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Okinawa  3/29

3月も終わる頃、初めての沖縄に行ってまいりました。
総勢9名の大移動。那覇空港で、現地集合・解散。(笑)


あたふたしながらついていったワタクシ的ツボは、これらでした。↑
首里城の門前のシーサーたちが、シロツメクサの花輪をかぶせてもらっていた。(笑)
帰り道、門から下ると、小さな原っぱにたくさん咲いていたので、
誰かが編んで、載せてあげたんだなと、ふっと胸があたたかくなりました。
撮っておいてよかった。

その前日、大目玉の美ら海水族館にて。
あの「2355」に出演、我が家で大人気のトビハゼのトビーくんがいたのですっ!!
バックに、あのブラームスのワルツが聞こえてきそう。
子どもたち、大喜び。(ある意味、マンタより喜んでいたかも。)
そして、エイのカオ…ぼやけちゃいましたが、まさしく、「アハハッ」です。(コーナに載せます)

それから。。以下、旅の終わりの、おぼえがき。

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気温は春なのに、太陽高度が夏のよう。不思議な気候。

虹がたくさん見えた。(空の虹でなく。)
空気のつぶつぶ、水族館の水槽、木漏れ日、
いろんなところ、ふと目をやった先に、小さな虹を見る。
神さまがいる、と感じた。

どこでも爆笑発言。
浜辺で拾ってきたサンゴを見せながら
「ママ!生きて死んだサンゴ。」(by 小さい坊)
朝のバイキングにて
「何とってきたん?」
「(二人そろって) Dポップ。」←さーたーあんだぎーやろ!

琉球王国の歴史
沖縄、美しい南の島、武力に翻弄された悲しみ、
広島、長崎とともに、大切なことを伝える使命を負ったまち。

ホテルにて、原発ニュース、次々と。
放射能は、原子力発電所の「血」なんだ、とふと思う。
血を流して、原発も苦しんでいるんだ、と思った。

帰りの機内誌、
鈴木重子さんのことば、浅田次郎さんのことば。
「うまく歌おうとすると、うまく歌おうとした歌になる。
 本物の歌を聞いてもらうには、玉ねぎの皮をむくように、一枚一枚自分をはがしていって、
 表現していくしかない。そうして、ありのままの自分を認められた時、本物の歌が歌えると思う」

「ふだんの生活の中でも、身の回りのあちこちに神さまが鎮座ましましていて、
 わたしをただ見ている。屋久島はそれが顕著に分かる。」

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美しい海。高い太陽、空気に漂うたくさんの虹。
自然と調和して生きる、ことを思った旅でした。





坊の語録  3/28

やっぱりそれは、ちいさい方の坊なんですが…。(笑)

学校から持ち帰った、「ブレーメンのおんがくたい」の絵。
パステルと水彩絵の具を使って、とてもじょうずに書かれていたので感心して、
「すごいなー。これ、何も見ずに、話だけ聞いて書いたんやろ?」ときいた。
「せやで。」
「この、いちばん前の…これ、犬やっけ?」
「ロバやで。」
「ロバ!写真かなんか、見て書いたん?どんな動物か、知らんやろ?」
「先生にきいた。きいたらわかった。
 『馬みたいな。馬の耳が長いバージョンで、はいいろ。』」(爆笑)

先生が、そんな言い方するわけないんです。(笑)
坊ちゃんの、解釈の再現だと思うんです。(笑)
いやー笑いました。
しばらく我が家では、「馬の耳が長いバージョンで、はいいろ。」がはやりました。(笑)



主人公  3/27

FNS音楽特別番組・「上を向いて歩こう」を観ました。

まさしさんは中継で出演でしたが、ことばも歌も、すばらしかった。
そのなかで、聞いた瞬間に、涙があふれたことばがあった。
「『それでも天を恨まず』と言った彼の言葉を、僕は一生、忘れません。」と。
わたしも、まさしさんが話した、そのニュース映像を見ていたから。
わたしも、その中学生の男の子のことばに、瞬時に打ち抜かれたから。
たくさんの人の心につきささった、卒業式の答辞。
魂を強く揺すぶられた思いで、なみだが止まらなかった、あのニュース。
そして、「主人公」
誰かへの励ましや応援ではなく、自分の道を振り返り、生きて在ることを肯定するうた。
「がんばれ」と他者へ言うのではない、「自分を生きる」決意のうた。
このうたに、わたしもどんなに励まされてきたことだろう。

