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一輪の花  10/30

家の東の窓にかけてある、ゴーヤネットをもう、倒そうと思いながら、
なんとなく、まだ生きてるしなあ。。と、すかすかのすきまだらけのまま、放置状態。

今朝、雨戸を開けて、何気なくプランターに目をやると、
あれれ?低いところに、ちいさなちいさな、水色の花が一輪。
ゴーヤのプランターなのに!なんで??
この花なんだっけ。。夏の初めに、植える花。
○○○ア、って感じの名前だけど、出てこない。
美しい、空色の花。
おそらく…今年買った苗がこの色で、すぐに枯れてしまったのだけど、
根が土にまぎれて、このプランターで生きていたんだ…

夏に向かって咲く花が、こんな季節にこんなところで、ひっそりと咲いている。
開花まで、誰にも気付かれることなく。
そのすがたに胸をつかまれ、しばし見とれた。
" 一輪の野の花に、天国を見よ "
ウィリアム・ブレイクの詩が、心をよぎる。

花の名前は、ロベリア。
一日経った朝、ふと思いだした。



つまんない  10/28

突如として無力感に襲われる。
自分で持ちなおそうとしても、どうしようもない時もある。

へこんだふたつのできごとがつながっていることに気付き、またへこむ…
外によくして、中では我慢。
この構図が意識下に組み込まれ、わたしもまた、子どもに同じことをくりかえすのだろうか…

外に認められるよう、間違えないよう、叱られないよう、やってきたけれど、
心理学的にそういう人は、他人に緊張感をもたらし、親近感を得ることはできないらしい。
その埋め込まれた図式に沿って、無意識に、真面目にやってきたのに。
人に受け容れられない人格を、作ってしまっていただけだった。
人見知りかと思っていたけど、自分が壁を作ってしまっていたんだ。
努力して変えるったって、いまさら、そんな簡単なことじゃない。
そんなことを思うと、つまんねっ!と叫びたくなる。
なんの役にも立たないと言われる、自己嫌悪と罪悪感に苛まれ。
こんな自分に絶望する瞬間がある。
ほんとに。



つれづれ  10/26

むわむわした蒸し暑い週末から一転、北風が吹く秋晴れのなか、
車で用事と買い物に。
道中、車のHDDにまだ入っていない、さだまさしの5年前のアルバムを録音する。
しみじみと、ドラマの主題歌だった歌を聴く。泣けるなあ…

誕生日には、たくさんのお祝いをありがとうございました。
ただ黙々と、モノの片付けに没頭していたなか、
とてもうれしかったです。
http://www.cai-insect.jp/sada/lyrics.html#birthday
ここに載せられないけれど、気持ちは、この歌詞そのものでした。

同じ誕生日の皇后さま。喜寿を迎えられたとのこと。
夏の終わり、音楽祭でのピアノの音合わせがニュースになっていましたが、
本当に、お上手なんだそうです…
(コンチェルトを弾かれたりするんですから!)
年齢は、関係ないのね…すばらしいです。
実はわたしもひそかに、小さな発表会を控えてます。
いいかげん!!壁を突き破りたい!と思いながら、さて、どうなるんでしょうね。。



生きるということ  10/17

「何のために生きているの?」

今日、心から思った。
忙しい・忙しいと、先々まで忙しいで埋め尽くし、
その時その時にしかない、人の気持ちや状況や、
それさえも、先々の「忙しい」予定の束で、消してゆく。
そうして先を急いで、行きつくところは何処?
「ああ、忙しい、あれがあるから、これがあるから、今はそれは無理、あれもできない…」
そう言っているうちに、死ぬのです。
死。
そこを楽しみに、忙しく、死を迎えるために、みんな生きているの?

人生は旅、とよく言われる。そのとおりだとおもう。
さらに言えば、目的地を目指す旅ではなく、旅そのものが、生きる目的。
流れていく景色ひとつひとつに心を置いて、旅を楽しむことが、生きる目的。
今、ここで、立っていること。
今、これを、見つめていること。
今、これを聞いていること。
今、これに触れていること。
今、ここで、感じていること。

いつもいつも、次のことで頭がいっぱいで、今の時間は、置き去り。
やってくる時間がついになくなった時、そのことに気付く…
その時にはもう、すっかり、遅いのだ。

このことが心に落ちてから、今を意識して大切に過ごすように気をつけている。
これは、わたしが「ヒマだから」「恵まれているから」考えられることなのだろうか?
みんな、それどころじゃない忙しさなのだろうか?

