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夏休み最後の日に。  8/31

夏休みが終わる今日、一日引きこもっているのもかわいそうかなーと、
朝からプールに行ってきました。
ぷかぷか泳いでいると、白い帽子、赤い帽子が目について、
20代半ばで、泳ぐことを人生の一部にできたのは大きな実りだったなあと、ふと思う。
小学校時代、25mを泳げない6級以下の子は赤帽、5級以上は白帽、と決まっていた。
帽子を見ていたら、あの頃の劣等感や水泳大嫌いだった気持ち、感覚がリアルによみがえり、
便宜上引かれた、つまんない仕切りにとらわれていたなあと、
あの帽子のせいで、小学校でわたしの水泳人生は終わるところだったなあ、と、
あらためて、子ども時代の導かれ方の重要性を思う。
「それがすべてではない」枠の中に押しこめて、そこがさも世界のすべてであるかのように、
真っ白なわたしの石板に、他人がジャッジした自己概念を書きこんでいく、ことの、怖さを思う。

雨が降ってきそうだったので1時間ほどでひきあげ、
午後から、借りてあったDVDで「風の谷のナウシカ」を観ることに。
ナウシカは、子どもたちは初めてだけど、わたしは数回観ている。
今回は数年ぶりだと思うけど…とおしてちゃんと観るのは、もしかしたら、十年以上ぶり?
ストーリーをはしばし忘れていたので、新鮮。
でも、はしばしで次のせりふを覚えてる。(笑)この矛盾。
昔々、初めてこの作品を観た第一印象はなんといっても、巨大な虫の気持ち悪さだった。
さらに気持ち悪い「きょしんへい」に、どんな字を当てるのかも分からなかった。

今回は…途中から泣けて泣けて。
なんで泣けるのか、よく分からないまま、ラストまで目を泣き腫らして。
観終わってから、考えた。
いちばんは、昔、あんなに気持ち悪かった虫たちが、かわいそうで仕方なく。
そして、毒をまきちらしながら、その底では、人間が汚したものを浄化しつづけている、
植物たちが、けなげで、不憫で。
それらにまっすぐに向かっていく、ナウシカのすがたがあって。
おばばのいう、「いたわりという愛」が、ほんとうにこころに響いたのだ、と思った。

この感動は、ただ、物語世界だけをとおして得たものではないことにも気付いた。
それは、以前観た時にはなかった、
植物や虫を、自分の手で世話をして育てた経験や、
子どもを育て、共に生きた経験や、
自分の成長とともに心に入るようになってきたあらゆるニュースや情報、
いろんなフィルターがわたしの中に増えたからこそ、の、
感動でもあった、と。
真実に触れてきた心が、物語世界にある真実にもまた、反応したのだ、と。

まったく同じ作品でも、せりふまで覚えていても、
自分の変化とともに、心への響き方が変わる。
逆に言えば、その響き方をみれば、自分がどう変化したかが分かる。
そしてたぶんそれは、作品に限らず、なのだ。
人にも、環境にも。すべてに、自分の今の姿が、映し出されている。

今回、国や人の関係が分からず、
おもしろかったけど、よくわからなかった。と言った子どもたちが、
これから年月を経て、次はどんな反応をするようになるのか、
楽しみだな、とも思った、わたしでした。



空の変わり目  8/27

スイミングの帰り、空を見上げたら、東の空と西の空で、雲のかたちが違っていました。


東の空には、もくもくの入道雲のかたまり。
頭の真上にはうろこ雲が、西に傾く太陽に照らされて、美しい模様を描いていました。
この狭間に、今、わたしたちの季節があるんだなあ。。


そして、そのうろこ雲に、太陽の光が反射して、ちいさな虹の輪っかができていました。
一日の終わりの風も、気付けば秋の気配。
こんなに暑いのに、肌触りや、においや、、、
目には見えないものが確かに、季節の変わり目を告げている。
思わず、深呼吸。

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秋立つ日、よめる
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
(古今和歌集 藤原敏行)
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・・・って、とっくの昔に、そんなことは言われていたんだったな。(笑)
こんな美しい歌に。



なごみ・むー  8/22

夏のむーちゃんのようすを、写真に撮ったまま、忘れてました。。


大きなすいかとむー。
まるごと届いて、うれしいむーちゃんを撮りました。
しあわせそうです。
次は、おすしを食べるむー。


これもかなり、しあわせそうです。
むーちゃん、まぐろのおすしが食べられるんだね。
ちょっと、おとなだね。
ようせいがっこうのみんなと、おうちでファミリー回転ずしをしたんだって。
みんなと食べて、きっと楽しかったね。