なみだが止まらなかった。
まっさん、ありがとう。



ぽかぽかおふろ  3/25

坊っちゃんたち、おふろから出てきて、
「あーさっぱりしたー。ぽかぽかになった。」と言う。
「おにいちゃんごっこしててなー。みんなで、温泉に入ってるっていうことにして、
 そのお話ししながら入ってたら、ほんまに温泉に入ったみたいに、ぽかぽかになった。」と。

おにいちゃんごっこって、坊っちゃんたちが小さい頃からやっている、
学校ごっこのことなんです。
我が家のぬいぐるみたちを総動員して(笑)、坊っちゃんたちが運動会前なら運動会、
学芸会前なら学芸会と、自分たちが先生になって、いろんな授業や行事をやるんです。
それが今回、旅行にいって、温泉に入った!っていう設定になったらしい。。
「きもちいいねえー」
「ぽかぽかするねえー」
ぬいぐるみをおふろに入れてるわけじゃないんですが、声だけ出演(笑)でやってるんです。

「つもり」って大事だと思う。
「小公女」のセーラや、ポリアンナもそうだったなと思いだす。
鈴木秀子さんも、「as if〜」あたかも○○のように、というシェイクスピアのことばをひいて、
「幸せな自分を演じ、なりきること」を推奨しています。
心がそう思えば、脳もそう反応するんだそうです。
実際にそうであるかのように、脳が勘違いするんだそうです。

子どもたちには、そんな力をずっと持っていてほしい。
そして、どんな状況でも、自分の脳をじょうずにだまして、しあわせな気持ちでいてほしい。
「子どもの空想あそび」なんてばかにせずに、おとなこそ、その力を見習いたいと、
そんなことを思った「ぽかぽかおふろ」でした。



  3/23

お昼ごろ、ふと思いたって水やりをしたら、二重の虹が見えた。
太陽の位置が高くなってきて、シャワーの水がきらきらしてる。
二重の虹は、空でもときどき見られるけど、
主虹と副虹といって、間から対称に色が分かれていて、とてもきれい。
ああ、対称になってるなあ。。とまじまじと、シャワーをながめる。
暮らしのなかで、小さな虹を見つけた日は、幸せな気分。
最近見ていないけど、わたしにとって、「ポトスのしずく」と同じもの。

ローズマリーの白い花が次々と開き、
今年はあきらめていたクリスマス・ローズの白い花のつぼみが開き、
陰に隠れていたムスカリとフリージアのつぼみを発見し、
ブルーベリーの新芽が伸びて、葉芽と花芽が分かるようになり、
家にとりこんでいた、ユーフォルビア・ダイヤモンド・フロストの新芽が葉を開き・・・
申し訳ないくらいほったらかしにしている植物たちが、約束どおりに、季節を生きる。
そんな息吹をひとつひとつ見つけることもまた、日々のちいさなしあわせ。



メジロ  3/22

実は、写真がランダムに2枚、出ます。
きりっとしたのと、とまってる足がかわいいのと。
同じ子なんだけど、表情が違っていて、迷いました。
満開の時は、窓を開けていたら風に乗って、
家のなかまで梅の香りでいっぱいです。
アップするのが、ちょっと遅くなってしまいました。



小噺  3/21

長い重い話を続けて書いてしまったので、カオナシならぬコバナシをふたつ。

昨日のこと、お昼ごはんを作っていたら、大きい坊ちゃんが叫んだ。
「あーっ!『ござる』やー!登坂淳一アナウンサー!!」
「えっ?!」と、わたしもテレビの前にあわてて移動したら、そこには、
見たことのある、アナウンサーさんが(笑)ニュースを読んでいました。
「あーっこの人やったんかっ!知ってる知ってる!前はよく見たのに。。」
そういえば、さだまっさんが、「彼、北海道行ったんだよね」って言ってたっけ。
きっとピンチヒッターで、東京に呼ばれてるんだ。。

