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天風哲学  9/30

「やってみせ 言って聞かせて させてみて 褒めてやらねば 人は動かじ」
有名な、山本五十六のことば。
春に立ち読みした栄養雑誌(なぜに!)の中で、
精神科医の方がこれを引いて、人の導き方を説いていました。
その誠実な文章とともに、胸を打たれたことばでした。

松下幸之助氏の本にも、心打たれることばがたくさんあった。
ふとしたワンフレーズでも、心にひっかかり、自分の中に残ってくれるとうれしくて、
またそのことばについて、あれこれ考えるのが楽しいのです。

そしてある時ふと名前を知り、何気なく手に取ったのが、中村天風さんの本。
何がきっかけだったかも、思い出せませんが…
恥ずかしながらまったく、知らなかったのですが、
山本五十六さんも、松下幸之助さんも、ほかにもたくさんの方々が、
薫陶を受けたのが、天風さんだというではありませんか。
数々の思想の源はここか!と一気に腑に落ちる、そんな天風さんの哲学は、
講演会の口述形式で書かれている本だったので、おもしろくて、おもしろくて。
しかも、内容はもう、大変にすばらしい!!
明るく元気な天風さんの語りが、文字の中から聞こえてくるようです。

ここ数年で、わたしの中で名著!と思っている本に書かれていることと、
大いにつながっていたことも、すっと入れたきっかけかもしれません。
人間は、何のために万物の霊長として生まれてきたのか。
宇宙と人とは、どうつながっているのか。
どう生きるべきなのか。
死線をさまよった体験から得られたその哲学は、カントの哲学にも通じていて、
分かりやすく、そして説得力をもって、明快に語られます。
読んでいるだけで、気持ちが明るくなるような。
師に叱咤激励されているような、そんな気持ちになれます。



パキラ  9/28

パキラがついに、わたしの背を追い越した。


ここに引越したばかりの頃、新居に飾ろうと、実家近くのすてきな花やさんで買って帰った。
あれから7年半。植え替えて、切り戻しもして、
小さな水耕栽培だったパキラが、こんなに大きくなってくれた。
毎年冬の終わりには、寒さに疲れたように下の大きな葉を落とし、
夏にまた上へ上へと伸びて、ひょろりとした姿になって。
あまりかわいそうなので、もう上の芽をとめてやろうかとも思ったのだけど、
もう少しで、わたしの背を越えそうだったから。。
本当に、大きくなりました。
我が家のいちばんいい具合に光と風が当たるところで、ゆるゆると育っています。



うれしいメール  9/27

17日に行った、川上ミネさんのリサイタル。(下記参照)
あれから1週間、、、連休やら台風やらで連日お休みの子どもたちの相手に追われ、
今週になり、やっと、リサイタルのお礼のメールを書くことができました。
あの日、帰りの電車の時間が迫り、聴けなかったアンコールが残念で、
何の曲を弾かれたのか、ということも、知りたくて。
事務所の方がチケットや天候の連絡をていねいにしてくださっていたので、
スタッフのどなたかが教えてくださるかも、という淡い期待とともに、感想を書き送ったのです。

そうしたらなんとっっ!!
スペインに戻られたばかりの、ミネさんご本人から、
ていねいなお返事が届いたのです!!(興奮)

以前日記に書いた、CDを申し込んだら、ご本人からメールが!というのは、
実は川上ミネさんのことだったのです。。
今回も、またていねいにことばを選んでお返事くださり、
本当に本当に、うれしくて、舞いあがりました。。
最後に弾かれたメドレーに、ちらりとモリコロアニメの音楽が入っていたのですが、
それに気付いたことを、とっても喜んでくださっていました。
アンコールの曲も、どんなふうに弾かれたかも、
その時の状況や想いを添えて、説明してくださっていて・・・
本当に、今日最高のできごと、今日の天使のいちばんでした!

2009年の清水寺の映像が、少しだけですが見られます。
ひさしぶりに、ここにソースを貼ってみますね。
アルバム「眠りのピアノ」より、"サンチアゴ巡礼の道"です。





『見えないものを見る力』  9/19

9月も半ばを過ぎて、庭の植物たちのようすが変わってきました。
水を遣っても疲れたようだったのが、気付けば少しずつ、新芽を伸ばしている。
自分自身でも感じる、少し暑さがやわらいで、ホッとする気持ち。
植物もまた、一緒なんだなあ。。きっとそうなんだろうなあ。。と、
しみじみ、共感。

青森のりんご農家、木村秋則さんの講演会に行ってきました。
「奇跡のリンゴ」として有名になるまでの過酷な道のりを、
他人の目をものともせず、あえて選んで乗り越えてきた、
木村さんの語り口は切々として、胸の深いところに染みました。
このままではいけない。
著書を読んで以来、危機感を抱いてはいたけれど、
直接話を聴いて、さらに強い焦燥感を覚えずにはいられなかった…