けれど死は、誰にも平等に、やってくる。

どう生きたいか。
それは、どう死を迎えたいか、ということ。
与えられた人生の時間を、どう生きるかは、
心の置き方ひとつ、自分で決めることができるのだから。
周りのせいにしてはいけない。
自分で選ぶ。

そして、忙しいと言いながら死んでいく、それも、その人が選んだ、生き方なのだ。



せいりせいとん  10/17

昔は大得意だったはずの「せいりせいとん」。
自分の机の引き出しも、乱れてきたら全部出して、ぴしーっと片付けて。
けっこう、きれいにしていたはずなのに…

なぜ、こうなったのでしょう。(笑)
結婚して、管理するモノの量が増えて以来のような、気がする。。
要領の悪いわたしは、なかなか、全体把握することができないのだ。。たぶん。

気候のいいうちにがんばろうと、日々整理中です。
外の花たちも、寒くならないうちに、植え替えてあげたいのだけど。

今朝は「いきなり顔面殴打」的心情になるできごとがあり、
そんなつもりは全然ないのに!!どうにもしようがなくて、
泣けて泣けて、また、それもどうしようもなくなり。

仕方なく、泣きながら手をつけた片付けのつづきが、たまたま手紙の整理で。
はがきはざっと目をとおして、人ごとに分類して、
封筒のものはひとつひとつ開けて目をとおし、
連絡事項が主のものは処分して、気持ちの綴られたものは、また分類。

そうしているうちに、なんだか、今度は違う意味で泣けてきて。
たくさんの人が、みんなわたしの名前あてで、わたしに向けて、
わたしのしたこと、書いたことについて、一生懸命、語りかけてくれていて。
たくさんの手紙の主が、一斉に、わたしに話しかけてきてくれた、気がした。
もの言わぬ紙の束が、心の中の痛いところに、染みてくる。。

人生のはじまりから、気持ちを分かってほしかった人には、
たぶん最後まで、分かってはもらえない。
相手にはそんな義務もない。
むしろ、わたしがその事実を飲みこむ努力をするしかない。
そう今は分かっているつもりでも、不意打ちでそれを見せられると、耐えられなかった。

その一方で、
その分わたしは、たくさんの人に支えられ、励まされ、育ててもらったことを、
その痛みのおかげで、知ることができるのだ。

なんたる矛盾。
そして、なんたる愛の学びであることよ。
この神のはからいを、粋ととるか、天邪鬼ととるか。
そしてそれもまた、せいりせいとん好きな、わたしの性質あってこそ。



『五郎のおつかい』  10/12

秋は連休、連休、連休、、、
先週末は、坊ちゃんの修学旅行のお疲れ休みまでくっついて、4連休…
気候がいいこの季節、地域や子ども会の行事も目白押し。
ちょっと(かなり)へこむできごとがあり、力を失ってました…


8月末、今年のおみそを、初めて食べてみました。
努力の甲斐あって、涙、涙の、ベージュ色。
4年目にして、やっと、思い描いた?おみそに近づきました。
お味も、「倍麹」が効を奏して、優しい甘さです。



仕込んだ時に入れた粉わさびは固まりになって、香りもすっかり飛んでいました。
(半年間、お疲れさま…)
新しい粉わさびを買ってきて、こねこね。
(うっかり浅い容器でやると、容器持ってる手の甲が辛味でヒリヒリする!!)
新たなカビ除けになって、選手交代です。

このおみそ汁を見ていたら、ふと『五郎のおつかい』っていう話を思いだしました。
松谷みよ子さんの、昔の童話です。

時代は、戦後すぐの頃。五郎がおなべを持って、
ひとりでおみそを分けてもらいにいく、という話。
「おみそがあると、お乳が、こっくん、こっくん、って、出るんだけどね…」
悲しそうなお母さんの言葉をきいて、五郎は、
「ぼく、ひとりで行けるよ。おみそをもらってくるよ。」と、おつかいを申し出ます。

おみそをもらった帰り道、おなべが重くて重くて、
五郎はおなべの取っ手に拾ったひもを結んで、ごとごとひっぱって帰ります。
その途中、野っぱらを通った時に、空で雲のお嬢さんたちがダンスをしていて、
雲のおじいさんに誘われて、五郎も一緒に、踊るのです。
「このおどりは、カドリールというんだ。」
このくだり、あざやかによみがえります。。

「ぼく、カドリールがおどれるようになったよ」
五郎の寝言を聞いて、お父さんは、夢を見たんだな、と笑います。
「それにしたって、大したやつだ。ひもをつけて、重いおみそを捨てずに持って帰って…」
そんな物語。