今ではほぼ毎月末の週末・深夜にやっている、NHK番組「生さだ」。
さだまさしさん(おはがきキャスター)が届いたはがきをゆるゆると読むだけの番組なのですが、
このなかで、「俺、NHKのアナウンサーが好きで、あだ名つけてるんだよー」という話が…。
「・・・でござる。」と言ってほしいアナということらしく、
まっさんの中でだけ、名前が「ござる」なのだそうです。(笑)
それは登坂淳一さんと、先回の放送で名前も出ていたので、坊ちゃんが知っていたというわけ。
いやー大ウケでした。
とってもいい声、落ち着いた感じの方ですよ。

もうひとつ。

東京の友達から電話があり、近況報告していたら、スーパーのモノの話になった。
こちらでも保存のきく食品や物の売り切れが目立っていたので、
ふたりで「困るよなー!」と話していたところ、、、
「でもなー。こんななか、ビールや酒は、山積みなんやよなー」と彼女が言う。(笑)
「そういえば、こっちでも、ビールは山積みやったわ!」と言うと、
「せやろー。そやから、酒造業界に貢献するために、ま、私はビール買ったろ!って買った。」(笑)
「そうかあ。じゃあ、わたしも酒造業界が落ちこまへんように、今日はビール飲もかな。」

そんな会話を交わした翌日、「首都圏の買い占め!スーパーでは…」の映像を、偶然見た。
うわあーっと店内に押し寄せる人ごみ、空っぽの棚。
そのすみっこに確かにビールが山積みされていて、まさに話どおりで…笑ってしまった。
「ほんまやなあ、K子!」と思わず、テレビに話しかけてしまったやんか。



カオナシ  3/21

朝のニュース情報番組で、断水している地域の方が、
山のわき水を汲んで、暮らしに役立てているという。
昔はみんなそこを利用していたが、水道が整備されてからは使用されていなかったらしい。
地震後にコンクリートをみんなで割り、間口を広げたとのこと。
汲みながら、「神の水、神さまを拝んでいただく水という気がする」とおっしゃっていた。
そのおばあさんの赤い頬と笑顔とともに、胸に染みた。

そんな気持ちで、水や、電気や、ガスを使ってきただろうか、と、自戒する。

昨年の日記に、「生きるのに必要なものは?」の問いに、
富良野塾の若者は「水、火、ナイフ」と答え、
渋谷の若者は「携帯、テレビ、車」と答えたと書いた。
確か、批判的なことを書いたような記憶があるけれど、
水、火、ナイフ(道具)は生命の維持に絶対不可欠でありながら、
渋谷の若者の答えも、今回の災害のなかで、大きく役立ったと思った。
使う人間の意識次第で、化け物になってしまうのが、後者なのだと気付いた。
「カオナシ」なのだ。

電機やさんに入ったら、テレビのデモンストレーションが2/3ほど停止されていた。
「節電のため電源を切っております」という貼り紙を見て、
「どうしてふだんから、こうでなかったんだろう」と衝撃を受けた。
そして、「なんて無謀にエネルギーを消費してきたんだろう」と後悔の気持ちに襲われた。
たくさんのテレビつきっぱなしの店内の様子に、慣れきっていた自分に、ショックを受けた。
ここにも「カオナシ」だ、と猛反省した。

「原発が怒ってるんだ」と感じた時、最初に巨神兵を連想した。
エネルギーを大量に消費しつづける人間の欲望のままに働かされ、崩れていく、巨神兵。
一生懸命働いている発電所や、電気を作るすべての人、ものへの想いも何も、ないことに怒りながら。
それはやはり、人間が無意識のうちに作りだした、化け物になった「カオナシ」でもある。
今、それと必死に取り組む人たちに申し訳ない思いを抱きながら、
わたしにはただ、祈ることしかできない。
原発に「ごめんね」と謝りながら、「ありがとうね」と感謝しながら。
すべてのものに意識がある、と教えてくれたのは、やっぱり宮澤賢治だった。