同時上映された「降りてゆく生き方」という映画の最後に、
「このままいけば、地球はあと何年もつと思うか」という質問に答え、
主人公は「五十億年くらい?」と軽く答えるけれど、
「いや。五十年だよ」とはっきり訂正される。
その言葉に、震撼した…
木村さんの不思議な体験をまとめた本のなかで、
木村さんが教えられた地球の年限は、ふた桁だと書かれていたから。

講演会で木村さんが話された内容については、
『リンゴが教えてくれたこと』(日経プレミア新書)にほぼ、まとめられています。
そして、講演会ではひとことも宣伝されなかったのに、
この数日後に、新刊書が発売になったことを、あとで知りました。
『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(扶桑社)
既刊の、『すべては宇宙の采配』に通じる内容ですが、
ほんとうにたいせつなことは、目には見えない、ということ、
地上部の2倍はある地下部を知ることが大切だということ、
農業がすべての事象、真理に通じること
見えないものを見る力が、本当の生きる力となるということ、
これらを実体験をとおして語られ、(だから本当に説得力がある)
農業をとおして世界を変える=「農業ルネッサンス」を提唱されています。
21世紀は、地球を修復していく時代だ、と。

木村さんのお話を聴くにつけ、
宮澤賢治を思い出さずには、いられない。
「農業は芸術」だと言った賢治先生。
そして、ベニシアさんのエッセイと、同じスタンスで、同じことを語っている。

「心を変えればすべてが変わる」と、木村さんは著書の中で語ります。
わたしたちは、地球環境や食について、あまりに問題が大きすぎて、
自分に何ができるのだろうと嘆きがちですが、
先日書いた"nobody"=誰かがやるだろうと思って誰もやらなかった。とならないように、
ひとりひとりが、「心」から、変えてゆく必要があるのでしょう。

木村さんの著書(ライターさん取材の本でなく、ご本人の書かれた文章をおすすめします)が、
たくさんの方に読まれることを、そして、
すべての人が環境について真剣に考え、行動することを、心から願ってやみません。



京都へ  9/17

京都駅で友達と待ち合わせ、雨の中、バスで1時間。


通称・鈴虫寺、華厳寺を、16年?ぶりに訪れました。
ここは、わらじをはいたお地蔵様が願いをひとつだけ、叶えてくれるという有名なお寺さん。
今ではパワースポットとして、昔以上に参拝する人たちが、
文字どおり門前列をなす状態になっているそうで、休日は2〜3時間待ちにもなるのこと。
そんな事情は知らず、それでもずっと御礼参りをと思いながら、なかなか叶わず…
前にいただいた御守を、失くしてしまったと思っていたけれど、
帰宅後よくよく考えてみれば、失くしたんでは、なかったな。。
人生、いろんなことが、あるもんだ。。

それでも、御礼をお地蔵様に直接言えたから、ほんとによかった。

それからまた、雨の中をバスで1時間。ひたすら、対角に京の町を下る。
3週間後には大きい坊ちゃんが修学旅行でまわるところを、お先に通過。(笑)
結婚式の支度をしてもらったホテルの前も通り、懐かしい気持ちになる。。


夕暮れ近づく四条大橋の上。増水した鴨川。
この雨の鴨川の風景、どうしても、『ホルモー六景』(万城目学)の最初の話、
「鴨川(小)ホルモー」を彷彿とさせるのです。舞台がここだけに。
思わず、パシャリ。
わたしもこの橋のこと、詩に書いてあります。10年くらい前でしょうか。
詩のページにあります。さてどれでしょう。(笑)

さて。。今日の京都のほんとの目的は、実は鈴虫寺ではなく、清水寺でした。


それも、夜の清水です。
清水周辺、昼間のにぎわいがウソのように、真っ暗。
そして、誰も歩いていません。
さすがのわたしも、ひとりではちょっとこわくて、(いちばんこわかったのは、帰りですが)
友達が一緒に来てくれることになったので、申し込んだ次第でした。


7年目を迎えた、川上ミネさんの清水寺ピアノリサイタル
ほとんどスペインで活動されているミネさんの、貴重な日本公演。
清水の舞台で、虫の声と滝の音と、、、風に吹かれながらピアノの演奏を聴く。
なんてぜいたくなんでしょう。。

リサイタルの1時間前、バケツをひっくりかえしたような雨があり、
舞台の向かいの、お堂の中にも席が設けられていました。
最初、↑のように、お堂のなかで聴いていたのですが、
雨がやんでいたので、いすを自分で好きな場所にひっぱっていき、舞台の後ろに移動。
(席替えが途中であって、好きな場所に移動して、ピアノを聴くことができるんです。)
とてもリラックスした雰囲気なのに、演奏中は、みんな全身が耳になったように聴きいっていて。
最後の一音まで大切に聴いているのが、拍手で分かります。
なんとも心地よい緊張感と、自然そのもののようなミネさんのピアノとに、時間を忘れました。
アナウンサーの村上信夫さんの詩の朗読と、ミネさんの演奏とのコラボコーナー。
番組を通じて知り合われた、ベニシアさんや田中美里さんが観客の中におられたので、
そのご紹介もありました。