重い重い(総重量11.8kg!)タッパーを開けて、おみそを見ていたら、思い出しました。
五郎、えらい!と、お父さんの気持ちになって、30年も前に読んだ物語に、感服です。



大きな箱が、あったなら…  10/3

10年ほど前、「バスごっこ」と呼ばれた遊びがありました。
その姿があまりに可笑しくて、
捨てられた子犬ごっことひそかに呼んでいたわたし。(笑)
以前、「シャツの柄の記憶」の話から、ここにこの写真載せたかと思いますが…↓


こんなのです。

このたび、思いがけずでっかい丈夫な段ボールが現れたので、
早速、中に入ってしまった坊ちゃん。
自分より大きい箱を目の前にすると、入りたくなってしまう性分?


やはり、捨てられた子犬状態…。(笑)
でも坊ちゃんもずいぶんでかくなってしまい、残念ながら、ふたり一緒には入れない。
これよりはるかにちいさなダンボールに、ふたりで入れていた時代があったんだね。。


順番に、小さい坊も入りました。
それでも、あの頃も今も、たいして変わっていないような…。


そして、、、
「箱から生まれた、箱太郎!!」(爆笑)

新たな遊びを考えるあたり、10年分の成長なのでしょうか…。

そんな箱…何が入っていたかといいますと。
ミニコンポを、買い換えました。
実は買い換えるつもりは、少しもなかったのだけど。

突然CDのトレイが動かなくなり、修理に出したところ…
製品を作っていた会社が、吸収合併により消滅、
修理に必要な部品がもう残っておらず、おわびに買い取りさせていただきます、と。
青天の霹靂、のんきに帰りを待ちわびていたステレオがもう帰ってこないと知り、
ええーっと大ショックを受けた我が家…。
もうひとつあるステレオは大きすぎてリビングに置けず、
ない間ガマンして使っていたCDラジカセでこれからを過ごすとは、到底考えられず…

すでに修理の持ちこみやら見積もりやらのあいだ聴くのをガマンしていた音楽を、
(テレビないよりつらい!!)これ以上、ガマンできませーん!!と、
下調べを開始、そして、いちばん種類を置いていそうな大きなお店で話を聞くことに。。

音楽が本当に好きそうなおじさん店員がていねいに説明してくれたところによると、
なんと、MDが、すでに消滅してしまったと…。
ウソやろ?!と探すも、確かに、新しいMDは売っておらず、
再生・録音機器も、限られた機種にしかついていない…
(いずれ機能が使えなくなるため、ひそかに「たたき売り」状態なのだそうで。)
オットーとともに、唖然…
ステレオ買い換えとならなければ、まったく知る由のなかった、
音響業界の進化、いや、変化…
それほどまでに、デジタルオーディオプレイヤーが普及していたとは…
あちこち見て歩くのも大変なので、ネットで買ってしまおうかとも思っていたのだけど、
ちゃんと売り場で話を聞いてよかった、と思いました。。

下調べで考えていた機種では、MD機能つきを選んでいたのでしたが、
急転直下、まったく考えてもいなかった機種を、その場で購入決定。
我が家の次世代は、SDカードとUSBメモリに託された!!

…とはいえ、ま、ほぼCDの再生専用となるのでしょうが。。

そんなわけで…
本体と緩衝材を取り除き、「捨てられた子犬」ごっこです。(笑)



最終回  10/1

半年間、楽しみに見ていた「おひさま」が終わりました。
なんとも、さわやかな最終回!!
感動しました。

朝ドラはここ数年、だいたい見ているけれど、
感動作もちらほらあったけれど、
「おひさま」の感動は、少し違うものでした。
ただ「作品」として、客観的にみた物語世界に感動するのでなかった。
なぜかと考えてみると、何か、心の中に食いこんでくるものがあった…
時代はまったく違うのに、「共感」する部分が多く、
それが胸にくいこんで抜けなくなる、自分の中の真実が揺さぶられる、
そんな「感動」でした。

また、現代と対比しながら物語が進んでいくことで、
その人を目の前にしているだけではなかなか見えてこない、
誰にも子ども時代があり、若い頃があり、それぞれに歩んだ人生の道があるということ、
その重みを実感させてくれた、というのも大きかった。
渡辺俊幸さんの音楽が、心の深いところに響いた、というのもあったでしょう。

「女性たちよ、よき人生を!」

忘れられない、名セリフですね。よい作品と出会えて、幸せでした。