暴走する化け物カオナシに、湯屋の人たちは恐怖し逃げまどうが、
最後には、もとのカオナシ自身に戻り、自分のいるべき場所に帰っていく…
ニュースで見た山のわき水のように、
利用する人から感謝され、存在を認められ、事態が無事に収拾しますようにと、、、
心の深いところで、いつも祈っています。



春分の日  3/21

おとといは、19年ぶりと言われる月の大接近があり、
満月がとても大きく、きれいでした。
「エクストラ・スーパー・ムーン」というらしい、と友達が教えてくれた。
スーパームーンについて、先日聴きにいった講演でも触れられていたので、
不思議な気がしました。

数日間の寒の戻りの後、強い風と暖かい雨がすっかり春を運んできました。
そして春分の日。
もう、昼と夜が、同じ長さなんだ。9月と同じなんだ。
そう考えると、これも不思議な気がします。

宇宙はいつでも、動いている。
人間にははかりしれない、大きな恵みのなかで。

昨年偶然手にした本、『愛と癒しのコミュニオン』(文春新書)。
著者の鈴木秀子さんは聖心会のシスターで、大学の先生、また、
NPOコミュニオン学会の代表でもいらっしゃいます。
この本で傾聴=アクティブ・リスニングについて知り、
また、それをとおしての、人と人の心のつながり、生きることの知恵、に触れ、
深く感銘を受け、ほとんどの著書を一気に読み、
昨夏、東京まで講話を聴きにいってきました。
よりよく生きるためにどうしたらいいのか、
そして、人生の辛苦に出会った時、どう対処すればいいのか、など、
頭の中だけでなく実際にできる、具体的な方策を説いてくださるのです。
心理学や文学の知識だけではない、心に直接響いてくる言葉は、すばらしいです。

その鈴木先生のブログが準備中ということで、楽しみに待っていたのですが、
奇遇にも地震直後の開設となり、たいせつなメッセージが次々と届けられました。
鈴木さんがお話しされた精神科医の先生の意見も載っていて、
わたしの思っていたことと一致していたので、少しうれしかったです。
そして、昨日アップされていた記事・「明日に向かって」の、
『週刊ポスト』4/1号の巻頭のことばの引用がすばらしくて。
ブログのリンクを貼っておきます。ぜひ、読んでみてください。

鈴木秀子さん・オフィシャルブログ

鈴木さんの著書で、とてもよかったものも、
自分の記録として書いておきます。(読んだ順番)

『愛と癒しのコミュニオン』
『心の対話者』
『奇跡は自分で起こす - 幸せになる1ミリの法則』
『臨死体験 生命の響き』
『シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日』
『あなたの心が光でいっぱいになる本』

わたしは、特定の宗教を支持するとか、そういう気持ちはまったくありません。
「こころ」を理解し、「生きること」のゴール、死を迎えるまで、
自分がよりよくなっていくためにはどうすればいいのか、を無心に求めています。
宗教・哲学・心理学は、人間の見えない部分を明るくするために、
過去からたくさんの方たちが研究してきたことです。
そしてそれは今や、脳科学や量子力学など、科学とつながりはじめている。
ふた昔前には、超能力だとか、目に見えないものはあやしいとか、
そう言われていたことが、実は身近なものだとみんな、気付きはじめている。
目に見えないものがあやしいというのは、目に見えないことを利用して、
悪いことをしようとする人間がいるからそういう先入観を持っているのであって、
慎重にそれを見極める必要はあるけれども、決してあやしいものではないのです。

驚くべきことに、宮澤賢治は、100年も前に、「科学と宗教」ということを伝えている。
「農民と芸術」ということも。
「けっしてあやしいものではありません」といいながら、
おきゃくさんを食べようとする「注文の多い料理店」だって、
人間の、おごった部分を映しだすお話でした。

書きたいことが、収まらなくなってきたので、今日はこのへんで。
ま、あえていうなら、わたしは中学1年の時から、
現在まで変わることなく、「さだまさし教」です。(笑)