去りゆく人  8/22

このところずっと、胸の底を流れている、静かな寂しさの波があり。
ついに今日が訪れて、去っていく友が、ひとり。

ふしぎな関係の人だった。
子どもが生まれる前に知り合ったのに、
ともに子育てしながら遊ぶ友達であり、
けれど子育て以外の話もたくさん、してきた人。
共通の友達はまったくなく、住む地区も違い、
つねに1対1で、向き合ってきた人。

魂に届く、というか、響きあう、というか。
話題ひとつにしても、興味のあることを、
無理せず話せる数少ない大切な人だった、と、あらためて気付く。

だからたぶん、これからもきっと、今までのように。
住む場所が遠くなったとしても、環境が変わったとしても、
今までのように、細く長く、おつきあいを続けていけるはず。

そう信じて、やるせない、せつない気持ちを、なだめている…



今日のお仕事  8/14

暑い毎日、体もだるく、なかなか、ふだんの炊事以上のことができず…。
けれど冷蔵庫で待っている、新しょうがとブルーベリーのため、
重い腰を上げて、ようやく手をつけました。


紅しょうがは量を迷いましたが、200gほどを刻んでびんにぎゅっとつめ、
梅酢が少なくても漬かるようにしました。
宅配の野菜セットに入っていたブルーベリーは、生では酸っぱくて、
冷凍庫に長らく眠っている(コワイ…)他のブルーベリーと合わせて、
ジャムにしてしまおう、と計画。
紅しょうがのレシピを整理しているうちにちょっと煮詰めすぎてしまい、
翌朝、もう一度、水とレモン汁を足して煮なおしました…。

そして、なんとすごいことに。
つい先日、熱湯消毒して、しまったばかりのふたつのびんに、
ぴったりと納まってしまったのでした。…予定調和?
(しかも、ひとびんは、ラベルがはがせなかったブルーベリージャムのびんだった!)

あとは、残りの新しょうがを、甘酢漬けにするお仕事…。
おいしいお酢を買ってこよう。



常識  8/12

常識を常識と思ってたらあかんで、という、オットーのひとことから、
わたしもこの頃、同じ感覚をもつことが多かったなと、気付く。

最近、ハーブへの興味から、統合医療、ホリスティック医学関連の本を読んでいて、
わたしたち(特に日本人)が常識、当たり前と信頼してきた西洋医学は、
常識となったのが、ここ数十年の歴史なんだということに気がついた。

子どもの頃からわたしは(親の影響も大きいが)、病気になればすぐ病院に行き、
薬をもらって飲んで、治すべきだ、と思いこんで(信じて)いた。
治してくれるのは病院と医師だ、と思いこんでいた。(依存的な心情があった)
治癒していく力は実は自分の体にあり、化学薬品は体に影響があること、
薬で症状をおさえこむことが治癒そのものではない、ということ、に気付いたのは、
つい最近のことだ。

また、それらや、素食をすすめる本などではときどき、牛乳信仰をやめよう、と書かれていて、
牛乳が重要な栄養食品、というのは、戦後アメリカがもたらした考え方にすぎない、とあった。
乳製品には血管を狭窄させる要因もあり、
昔の日本には日本なりの、それに代わる摂取栄養源があった、と。
(そういえば以前、○○乳業の子供向けの紹介冊子から、
牛乳がこれだけ供給されるために、
乳牛たちは常に、人工的に妊娠・授乳状態にある、という話を読んで驚愕し、
申し訳なさとともに、無知に恥じ入った覚えがある。。)

まあわたしも、本当のところを自分で調査したり実験したりして確認したわけでないので、
うのみにせず、いろんな意見のひとつとして受け入れるように気をつけているけれど、
逆の意味でも、常に柔軟な頭とこころでいなければ、と思うようになった。
自分の「常識」が作られるまでの年月なんて、わたしの人生ではほんの20〜30年。
その間過ごした時代の考え方や、親の常識だけを基盤に、作られているもの。
けれど、いろんな状況が、時とともに常に変化しつづけているのに、
そのたった20年でさえも、前と後では、ずいぶん違ってくるはず。
そう考えると、長い時間、同じ常識にとらわれ、こだわることは、
よりよく変化する=成長を妨げることになる、と、
そしてそのうち、状況の変化に対応できなくなる、と、思うのです。

けれど、常識があるからこそ、ひとつの時代の中では秩序が保たれる、とも言える。。

常識に頭を奪われすぎないように、状況の変化にどう対応していくか、
その時々、柔軟に考えることが大事なのでしょう。。
バランス、ということは、どんな場合にも、必要なことなのでしょう。



虫の声  8/11

梅を干し終え、ほっとしたその日の夜。
洗面所に入ると、浴室に面した窓から、美しい虫の声。
コロコロコロコロ…と、本当に美しく、響きわたるのです。
気付けば、今週は、立秋でした。

