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今月のまとめ的語録  5/31

小さい坊ちゃんの「しずく」発言以降も、おもしろ発言は飛び出しています。

ある日曜日の朝。
玄関先でふたりがさわいでいる。

「毛虫がいる!足がいっぱいある!逃げた!速い!」
「速いやろー。足十何本ぐらいあるもん。」
えー毛虫って、そんな足早くないやろー。と思いながら見にいくと、
すみっこに小さいムカデがいました。(笑)
「わーっこれ、ムカデやんかっ!!」
「ムカデー?」
ムカデを知らない子どもたちは、のんきなものでした。(笑)

また、ある日の午後。
帰宅後の小さい坊の国語のノートをのぞくと、
「美人化」の文字が目に飛びこんできた。
ぴーんときた。
「いじゅー?これ、詩の勉強?」
「せやで。」
よく見ると、やはり。。
「枝が…広げ 空を指さす」と写してある下に、「美人化」
「いじゅー?これ、ぎ人化って言って、人の動きにたとえてるってやつちゃうのん?」
「あーそうかなあ。美人化って、聞こえたから。」
こちらもまた、のんきなもんです。。(笑)

また、ある朝。
元気よく起きてきた大きい坊ちゃん、開口一番、
「腎臓検診するわ!」(爆笑)
ま、わたしたちがそれを普通、「検尿」とか「採尿」とか呼んでいるから、
可笑しいだけかもしれんけど。。

最後は、小さい坊ちゃん、おやつの時間に。

かの有名な「CHOICE」というバタークッキーだったんだけど。
パッケージを見て食べながら坊ちゃん、
 「これー、『こいけ』?」(笑)
ムリにローマ字読みすると、たしかに、そうかもね。。



音楽  5/29

懐かしい音楽を聴いていて、気付いたことがある。
ひとは、自分の心を感じるために、音楽を聴くのだ、ということ。
自分の思いを、確かめるために。そして、知るために。
心に感じたものを言語化する前の段階で、音楽はそれに同調してくれる。
ことばにするより、確かに、「こころ」に近いもの。かたちのないままのもの。

自分の感じた気持ちをそのままに、ひとつずつ、
自分で咀嚼して認めてあげること。
そうすることが、心も体も、癒されるために必要なことなのだ。
それを気持ちの段階で放置すると、いつか、体に現れてしまう。
そうなる前に、、、
自分の気持ち、心をおいてけぼりにしないことが、実は、目に見える健康の秘訣でもある。

今はたくさんのセラピーの方法があるけれど、
自分に合ったそれを求める人も、たくさんいるけれど、
音や色や香りや、(不思議にそれは、五感をとおしたものだ)何かをとおして、
「ほんとうの自分の心を『知る』こと」で癒されている、ということなのだと思う。

そんなことも知らず、反射的に動く自分を俯瞰する自分の目も発見できず、
意識的にそれができなかった時代、わたしのこころは必ず、音楽とともにあった。
わたしには、音だったんだ。

そしてもうひとつ、音楽は、聴いていた時の思い出と思いとともにあり、
時が流れるとその頃の自分にも出会わせてくれる、という、
不思議なちからも持っている。

そんなことを考えながら、懐かしい歌を聴いている。



今年もまた  5/28

ジャスミンにひきつづき、今年もまた。


がんばってらっきょう2kgを漬けました。
昨年は3種類の味で試してみて、今年は、いちばん好きだった味に統一。
2Lの小型びん「まめ丸」くんに、全部入らないのでは?!とどきどきでしたが、
(昨年は、小びんふたつにも分けていたので)
なんとか、昨年のびんひとつと手分けして、納まることができました。
らっきょうたち、押し合いへしあい、びんのふちであっぷあっぷ。

昨年の反省点→洗いらっきょうがシーズン終わりには傷みかかってる!!
         →泥つきらっきょうの場合、芽の部分を思いきって落とす!!
そんなわけで今回は、昨年より1ヶ月近く早く、
しかも前週より+400エンも高騰した洗いらっきょうを避け、
泥つきらっきょうの芽をしっかり落として、漬けましたっ。
お味見できる日が、楽しみです。。

それと、キッシュの画像。
フィリングは、いためたベーコン、たまねぎ、ほうれんそう。


結婚記念日に焼きました。
昨年の生地の残りで。(笑)ラクラク。
このままいくと、来年のぶんまで生地が冷凍されていることに…。
でも、とってもおいしかったです。ぶらぼー。



自分をおさえつけているもの  5/25

「自分はどんな人間か」を、実は知らない、ということも、この頃、思う。
それは表面的な自我を超えて分け入ったところにいる、
「真実(ほんとう)の自分」のこと。
ふだんは、自分をおさえつけているものになんと翻弄されていることか。
それもまた、「自分」なのだけれど。