  3/17

数日前、柏原さんからメールをいただき、
ご無事とうかがい、安心しました。ありがとうございました。
しかしお家や近辺の状況は、大変なことになっているそうです。

連日のニュース報道も、ワイドショーのような雰囲気になってきて、
その空気に気持ち悪さを覚える。
それが支援したい、という心につながっていくなら、意味あることだと思う。
けれどこんな状況を、人々の心を、売り物にしないで!とも強く思う。

一目瞭然とはよく言ったものだけれど、
それだけ、映像の与える印象は強烈だから、
頭や心のなかを一気に塗りつぶしてしまう。
だから、必要な情報は得たいけれど、必要以上にはつけないようにしている。
離れた場所にいる自分までが暗い思いで胸をいっぱいにして、何ができるというのだろう。
それより自分にできることを考えて、動くしかない。

あたたかいことばに触れること。あたたかい心を感じること。
そして、それらで心をいっぱいに満たして、被災地に向けて祈ること。
それから目に見える義援金というエネルギーを直接送ること。
それしかないのです。

いつも見ているブログを紹介します。
あたたかく、そして美しい文章にいつも励まされています。
渡辺俊幸さん
鎌田實さん


話題は変わりますが、先日、学校のかわらばんに、
卒業に向けて、6年生の「将来の夢」が載りました。

「プロ野球選手になりたい」「サッカー選手になりたい」
「パティシエになりたい」「ピアノの先生になりたい」・・・・・
今も昔も変わらないなあ、微笑ましいなあと読んでいたら、
すみっこに、「平和に生きていけますように」の文字。
打ち抜かれたような、衝撃を受けました。

今まで、思いつきもしなかった。
不思議なくらい、「将来の夢」というと、当たり前のように職業名が書かれている。
わたしの頃も、そうだった。
でも、「夢」だもん。よくよく考えてみれば、職業だけとは、なんて狭い範疇。
「平和に生きていけますように」
こんなすてきな夢があるだろうか。
そして、そんなふうに書けるお子さんは、どんなおとなになるのだろうか。
わたしもこの子のように、限りのない夢を持って生きていきたい。
卒業、おめでとう。

人の心は深いところでひとつにつながっているから。
この子の夢にもつながるように、まず一歩。
今から、義援金を送りに行ってきます。



お見舞い  3/12

昨日の朝、日記をアップしたあと、午後の地震に驚きました。
テレビもつらくて見ていられなくて、ときどき情報確認しながら、消しています。
関東方面の親戚、友人のことが気がかりです。
そして、いつも詩を読んでくださる柏原さん、どうしていらっしゃるでしょうか。
とても心配しています。
どうぞ皆様、できるかぎり状況に気をつけて、お体をお大事になさってください。
心から、お見舞い申し上げます。



マスターごっこ  3/11

小さい坊ちゃん、お友だちと去年はまった「マスターごっこ」っていうのを、
夕べ、大きい坊ちゃんとひさしぶりにやっていた。
「マスター、いつものやつ、一杯。」と低い声で言って、ジュースを注いでもらい、
おじさん口調でぐだぐだ面白い愚痴をいう、っていう(爆笑)、そういう遊びです。
たまたま冷蔵庫にパパが買ってきたジュースがあり、
「のみたーい」と始まったんだけど。

「マスター、いつものやつ、一杯。」
(大きい坊、コップさしだす。小さい坊、ペットボトルを傾けるが…)
「お客さん。下に、おいてくれないか。ぶるぶるふるえて入れられないよ!」
(ふたりで大爆笑)

向かいで見ていたわたしも、大爆笑。。
そんなパターン、ありかいっ。
ほんまに、笑いなごみ系な坊たち…。



私的大事件  3/10

今朝の大事件は、実はこれでした。


いや、これで、なみだがとまらなくなったわけではないですよ。(笑)
ちょっと、文章書ける状態になったから、書いとこうと。

ちらし整理して、新聞さっと見て新聞入れに放りこんでから、
「なに?20歳?帽子職人?…鴎外の顔??」で、どひゃー!!と、
もう一度新聞をひっぱりだした!
ついに、エリスのモデルが見つかったとの記事。
1面トップやったのに、その下の、「田原の菜の花列車」しか見てなかった…(笑)

