄…やはり、西の魔女です。


四条木屋町、高瀬川沿いの満開の桜。
いちばんいい時季に来られて、感激。
このすばらしいロケーションのつきあたりにあった、名曲喫茶みゅーず
(昨年の9月の、京都旅日記に書きました。)
狭く、静かな店内を懐かしく思い出す。
今はなくなって、焼肉やさんに…とほほ。
ほんとに、見事な景観です。
阪急河原町駅の上がり口なんだけど、一眼レフを抱えた人、多数。


四条大橋の下は、いつものように、等間隔カップルの列。
対岸の桜並木のおかげで、それすらも春らしく見える。
遠く、三条大橋を臨んで。

このあと、桜見たさに祇園につっこんでしまい、動けないほどの人ごみに驚愕。
円山公園の桜はあきらめて、東大路通を下り、五条坂に出て、西へ折り返す…。
時間があったら、『マザーウォーター』の桜の風景(白川あたり)も、見たかったなあ…。
バスも満員だったので、結局烏丸まで歩き、ひと駅地下鉄乗車。
坊ちゃんたちのリクエスト・聖護院八ツ橋(桜あん)を買って、一路、ナゴヤへ。
(帰路は乗り過ごしがオソロシイので、絶対に眠れません!次はシンヨコハマ!)

さて。お留守番をOKしてくれた、坊ちゃんたちのいちにち。
朝、ピアノのレッスンに行って→サンドイッチ用のパンを買いに行って→サンドイッチを作って、お昼。
ふたりで勉強して遊んで→おやつを食べて→夕方、書き方に行って→帰って野球中継を見る。(笑)
そんなふうに、自分たちでじょうずに、時間を使って待っていてくれました。
わずか数年前まで、ばたばたでパン教室に通った日々が、嘘のよう。
大きくなったね。
しみじみ、その思いをかみしめつつ…お留守番、ありがとう。



過ぎゆく春  4/1

お花見はいつも、川べりの遊歩道。
春休みのいちにち、おにぎりやサンドイッチを持って、でかけます。
ベンチで食べて、花びらを拾ったり、桜笛を吹いたり。
桜並木の下で、のんびり遊んで帰るだけのお散歩。
いつの頃からか、お約束になっていた。


7年前のふたり。
小学校の入学式を目前にした、大きい坊ちゃん。
小さい坊ちゃんは、年中さんに上がる春。
なんて大きくなったのでしょう。
あっというまに、通り過ぎる季節たち。
桜の花びらと同じように。


つかまえられない時間の花びらを、
心のシャッターで、たいせつに記憶する。



  われは草なり
  緑なり
  緑の深きを
  願うなり
  
  ああ 生きる日の
  美しき
  ああ 生きる日の
  楽しさよ
  われは草なり
  生きんとす
  草のいのちを
  生きんとす

           高見 順