「自分が本当に、いちばん幸せな場面を思い浮かべる」という一文に出会い、
考えてみたら、それが分からなかった。
そのことと、そのことに気付かず生きていた自分に驚いた。
もちろん、日々のなかで、小さなしあわせはたくさん見つけるけれど、
「自分の至福の時」というのが、想像できなかったのだ。

わたしは、本当は何が好きで、何がきらい?
どんなときに、どんなものに、どんな反応を返しているんだろう?
子どものころ、とても楽しかった記憶は何?
とても悲しかったり、嫌だったりしたことは何?
憧れたものは何?大人になりたかった?子どものままでいたかった?
・・・・・・・・・・・・

少し前、ネット上で、「○○について、100の質問」ってよくあったけど、
それをHPのプロフィールに入れたくて、入れられなかった。
思えば、人の反応ばかり気にして会話するようになり、
自分に質問を投げかけるのが、とても苦手になっていた。
そして、それに答えることも。
自分を主張することもまた、おさえつけていた。自分で。

今になって、気持ちを静かにして、自分にひとり、問う。
(わたしは、ほんとうは、なにがほしかったの?)

欲しかったもの、食べたかったもの、を手に入れて、自分に取りこんだ時、
それをとおして得られた、「目に見えない本当のほしいもの」が何なのか、
また、それすらも実は「代替」だった時、その向こうにあるものは何なのか、、、
ひとつひとつ、感じるように練習中。

今夜は、あのCDの静かなピアノの音と、優しい舌ざわりのアイスクリームを少し。
オットーと「おいしいなー」といいながら食べている、その時間の中に、あるもの。



魂の音  5/24

普通の流通ルートで買えないCDが欲しくて、
そのピアニストのHPから、直接申し込んだ。
そうしたら、ていねいな受注メールが、スタッフさんからと、
なんとご本人さんからも!
(それぞれが違うアドレスで、署名もあったので、ご本人さんだと思うんです。)

そのひとのピアノは、今まで聴いてきた、どんな音とも違う。
好きな音楽はたくさんあるけど、「聴かせる」プロである以上、
どれも聴衆を意識した作品なのは、当然で。
それがそのひとの音は…「ただそこにあるだけ」の音楽なのです。
それは聴いているわたしにアピールもしてこないし、そっぽも向かない。
まるで森の中にいるような、風の中にいるような、
木や草のそよぎのような、
ただそばにいて、寄り添ってくれる、そんな音。
きっと、このピアニストさんは、
自分の魂が求める音を汲みとって、自然に表現できる人なんだ、と思う。
それが聴く人に変に媚びず、むしろ聴く人の魂に直接響く、そんな音になるんだ。
そう思っています。

ああ、、、メッセージうれしかったな。



心の渇き  5/22

ということを、ずっと説かれてきて、
ある日突然、ようやく、その意味が心に「落ちた」ような気がする。

それに気付き、感じるには、自分自身の心と体の動きをよく見ることだ。
自分が本当は、何を求めているのか。
人は常に、何かを欲し、求め、それを得ようとし、得て満足し、
そしてまた欲し…ということをくりかえしている。
それをくりかえして、生きつづけている。
それは、そのものがほんとうにほしいものか?
その奥にある、自分の心と体は何を求め、何に満足しているのか?
「自分」の理性と感情の動きに翻弄され、
「自分」が何を見て何を感じ、どういう言動をとっているのか、
実はまったく、観ていないのだということに、最近気がついた。
ただ、自分の持つパターンから反射的に行動し、次のことを考えているだけだった。
人は、頭と心で生きているのではない。
その奥にある、何か。深いところにある、何か。
それを見つけ、従うことが、「心の声を聴く」ということ。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。・・・・・



わたくしといふ現象  5/20

このごろ、ふと思う。
生きている周辺で起こること、また自分自身が生きていること自体、
ただの「現象」でしかない、と。
ただ、そのように現れてはまた変化し、あるいは消えてゆく、
すべてとどまることのない現象なのだと。
それ自体に意味はなく、そこに感情や意味などの色づけをしているのは、
それを見ている自分自身なのだ、と。
だから、すべての人々やその周辺、できごと、なにもかもが、
それを色づけした情報として受け取っている、自分自身の心の投影である、と。

わたしに見えている世界は実はわたしひとりのもので、
周囲の人たちも、ひらひらの紙の人型が演じていて、それらも正体は自分自身。
舞台にたったひとりで立っているだけ、のひとり芝居。

だから、
自分自身の心の声を深いところで聞き、
その声に従うことは、自分に見えている世界を変えることになるのだ、と。
そう考えると、何もかもがわが身を省みることにつながる。
いや、
省みることもしなくていいのかもしれない。
このようにある「わたくしといふ現象」を、ただ「知る」だけでいいのだ、とも。