先月、友人にDVDにしてもらった番組、
「鴎外の恋人〜120年目の真実」という90分ドキュメントを見て、
感慨深く大学時代の勉強を思いだしていた、日浅き今日でした。
(ゼミの先生が、「舞姫」研究をされていた方だったので)
そのドキュメントでは、かなり緻密に、いろんな手がかりを求め、
おそらく、この人!というところまでつきとめて終わっていたのです。
それがあまりに本物らしかったので、かなり感化されていたのでしたが、
この記事によれば、まったくの別人だったらしい。
しかも、こじつけめいたところがひとつもなく、最後に記念館の方が、
「論争に決着か」とまでおっしゃっていて。
ながいながい…こんなわたしのなかすら、少なくとも20数年の歳月、
胸のどこかでざわめいていた、この「舞姫」問題が決着とは。
思わず叫びだしそうになりましたが、おかしいのでガマンしました。(汗)
発見者の書かれた、今日発売の本…買おうかな。。



砂上の楼閣  3/10

↓勢いづいてしまい、何を書いとんじゃー!と思いつつ、とまらない。(汗)
今日また、ちょっとした事件があったから。。

小学校3年生の時の、ふたつのキーワードがある。説明はできないけど、
「りんごの皮むき」と「ピアノ」。

何十年と時間をかけて、気持ちも労力もかけて、やってきたことも砂上の楼閣。
↓のために。
自分像…「セルフ・イメージ」の悪さゆえに。
すべてをを支える、基礎工事がないのです。
こんなところで、つまづくと思わなかった。
目が腫れるほど泣けて、なみだがいちにち止まらなかった。
どうしようもなかった。
なんでなみだが出てくるのかも、分からなかった。
どうすればいいのかも、わからない。
どうやれば止まるのかも、わからない。
早く寝たほうがいいな。
考えたら、わからなくて、泣けるから。



変えられないもの…  3/9

昔から、とにかくなにをするにも遅かったわたしは、
「どんくさい」とよく言われてきた。
法事で出会った叔母にも、「お前はいっつも、靴はくのも遅くて、
いとこにおいていかれてた…」と言われた、一昨年。(笑)
いまだに、自分ひとりでやってると分からないごはん作りも、
人と一緒にやると、遅いのがよくわかる…

これを気にして、早く早くと心がせかせかするくせもついた。
特に、人を待たせてる!と思うと胸がドキドキして、苦しい。
ひとりでいるのがいちばんラク。
誰にも、合わせなくていいから。。

でも最近、思う。
とろいとしても、それはもう、わたしの生まれもったリズムで、
わたし自身にも変えようがなくて、
・・・どうしようもない。
早く!と言われても、努力したってそうならないのだから、
どうにもならないでしょう。
考えてみれば、早くする努力も、人に合わせる必要もないのだけど、
そんな自分が悪いような、、、罪悪感を持って、ずっと生きてきた。
そこから出た神経症的な病を、5年生の時からずっと抱えたまま。
(それすら、「お前が悪い」と母に責められてきた。)
これをいいかげん、どうにかしたくて、ずっと苦しんでいる。

他にも、親から欠点として、肉体的なことも含め、
どうしようもないことをくどくどと責められたりもした。
祖母からは、「歯が汚い」とか(笑)
(みがいてこれなら、仕方ないでしょう。。)

おとなたちは、感じたままに、言いたいように言ってたんだろうけど、
まだ自我が完成していない子どもには、それが心に食いこんで、抜けなくなる。
それを基準に、骨組みにして、「自分像(セルフイメージ)」を作ってしまうのだ。
「自分は、こうなんだ」ということを、言われた言葉のイメージ(プラス・マイナスどちらか)で。
そして、負のイメージで自分像を築いた大人は、自分を責めて生きるしかない。
これが世代間でまた、連鎖していく。。
わたしは特に、「苦労してないおまえはあかん」というのが、強い。
「楽しく生きることは、悪いこと」と思っている。深いところで。