ミネさんのピアノは…思ったとおり、すばらしい音楽でした。
風や雷の音、星の光が、音のなかに本当に感じられるような。
どうして、あんな音が、出せるのでしょう。。
ことばを持たない自然の心が分かるような、そんな、音のスケッチ。
心を洗われるような、そんなピアノをそばで聴くことができて、本当に幸せでした。
そして、8月にお別れした友達と一緒に行けたこと、それもほんとに、幸せでした。
夜遅くまでおつきあい、ありがとうね。



成長  9/13

この日記をさかのぼって読んでいたら、忘れていた古いエピソードが可笑しくて、
坊っちゃんたちを呼んで、見せてみた。
初めは、「あーこれ、覚えてるわ!」とか、最近の出来事への反応だったのが、
だんだん、自分たちの記憶にない出来事になってくると、
その幼さに大ウケして、また、苦心したわたしの文脈にも笑ってくれるので、
しみじみ、ほんとうに、書いてきて、よかった!と実感。
時間差で、自分たちの姿を見て、笑っているというか。。
普通なら、ホームビデオや写真で記録されているものを、
おもしろおかしく状況再現した文章でそれを楽しめるので、笑い倍増、
さらには、ビデオにも撮れない、ふとキッチンからのぞいたひとコマ、のような繊細なものも、
わたしの目と頭と手で、残されている!ということに、
初めて、誇りを持ちました!
これ、ファイルをさかのぼったら、9年書き続けていることが判明。
育児日記ではなく、わたしの生活日記なんだけど、
自分の心の成長と合わせて、子どもたちの成長の軌跡、そして日々のできごとが
(もちろん、すべてではないけれど)残されていて、感慨深かったです。
HP用ですから、ホンネのホンネまで突っこむ話は書いていないけど。
坊っちゃんたちがトリの目で、幼かった自分たちの姿をみるまで、
時間差を埋めて記録しておいてよかった、とあらためて感じました。

記録せず、過去に執着せず、日々を流していくことが本当は大切なのだろうけど、
年をとったときの楽しみ程度の執着なら、いいかな。。

ふう。
長い歴史にひと区切り、ということで、
ウェブ上からは、古い日記を削除しました。



無事でよかった  9/10

台風の影響で、十津川村に閉じ込められていた叔母が、
9日に無事に五條の家に戻ったようで、連絡をもらって、ほっとしました。
道路が通れないため、ひもが一本切れている(!)吊り橋をわたり、車は置き去り。
家で車がなくて不自由しているらしいですが、
身ひとつでも、とにかく無事に戻ってくれて、ほんとによかったです。
娘が心配して、お守りに家から真珠のネックレス持っていっていい?と聞かれ、
「勝手に形見にすんな〜!持っていくな〜!」と(笑)
叔母はうるさがっていましたが、心配してくれる娘がいて、よかったね。

くりかえし流れる土砂崩れの映像から、このあいだ鳥羽に行った時に見た、
切り崩された山肌が脳裏によみがえる。。
木々の根っこが抱いていてくれる土を、わたしたちが自分で崩してきたのに、
土砂災害が増えていることを騒いでいるのは、なんだか変な話だなとしみじみ思う。
けれど、自然災害の現状を深刻に伝える報道をみるたび、
テレビをとおしてでは、どこか他人ごとのように感じてしまう自分にはっとする。
そして、「その責任をみんながとらなかったからだ」ということばを思いだす。

『この世の中には、4種類の人がいる。(anybody、somebody、nobody、everybody)
…必ずやらなければいけない大切な仕事があったとして…
誰でも(エニバディ)できるものだったから、誰かが(サムバディ)やるだろうと思って
誰も(ノーバディ)やらなかった。みんな(エブリバディ)誰かがやってくれるだろうと思っていた』
みんな自分の問題と考えないで、そのままにしてしまう…
どこかで、100%自分の責任だと考える人がいなければ、問題は何ひとつ解決しない…

責任をとる=罰を受けるという意味合いが強くて、
誰もとりたくはなくなってしまうのですが、
責任をとる=悪いことをしたわけではない、成長に必要な経験をしただけ、
罰されることではない、そう心を切り替えて、自分の人生に現れることに責任を負うと考える時、
人は被害者意識から脱し、本来の自分の力を発揮することができるようになるのだそうです。

「見ているだけ」をやめて、「心で思う」だけでもいいから、
自分にできることを考えていかないと、と、そんなふうに思っています。



重陽の節句  9/9

今日は、菊の節句の日。

太陽高度が低くなり、夕方になると、確実に光の角度の傾斜を感じます。
そして、そのせいか、美しい金色の帯になる。
その時間帯…16時半を過ぎる頃から、部屋の壁に映りこむ、窓の外の木々の葉影。
風にさやさやと揺れて、金色の光も揺れる。
そんなとき、こんな夕暮れをくれた神さまに、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
この光景はまるで、賢治童話そのもので。
「鹿踊りのはじまり」というその童話の、金色の光が射す、すすき野原に立っているような、
まるで北上川の川べりに立っているような、
そんな心持ちになるのです。。

ああ、、、恋しや、イーハトーブ。