生きている中で、こうした真理にいきあたる度、
それをさらりと文章に綴っている、宮澤賢治のすごさを思い知る。
若かった頃よりずっとずっと、
彼への敬愛の想いが深くなっていく。

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わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

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(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

あらためて、この一文には驚く。
そのとおりだから。
それだからこそ、「自分を見つめる」ことは、何より大切なことなのだ。
そこにすべての、答えがあるから。
自分自身が、すでに答えを、知っているはずだから。



大雨のなかでも  5/10

雨つづきの予報にびっくり。
こないだまで寒かったのに、もう梅雨のはしりなのかな〜。
暖房も、ホットカーペットも、冬の布団も衣料もまだまだ、出しっぱなし。
晴れ間にぼちぼちと、片付けるしかないな。

大雨になった午後、帰ってきた小さい坊ちゃんの名言。
(傘をたたみながら真剣に)
「ひとつひとつのしずくがいろいろな方向から来るから、どこに傘を向けていいかわからない!」
(大爆笑)

意訳しますと、
「雨が吹き降りになって、傘をさしていても濡れてしまう。」
って感じでしょうか。(笑)

NHK教育・「シャキーン!」でやってる、
「まわりくどいTV」のコーナーみたいな発言で、笑えました。



「今年もまた 咲きました」  5/10

20数年前の、懐かしい歌の歌詞のように。
今年も約束どおりに、ジャスミンが咲いてくれました。
昨年の花の後、2回に分けて刈り込んだので、
つぼみの数を心配していましたが、なんのその、でした。


雨が降り出したので、あわてて撮りましたが、撮っておいて、よかった!
この後の強い長雨にかわいそうなくらい打たれ、花びらが半透明になっていました。


今年はフェンスの外側だけでなく、内側にもびっしりつぼみがついて、むしろ花の数が増えたような。
おかげで玄関が、花のアーチができたような華やかさです。
そして何より、香りがものすごい!
玄関先はもちろん、家じゅうの窓を開けるたび、ふわっと香ってきます。
ジャスミンの精油って、1kgとるのに1トンの花びらが必要なんだそうで、
精油のなかでもとても高価なものだとか。
それをこの時季限定とはいえ、リアルタイムで、生の香りを24時間かぎつづけられるなんて、
とんでもなくぜいたくな話です!クレオパトラも、うらやむかも。(笑)

このハゴロモジャスミンは、結婚した年に、遊びに来た大学の友人にもらったもので、
前の家の庭から引き抜いて、またここに植えなおしたものです。
植え直して、早8年目の春。
前の家ではこんなに花がついた記憶はないのですが、(葉っぱとつるはすごかったけど)
ここ数年、花の勢いがものすごい。
それと時を同じくして、この脇にある樋が詰まりだした。(笑)
根っこが花以上に、すごいことになっているのかも…。
見えないところがしっかりしているからこそ、こんなに花を咲かせることができるんでしょう。
ほったらかしにしているのにね。いつも季節を忘れず、咲いてくれてありがとう。

…花の季節が終わったら、樋の下を掘るつもりでおります。(笑)



子どもの日  5/8

今年は飾る時期が短くてゴメンナサイ、のかぶとを片付けました。
同じく、こいのぼりも。


そしたら、片づけている途中で、むーが乱入!!
なぜか、パパのサングラスをかけてます。(笑)
むーちゃん、かぶとみたいにかっこよくして、ここに座ってみたかったのね。



ダンシング・チャップリン  5/2

周防監督の新作、観てまいりましたっ。『ダンシング・チャップリン』。

オットーがチャップリン好きだった影響で、わたしも学生の頃にかなり観たチャップリン。
偶然、テレビで監督夫妻のトークを見る機会があり、新作が紹介されていて。
おっと思ったのでしたが、オットーもどこからかその情報を得たようで、
映画を観たいと言いはじめ、子どもたち遠足のすきに!出かけてまいりました。

トークで前情報を得ていたのでしたが、構成が面白い。
特に第一幕、映画のメイキングにぐいぐい引きこまれました。
そして美しいバレエの舞台、第二幕…
元ネタ(?)を知っていたから楽しめたというのももちろんありましたが、
やはり映画と違い、ストーリーよりバレエやダンスの美しさがメインですね〜。
共通点は、「音楽ありき」ということなのかな。
チャップリンの息子さんの、
「チャップリンというキャラクターを借りて、モノマネではなく新しいことをする」
ということばが、とても印象的でした。そして、そういうバレエ、映画だと思った。

凡人のわたくしの、いちばんの感想は、
舞台に立つ人の、裏側の努力に打たれた…というところでしょうか。
プロの世界では当然なのかもしれませんが、
情熱的に、ただまっすぐに、作品を作り上げていく姿に、感動しました。