でも、どうして、楽しんで生きてはいけないの?
いいことも悪いことも、いい意味で楽しみながら生きていくことはできないの?
努力ではどうしようもないものまで、どうして責められなくてはいけないの?
(それはさらに、「努力が足りない」とか、「根気がない」とか…)
歯並びを、どうやって根気で治すんじゃい。

自分を責めているから、他人のことも責めるようになるのよ。
みんな、このことに気付くべき。
気付いていない人が圧倒的に多い(わたしもそうだった)けど、
人に言っていることは、実は自分自身のことを言っているのです。
感情もそうで、対象に抱く感情の90%は、自分自身の経験・記憶から引き出されている。
(だから、ある事象に対する人々の反応は千差万別、十人十色。
 事象自体は、中庸。きっかけを作った、という意味で、10%。)
すべて自分の抱えているものを、外側に投影して見ている。(「鏡」とは、よくいったもの。)
ゆえに、すべて自分の責任。
よく取り違えられているけど責任=罪ではないのだから、
どうしようもないこと(感情)なのだから、もう、自分を許しましょう。

「自分はこうだから、仕方ない。変えようがない、個性。」と思えれば、
「あの人もああだから、仕方ない。変えようがない、個性。」と思えるでしょう。
もちろん、自らをよりよくしていく意識と努力を持つことは、
大切だしすばらしいことだけれど、それを人に押しつけるのは、お門違い。
たくさんの花がそれぞれの季節に咲くように、
それぞれの人に、いい季節というのがあるのだから。

「自分がこんなにがんばっているのに分かってもらえない」と思っているから、
子どもにも、「なぜおまえはがんばれないの」というメッセージを発することになる。
自分ががんばっているのは自分の人生の問題なのであって、
人に強要したり比較したりする問題ではない。
しかも子どもの時に、なぜ親と同じ目線でがんばらないといけないの?
誰だっていずれは、子ども時代は終わるのだ。限られた、たいせつな時間。
その時にしか感じられないことを自由に感じるのが、なぜいけないの?
わたしは、がんばっていたことを、親に分かってもらえなかった。
それが、次の世代に引き続き繰り越されないように、努力している、今。

「子どもを、またすべての人を、よりよくみちびきたい」と思うなら、
その人自身が、そのように生きる姿を見せるのが、いちばんなのだそうです。
つまりは、自分の問題なのだ、と、ここでも還ってくるのです。
(先月の、講演会の時の日記にも通じる。)
そうか、これが、あの有名な、
「他人は変えられないが、自分は変えられる」っていうことばの意味なんだ。

とにかく…
子どもの心に、頭に、負の感情を呼び起こすパターンを組みこんではだめ。
これを、自分像を築いてしまってから、矯正する本人の苦労を思うと、絶対にだめ。
自分を受け容れる強さの種を、心にまいてあげること。
それが、いちばん大切なことと、今は思っています。
そのためにまず、わたしの心の中に、その種を育てなければ。



わたしがつくったごはん  3/9

先日突然、自分の作ったごはんを、初めて「おいしい」と思った。
家族で、久しぶりに外食した後のことだった。
そこは家庭料理に近い料理を出してくれるところだったので、
もちろんとてもおいしかったのに、
なぜか、自分の作ったごはんの方がおいしい、と思った。
(たぶん、ほっとする、という感覚もふくめてだと思う。)
わたしが作るものは、わたしたち家族にとって、
外のどんなおいしい食事にも勝てないんだ、と気付いた。

そのことを、帰りの車でなにげなく言ったら、坊っちゃんたちが、
「そうやでー。そんなん、いじゅは前から分かってたでー。」と言う。(笑)
そういえば、うちではみんな必ず、ごはんのあとに満足げに、
「あーおいしかったー。ごちそうさまー」と言うのです。
そして、それにまた、わたしも元気をもらう。。