外に出ると、月が、満ちるのにあと少し、といった風情で光っています。
夜の風、月の光、虫の声…
暦どおりの、確かな秋の訪れ。
ふっと、心の力が抜ける気がする。



完了  8/11

梅を干す作業、3日目の今日をもって、完了としました。


うめぼしちゃんと、記念撮影。↑「やったー!かんせいー」

時折雲がかかることもありましたが、連日の強い日差しの下、
梅のようすを見ながら、ときどき裏返して。
2日目に、梅酢が染みだしてくるのがあり、あわてて干すのを切り上げたんですが、
やはりもう1日干したほうがいいと母に聞き、
かなりいい状態(透明感が出て、皮をつまむと、手の甲の皮をつまんだみたいになる)のものを除き、
状態の悪い固い梅は少しもんで、干しつづけました。
最終日は梅酢に戻さないと作り方にありましたが、暑いこの地域では、
干しっぱなしにしても夜露が期待できそうにないので、結局、梅酢のなかに。

紅しょうがを作ろうと新しょうがを買ってあるのに、梅酢がひたひたになってしまい、
別にするにはちょっと、少なすぎるかな…と、冷蔵庫に眠ったままです。
さてどうしようか。

干し終えて初めて、試食をしてみました。
これが。。とってもおいしーい!!!
期待どおりの、大好きな、塩味の梅でした!!
実は、砂糖やはちみつ入りの、甘い梅干しは苦手なんです。。
実家から数年前にもらったものは、甘かったのでどうしても箸がすすまず…
これでやっと!好みの味の梅干しが食べられます。
しかも、無添加。
まだもう少し。。あと2〜3ヶ月は熟成してからになりますが、とっても楽しみです。



ついに…  8/9

ついにこの日がやってきました…。
我が家の土用を、迎えることができましたっ。
こういう時、やっぱり、神さまに感謝しますね。。


7月の台風以降、いったん涼しくなって、あのギラギラ太陽がおとなしくなってしまい…
(漬けてから1ヶ月は置きたいとあったので、台風前はムリだったんです。。)
そのまま夏休みに突入し、夏祭りや、不安定な天候、人と会う機会が続き、そして帰省。
いつ干せるんだ〜と焦りを感じながら、大阪で晴天を見守る日々…
やっとすべての予定が終わった昨日、やろうとしたら、晴れのち雷雨の天気予報。
そして、迎えた今日!真っ青な空!
明日からも、しばらく晴れときどき曇りの予報。
梅雨明けのギラギラ太陽は、すでに残暑のような日差しに変わっているけれど、
夏の太陽には、変わりない。
とにかく、お盆までに干せてよかったです。
おいしい梅干しに、なりますように。。



記憶  8/7

チャリティー・コンサートに行ってきました。
発起人・さだまさし・南こうせつ。ゲストに、山崎まさよし、一青窈。
全体に堅苦しさはなく、バックメンバーも始終楽しそうに演奏していて、トークも適当。(笑)
まっさんはこうせつさんの歌の間、パーカッションさわったり、カメラ持ってステージから客席撮ってたり…
子どもたちががさがさして、最後には眠くなってしまい、
集中して見られなかった感もありましたが、
それぞれの歌や雰囲気のよさが楽しめて、ジョイントコンサートもいいな、と思いました。

びっくりしたのが、飛び入りゲスト。
なんと、スターダスト・レビュー!!なんでー?!
飛び入りだったので2曲だけでしたが、生で聴けて、大感激でした!!
コンサートのしめくくりでも、彼らはその場で初めての歌を(笑)一緒に歌い、ハモり、すごい〜!!
トークまで会場大爆笑でしめてくれて、まっさんも大笑いしてました。。
オットも大爆笑。。

スタレビといえば、わたしにとっては、フォークソング部の思い出につながっていく。
思えば帰省前、ギターを久しぶりに、マメができるくらい弾いてから、
フォーク部の先輩に、10年以上ぶりに会いにいく機会があったり、
なぜか、合宿した場所を25年ぶりに訪れることになったり。
そして今日のスタレビ、要さん。
歌を聴いていたら、要さん大好きだったあやおちゃんのこと、
あの合宿で、文化祭に向けてスタレビを歌っていたりえちゃんの美しい声、
いろんなことが次々と、まさに芋づる式に連鎖して、よみがえってきました。
フォーク部がすべてだった毎日。
卒業しても、フォーク部がなければ、自分がないというくらいに、
深く愛していた仲間と、歌と、ギター。たくさんの思い出。
いつか四半世紀の時が流れ、あの頃のようにあの時代を強く近く、必要としなくなっていた…
けれどこうして、たった1曲の歌から、数分の歌の世界から、
あの頃の強い思いや懐かしい記憶が、むせかえるようなにおいを持って、あふれだす。
あの時代の感覚はすっかり忘れたかのように日々を生きていても、
確かにあの時代は、わたしの中に住んでいる。わたしを作るもののひとつになっている。
そんなことを、胸いっぱいのせつなさとともに、感じたのでした。