家族以外にとっては、なんでもない(もしかしたらおいしくない)味かもしれないけれど、
少なくとも、我が家にとっては、
「いちばんおいしいごはん」なんだと、初めて認めることができた。
(自分の作るものがおいしいとは思えなかった。今まで。)
家族の健康(体だけでないすこやかさ)と喜びを思って作る料理は、
ちゃんとちからとなって家族に届いてるんだなあと。。
ちょっとだけ、自分を認められたような、気もした。
家族の生きるちからになるごはんを作り、自分もそれに元気をもらうこと。
これこそが自己治癒力で、目には見えない魔法なのかも。

突然、とても食べたくなって、クロテッドクリームまで買いに走って、
数年ぶりにスコーンを焼いた。
外はさくさく、中はふわふわ。
手でそっと割ると、あったかい湯気をたてて、黄金色の生地がお目見え。
そこにたっぷりとクロテッドクリームをつけ、ジャムをのせ、いただきまーす。


おやつにこれを食べて喜ぶ、子どもたちの顔を想像しながら、食べる。
その顔を見ることが、わたしのいちばんの、喜び。



日々に転がるツボ  3/5

坊ちゃんたちはいつも、しょうもないことで笑い転げています。
今日は、「アルマジロ」がふたりのツボだったようで、
なんやかんやと、「アルマジロ」を会話や替え歌に取りこんで、大爆笑。
そのうち、大きい坊ちゃんが、「千の風になって」でアルマジロの替え歌しはじめた。

その替え歌はべつだん面白くもなんとも(わたしには)なかったんだけど、
それを途中まで聞いた小さい坊ちゃんがすかさずひとこと、
「うけなっ。」と言ったのが、わたしのツボにはまってしまった。
隣室で聞きながら、ひとり大爆笑…
「うけなっ。」って、「しょうもなっ。」とか、そういう意味らしく、うけないってことらしい。。
小さい坊語録。。
おかしすぎる。。



あらすじ  3/4

小さい坊ちゃん、水木金と、3日間も学級閉鎖に!
元気いっぱいの坊ちゃんには、たいくつな3日間です。

大きい坊ちゃん、晩ごはんの席で、
自分は途中までしか見られない朝ドラの内容を、小さい坊ちゃんにたずねる。
「『てっぱん』、どうなった?」

その瞬間、小さい坊には、あらすじの説明はできないな、と思った。
でも、「誰が、何した。」くらい、言うかなーと、そこまで考えをめぐらせたとき。。

小さい坊 「・・・『つづく』って、書いてあった。」

ひと呼吸おいて、大爆笑!
まさか、ストーリーすべて、すっとばすとは…
思いがけない展開でございました。

大きい坊 「そりゃー、そうやろ!」
こちらは、苦笑いでございました。。

あーおもしろかった。



おひなさま  3/3

12年目のおひなさま。


作ったのは、大きい坊ちゃんが生まれるより前のこと。
台座は、昨年小さい坊が作ってくれたもの。
ウルトラマン高野豆腐の箱(笑)で工作して、「ひなまつり」の文字まで入れてくれました。

今夜のごはんは、いつもの混ぜずし。
鶏そぼろとにんじんの基本に、しいたけ、れんこんも混ぜて煮て、スナップえんどうを飾って。
三つ葉の入ったおすましに、菜の花といり卵の和えもの。
これが、少しのからしを入れたマヨネーズとうすくちしょうゆであえたら、
とてもまろやかで、菜の花に合っていました。
またつくろっと。



ひとりごと。。  3/1

台所で後片付けしながらだったか、ぼーっと考えごとをしていて、
「あーあ。みんなに、見放されたなあ…」と、思わず口に出してしまった。
そしたらその声が結構大きかったようで、
「なに?!誰に見放されたん??」と、思いがけずオットーに真剣につっこまれ…
「えっ?!シューベルトとか、ショパンとか、ベートーベンとか、バッハとか…」
聞こえてると思わなくて、うろたえつつ考えてたことを言ったら、
「なんのこっちゃー!!」と思いきり脱力されました。。
だから、ひとりごとだってばー。
ぼーんやり、ピアノのことを考えてたんでしょう。

「永久の未完成これ完成なり」
これは、宮澤賢治の言葉。
年を経るずつ、このことばの真実に気付く。
慰められているような、励まされているような、そんな心もちがします。。